三口目 勇者⁉

 まるでスローモーション。ゆっくりと沈むように空中を落下する三つのダイス。

 呼吸が、拍動が、限りなく停止に近い速度で、けれど痛いくらいに荒く前進する。


(……っ、はぁ……はぁ……はぁ……っ)


 時間にしては数秒、体感では数年分の緊張と共に、ダイスが聞こえないはずの音を立てて着地した。


 〈一〉〈一〉


(……)


 最後の一つだけがまだ揺れている。

 ゆらり、ゆらりと。


 そして――


(……〈七〉……か)


 役無し。

 在りもしない肉体の全表面から血の気が絞り取られたみたいな感じだった。


(……っ!)


 青ざめた唇を強く噛む。

 笑うのか、絶叫するのか、声を出して泣くのか。生きていたならば俺はどんな反応をしたのだろうか。

 今はただ、黙って不揃いの多面体達を見つめる事しかできなかった。


『役無シデス』

『残念ナガラ全テ失敗シマシタ』

『提示シタルールニ則リ、三分後ニ貴方ノ存在ヲ抹消デリートシマス』


 ……ああ、終わった。文字通り全て終わってしまった。

 前世も、現世も、来世も、それら全てから俺の存在が消え失せる。


 昔からそうだ。俺は最後の最後で失敗する。

 人生で一から百まで何かを成し遂げた経験が無かったような気がする。


 本当に理不尽だよな、片や何をやっても成功する人間もいるって言うのにさ。

 死ぬ直前も何かやり残した事があったような気がするんだけど……。


(何だっけ……?)


 俺は小包を丁寧に開けるが如く、一つずつあの日の情景を思い浮かべてみる。


(あれは確か――)


 そう、純白の雪が降り積もるとても寒い夜だった。

 俺は聖夜に一人寂しく実家に居て、しかも弁当を販売していたのだ。


 元凶である母さんは十代のクリスマス・イヴがどれだけ貴重なものなのかを忘れてしまったのだろうか……。とはいえ、そんな抗議の声も今となっては決して届かない。むなしいだけである。


『アト一分デ作業ガ完了シマス』


 親切にお別れまでのカウントダウンをしてくれるようだ。


(くそ、モヤモヤする……)


 あと六十秒足らずで俺の全てが無かったことになる。

 ここまで来ると既に恐怖とかそう言った感情は抱かなくなった。

 だからこそ冷静に、ずっと気になっている喉につかえた小骨を取り除こうとしているのである。


(あと少し、あと少しなんだけどなあ……)


 連想を続ける。

 聖夜、雪、寒い、ぼっち、童貞、母さん、家、弁当、おかず、唐揚げ――


(から……あげ? からあげ、唐揚げ……あっ)


 その瞬間、全てが鮮明に蘇ってきた。


(思い……出した……)


 どうして忘れてしまっていたのだろうか、あの夜の出来事を。

 守りたいと思った、たった一人の少女の事を。

 約束したのに。小さな約束すら果たせなかった。


『アト十五秒デス』


 守るどころか、まさか忘れちまうなんてな。

 今の今まで思い出せないとか……最低だな、俺。


『十……九……』


 もっと早く思い出していたら、何か別の選択肢があったのではないだろうか。


『八……七……六……』


 むしろこんな気持ちになるくらいなら思い出さない方が良かったかもしれない。


『アト五秒デス』


 後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

 聡明で知的な人生の先輩方よ、実に天晴れである。


『四……三……』


 ラスト三秒。

 正直、人生に後悔はある。

 だけど俺が思っていた程、最低最悪な人生では無かったようだ。

 笑顔にしたいと心から想える人に出会う事ができたのだ、及第点くらいはあげても良いのかもしれない。唐揚げだけに、揚げても……なんてな。


(それでもやっぱりさ、もう一回チャンスがあれば……そう思っちまうものだな)


 拭い切れない後悔の言葉を最後に、この世界に別れを告げた。

 ――その時だった。


 ある異変に、気付く。


(……あれ? カウントダウン、止まってないか?)


 そう、頭の中に響いていた〈円環の管理者ペルセポネ〉さんの声が聞こえなくなっていたのである。

 さらに、


(っ、まぶしっ……⁉)


 目のくらむような閃光。

 俺は、徐々に弱くなってゆくその輝きの主に視線を落とす。


(何でダイスが光って……ん? あれは……傷か?)


 傷。一筋の線を描いたように、ダイスに小さなヒビが入っていたのである。

 それは先程までは無かったであろう傷だ。

 気付かなかっただけ? いやしかし――


『確認シタトコロ、使用シタダイスニ破損個所ガ見ラレマシタ』

『最後ノチャレンジヲ無効トシ、再度挑戦シテ頂キマス』


 こちらとしては願ったり叶ったりで、この上もない結構な事である。

 が、その傷の原因が何なのかは最後まで分からないままであった。


『コチラノダイスヲ使用シテ下サイ』


 今まで落ちていたダイスが一瞬で消え、新しいダイスが現れた。

 俺は震える手を落ち着かせ、ダイスを三つ手に取った。


(神様……ではないか、多分。どこの誰だか分からないけれど、チャンスを有難うございます)


 握る拳に力を込めて、


(……絶対に無駄にはしないから)


 ふうっと息を吐き、ダイスを空中に放り投げた。


 カツン、コロン、カラン――


 ガラスを叩いた時のような音が聞こえ、スピードを落としながら転がるダイスが一つ、また一つと動きを止める。

 そして数秒後、三つ全てが静止した。


(……っ⁉)


 〈一〉〈一〉〈一〉


『役有リ。ピンゾロデス』


 まさか、そんな……信じられない。

 喜びよりも困惑が勝った。

 偶然手に入れた四度目の挑戦にして、役を、しかも〈一〉のゾロ目を引き当てたのである。それはつまり、


『ゴ希望ノ転生先ヲ選択スル事ガデキマス』


 すると、最初に見た転生先一覧がポップアップした。

 大きなカテゴリだけでも数百種類に及ぶ種族が並んでいる。


(この中から好きなのを選んで良いんですよね?)


『ハイ、自由ニ選択デキマス』

『タダシ〈???〉ト表記サレタ種族ハ選択スル事ガデキマセン』


(……分かりました)


 問題ない。

 あの少女の事を思い出した時から、俺の中では既に転生先は決まっているのだ。


(これにするよ)


 俺は――


(勇者になるんだ)

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