第9話

 パチっ。

 パチっ。

 パチっ。

 パチっ。


 将棋の駒を動かす音が部屋の中に鳴り響く。

 それは止まることなく、連続で響いていく。


 パチっ。

 パチっ。


 対戦相手はいない。彼女は一人、黙々と駒を動かしていく。打っていく手は、どれも奇抜であり、定跡にはない手だ。そしてそれらはどれもこれもが無意味ではなく、価値ある手、意味がある手として成立していた。

 そして彼女はどちらか一方を全く贔屓せずに打っていた。


 パチっ。

 パチっ。


 どちらも勝つための手を打っていく。

 戦況は玉側が有利となっている。どんどん王側を攻めていき、追い詰めていた。もう少しで詰みとなるだろう。

 だがそうなる前に、戦況が少しずつ変化していった。

 先ほどまで追いつめられていた王側が、だんだんと押し返してきたのだ。


 パチっ。

 パチっ。


 攻めていたはずの玉側は一転、受けに入らないといけなくなっていた。

 王側たちはさっきのお返しとばかりに責めていく。攻めて攻めて、攻められ、


 パチっ


「お嬢」


 パチンっ!


 甲高い音が鳴った。音は少しばかし響いて、すぐに消えた。


「……」


 詰みまであと4手という所で彼女の駒を動かす手は止められた。止まることがなかった手が止められた。

 彼女は持っていた駒を机に置き、後ろを振り向いた。

 そこには、いつの間にか彼女の背後には黒ずくめの大男が立っていた。


「早いわね」

「いえ……むしろ遅くなってしまいました」


 大男はそう言いながら、自分よりもはるかに小さい女へ頭を下げた。その姿はまるで主従、王と臣下のようであった。


「それで御用と」

「ねぇ?」

「はっ! 何でしょう」

「これを見てどう思う?」


 彼女はまるで男が喋っていないかのように話を遮った。いや、彼女にとって男は喋っていなかったのだろう。自分が世界の中心であり、自身が絶対のルール。自分が白と言えば白、黒と言えば黒となる。そんな絶対的自分主義の思想が彼女にはあった。

 そして男もそれを受け入れていた。何の不満を漏らすこともなかった。不満を漏らさないことは当たり前であり、従順であることが絶対であるのだ。

 男は彼女の指さすものを見る。


 そこにあるのは彼女が先ほどまでやっていた将棋盤。

 王の勝ちがほぼ確定しているという状態のままだ。


「将棋ですか……」


 男は盤面を見渡し、すぐに戦況を把握した。


「王側の勝ちですね」

「えぇ、そうね。王側の勝ちよ」


 彼女は満足そうにそう言った。

 だが次の瞬間その様子とは一変、


「……だけどあと少しで勝っていたのにあなたが話しかけたせいで止まってしまったわ。

 どうしてくれるの? 気持ちが良い勝利があと少しだったの。無駄のない完璧な勝利。不純物のかけらの無い勝利だったのよ。ねぇ、どう責任を取るの? ねぇ?」


 彼女は声に怒気を混ぜながらそう言った。


「人が将棋やっているのが見えないの? 遊んでいるのが見えないの? 楽しんでいるのが見えないの? 馬鹿なの、アホなの、間抜けなの?」


 はっきり言って理不尽ともいえる言葉であった。途中で止められる。中断させられる。

 それは確かに、人によっては止めてほしいことかもしれない。やって欲しくないことの一つかもしれない。

 だがそれはこうも責められるべきことなのだろうか。

 普通であれば否である。

 この程度のこと、「ごめん」や「すみません」の一言で終わるべきような事柄だ。そもそもその一言すら必要ない事柄かもしれない。


「まさか、すみませんで済ませないわよね。たったその一言で済ませようなんて思っていないわよね」


 だが彼女はそれを許さない。それでは許さない。

 自分の時間を邪魔されることを許さず、些細なことでも許さない。

 そういう態度で男を責め立てる。


「ねぇどうするの? こういうときはどうするの? ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ?」


 口早に、そしてはっきりとした口調で男を責める言葉が発せられる。止めどなく、発せられる。反論の暇もなく発せられる。


 だが大男は一秒も考えていなかった。為すべきこと、やるべきことはすでに決まっている。

 それはまるで初めからそれが決まっていたかのように。

 それが当たり前と言わんばかりに。

 

 リンゴが木から落ちる。

 カタチある物いつかは滅びる。

 人が必ず死ぬ。

 そんな必然の出来事のように、


 男は短剣を抜くと、そのまま自分の腹へと刺した。

 深く深く差し込んでいく。

 内臓が裂ける。

 血管が斬れる。

 血が流れ出る。

 そして頭をこれでもかというほど地に張りつかせたのだ。


「……」


 うめき声の一つも吐かなかった。一瞬の迷いもない、淀みない行動であった。

 彼女はそれを無言で見つめる。


「誠に申し訳ありません。よろしければ死んで償わせていただきます」


 謝罪の言葉を伝えられた。

 血が剣を伝って地に落ちる。

 ポタポタと落ちていく。

 相当深く差したのか、血は止まる気配はなく滴り続ける。血は広がっていき男の額に到達。そこに溜まり、分岐して、また広がる。

 男の死が近づいていく。

 誰の声もなかった。男も彼女も声を発しなかった。静寂のまま時が進んでいく。

 男の死が刻一刻と近づく。

 男は動かない。止血するための行動など一切しない。自分の死など、どうでも良いかのように動かない。


 そうしてあとわずかで男が死んでしまうという、そのとき――異変が起きた。

 男を取り囲むように、薄い光が発生したのだ。

 光は男の流した血に触れると、広がる方向とは逆に進ませ始める。血は男の中へと戻っていく。

 大量の出血のせいで悪くなっていた男の顔色も良くなっていく。

 やがて短剣が刺さったままという異常を残して、男の腹はきれいに塞がった。腹からは血の一滴も流れていない。だが短剣は刺さったままである。


「ふふふ……いいわ、許してあげる」

「ありがとうございます」


 彼女は機嫌を直し、魔法で男を治療しながら、愉快そうに笑った。

 それは、それは、愉快そうに笑っていた。口元は扇子によって隠されているが、もし隠されていなかったらそこにはチェシャ猫のような不気味な笑顔があったことだろう。

 そもそも本当に機嫌が悪かったのだろうか。

 なにせ笑っている彼女の頭からはすでに将棋のことは消え去っていたのだから。


 彼女はひとしきり笑い終わると、扇子をパチンっと閉じながら「さて」と言った。


「それで呼んだ理由だったかしら」

「はい、そうです」

「それはねぇ、ちょっとそろそろ動こうと思うのよ」

「なるほど。そうでしたか」

「多分お母様はあと少しで帰ってくる……。ならその前に全部終わらせなきゃね」

「ですがよろしいのですか?」

「何が?」

「いえ。お嬢は皆さまのことは気に入っていると仰っていたので」

「えぇ、気に入っているわ」

「では?」

「でも玩具を気に入るのは当たり前でしょう。

 それに知らないの? 玩具は飽きない内に変えないといけないのよ」


 彼女はまるで幼子のように無邪気に笑いながらそう言った。男の表情は変わらず無反応だ。男は己が彼女のためにやるべきことを思考しながら尋ねた。


「どのようなカタチで動きましょうか?」

「そうねぇ~」


 彼女は顎に手を当てながら考える仕草をした。その姿はとてもかわいらしい姿であるが、その頭の中で考えられている内容は、そんな姿とは遠くかけ離れていた。


 玩具を壊すなら、治すなら、改良するならどうするか。

 殺し。

 心中。

 薬漬け。

 拷問。

 脅迫。


 男の腹に不自然に刺さった状態のままである剣をグリグリといじりながら考える。男はうめき声も文句も、何も発さず、ただ為すがまま受け入れている。

 彼女の欲望に合わせ、そのどす黒い思考は動いていく。


 玩具はいくつ残すか、それとも残さないか。

 一人。

 二人。

 三人。

 一人と半分。

 半分と四分の一。


 悪辣な考えが浮かんでは沈み、浮かんでは沈む。


「一つは亡くしちゃってもいいわね。他二つは……ちょっといじくって再利用かしらね」


 彼女は剣を引き抜くとそう言った。


「了解いたしました。ではそのようにできるように準備させていただきます」

「よろしくね」


 血が一ミリも付いていない短剣を指の上で器用に回す。回転するそれを男に向かって投げ上げた。剣は回転しながら半円を描き、男の腰へと収まった。


 彼女の言葉を聞き届けた男は返事をすると音もなくそこから消えた。影も、僅かな痕跡もない。男の存在はまるで初めからなかったかのように消えていた。


 部屋には彼女だけが残された。

 彼女は思い出したかのように将棋盤を見た。そして王の駒を手に取り、それを手で弄ぶ。


「ふふふ……さぁ、私の娯楽のために頑張ってね」


 王の駒はいつの間にか砕けてしまっていた。

 彼女の玩具となったものの末路は破滅か従順だ。


 今回玩具となった者の末路は破滅……それとも従順か。はたまた第三の選択肢か――

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