七口目 恩人⁉

 俺が怪訝けげんそうに眉をひそめると、目の前の鶏はピタリと動きを止めた。

 それから背筋をピンと伸ばして、


「あっ……そうだ! そんなことより一緒に深呼吸でもしましょうよん♪」

「はあっ⁉ そんなことって何だよ、そんなことって! しかもどうしてこのタイミングで深呼吸なんか」

「いいからいいからぁ~。はぁい、ヒッヒッフー。ヒッヒッフー」

「いやいや、それは出産の時のやつ……って、そのくだりは既に終わってますから!」


 ……残念ッ!


「あら。そうなのん? ぅんーと、それじゃあ――」


 シューッ。シューッ。シューッ。シューッ。


「いや、それはヨガのウジャイ呼吸法! って、ツッコめる俺も何なんだ……」


 ネット通販で購入したDVDを見ながらヨガをする母さんを目撃したことがあり、そういうものがあるということを単なる知識として記憶していただけに過ぎないが。

 確かノドの奥をめて気道を狭くする呼吸法とやらで、息を吐くときにシューッという摩擦音がするのが特徴なんだとか。


「ほうら、深呼吸ぅ〜」


 次に、鶏は短い間隔で「フッ、フッ、フッ、フッ」と鼻から息を吐く動作を繰り返した。


「それはカパラバディ……ってか、もはや深呼吸ですらねえじゃねえか!」


 俺は右翼を内側から外側へと動かすようにしてツッコんだ。

 所謂いわゆる最もポピュラーなタイプのツッコミであるが、鳥類の翼の形状ゆえか、人間だった頃よりも不思議としっくりくるような気がした。嬉しくないけどね!


「ふふっ。なかなかやるじゃなぁい、ボーイ。でも、わたぁしだって負けてないわよぉん!」


 と、何故かひとりで張り切っている鶏氏。


「いつから勝負になったんだよ……」


 戸惑いを通り越して呆れる俺を他所よそに、気合十分な鶏は止まらない。


「それじゃあイクわよぉん!」


 鶏はそう言ってストローのように丸めた舌を口から出すと、その隙間から吸った空気を鼻から吐き出した。


「……べつに戦っているつもりはないが、とりあえずそれはシータリー呼吸法な」

「流石ねボーイ。正解よ、喜びなさぁい!」

「ちっとも嬉しくねえわ」


 なまじ正解に辿り着いてしまう為、結果的には勝負として成立してしまっていた。何か悔しい。


「それじゃあこれは?」

「それはブラーマリー呼吸法だな」

「なら、こんれえぇならどぅう⁉」

「ナーディショーダナ」

「それなら――」


 延々と続くボケとツッコミの攻防戦。

 まるでロールプレイングゲームに登場する補助系呪文のような単語を詠唱していると、次第にこの不毛なやり取りを続けているのが馬鹿らしくなってくる。


「なあ、そろそろやめにしないか?」

「えー。もう限界おわりなのん?」

「すまんな。アンタと話してると何だかどっと疲れるんだよ……」

「ちょっとぉ、まだまだこれからじゃなぁい!」


 不満そうに頬を膨らましてから、ゆっくりと視線を俺の下腹部へと向けて鶏。


「ツッコむのは上手でも、持久力がない男はモテないわよぉん?」

「……おい。いったい何の話をしているんだ、何の」


 鶏をセクハラの罪で訴えるにはどの機関を頼ればいいのだろうか。

 次に同じ事を犯ろうものなら法的措置を検討してみようと思う。


「やあねぇ、ちょっとした冗談ジョークじゃないの」

「いやいやいや、アンタのその口調で言われると全くもって冗談に聞こえないって」

「けど、少しは落ち着いたんじゃなあい?」

「……え?」


 鶏の表情がいやらしい笑みから優しい微笑みへと変わった瞬間、俺は悔しいくらい全てを理解した。

 そう、こいつは道化を演じてくれていたのだ。出会って間もない、しかも普通の鶏と異なる容姿をしている俺の為に。


(……笑っちまうな)


 事実、この数分間は自分が可笑しな鶏になってしまった事を忘れていた。忘れられていた。

 こいつの思惑にまんまと乗せられたのはシャクだが、どうやら彼?の事を誤解してしまっていたようだ。


「……あ、あのさ。さっきはあんなことを言って、その……すまなかった」

「あんなこと?」

「あ、あんたのことを、変な鶏……ってさ」


 俺が申し訳なさそうに項垂うなだれると、鶏は両翼を広げて大袈裟におどけてみせた。


「そんなことは散々言われて慣れているから気にしないで頂戴! なんなら、もっと激しくののしってくれてもいいのよん?」

「いや、それは断る」

「ああんっもぉ、イケズなんだからぁあんッ♡」

「うるせえ! 気色悪い声出すんじゃねえ!」


 下らないけれど、そんなやり取りを心地良いと思ってしまう自分が確かにいて。種族がどうだとか、容姿がどうだとか、そんなちっぽけなことで悩んでいた自分が実に馬鹿らしい。

 だから俺は――


「……」


 俺は少し考え、それからまっすぐに鶏の目を見つめて、沈黙する。


「いやぁん。そんなに熱い視線を注がれたら興奮しちゃうわ♡」

「……」

「ん、どうしたの?」

「あー……いや、その、何というか、あんたのおかげで冷静になれたというか、救ってもらったというか……」

「やあねぇ、そんな大層な事してないわよぉん」

「あ、あんたにとってはそうかもしれないけれど、俺にとってはそうじゃなくて……さ」


 上手く言葉が出てこない。

 伝えたいのは、たった五文字の単語なのに。


「だから、その、あ、あ、あり……」

「なあに?」

「だから、あり……」

「あり?」

「……あ、蟻って、美味しいのか?」

「はい?」

「……うっ」


 一番残念だったのは俺だった斬り……残念ッ!

 だがしかし、一瞬しまったと思った俺に対して、律儀りちぎにも真剣にその問いに答えてくれる鶏であった。


「そうねえ……野生の鶏は主に昆虫を食べて暮らしているらしいけれど、わたぁしは違うから……ごめんなさい、ちょっと分からないわ」

「そ、そっか……あはは。で、でもまあ、人間が用意してくれた餌の方が美味しいんだろうな」


 小屋の隅に置いてあった餌を見ながら、自分でもよくわからないフォローをする。


「食べたことがないから比較できないけれど、恐らくそうなんじゃないかしら?」

「だ、だよなあ。はは、ははははは……」


 ただ一言、感謝の気持ちを伝えるだけでよかったのに。

 こいつの言うとおり、ほんと素直じゃない。


「……その、なんだったら、もう一問だけ付き合ってやってもいいぞ?」

「あらまぁ。少し休んだから復活したのかしらん? 何がとは言わないけど」

「ま、そんなところだ」

「欲しがりさんねぇ」

「はいはい――」


 俺は鶏の言葉を軽く受け流す。

 彼もまた相変わらずの様子で、最早「俺のために」というのも勘違いだったのではないかとすら思えてくる。


 だが、それでもやはり多少の恩義を感じざるを得ない。

 最後くらいは相手に花を持たせてやろうじゃないか。

 それが、素直じゃない俺の、ささやかな感謝の印。


「この問題で勝った方が本当の勝者ってことでいいぞ。これまでのはノーカンってことで」

「あらまぁ。そんなこと言っちゃっていいのん?」

「べつに構わないさ。ま、全問正解パーフェクトで俺の勝ちだろうけどな」

「いやぁん、負けないわよぉん♡」


 身構える両者。

 一陣の風が吹き抜けた時、頭の中で試合開始のゴングが鳴った。


「さあ来い」

「いくわよぉん」


 鶏は首をゆっくり後ろへ倒し、あご先を軽く上に向けた。

 しかし、どのような呼吸法を繰り出してこようとも既に勝敗は決まっている。俺はただ披露するだけなのだから。


 ……すまんな。

 無論こんなことで喜んでもらえるとは思っていないけれど、今の俺にはわざと負ける以外の方法が見つからなかった。


 そして、遂に決着の時――


「悪いが正解させてもらうぜ。それは」


 ……何……だ?


 鶏は空を見上げたまま口をぱくぱくさせているだけで、音を出すわけでも、息を吐き出すわけでもない。

 俺は記憶の引き出しを漁ってみるも、これといったものは見つからず。わざと負ける云々うんぬん関係無しに俺は答えることができないでいた。


「……ダメだ。マジで全然分からん」

「ふふっ。それじゃあ約束どおり、わたぁしの勝ちねん♪」


 と、鶏は勝ち誇った笑みを浮かべた。


「うぅ……」


 元は俺の意思とは関係なく始まった勝負だし、相手を打ち負かしてやろうという意識も一切なかった。とはいえ、いざこうして実際に負けてみると純粋な悔しさが込み上げてくるから不思議なものである。


「……で、答えは何だ? 流石に俺の知らないスポーツとか、謎の流派の呼吸法だとちょっとなあ」

「んもぉ、わたぁしはそんな意地悪しないわよぉん。正解は――」


 ドラムロールのように、どぅるるるると巻き舌で発音する鶏。

 どうやらエンターテインメント性を求める性格のようだ。


「――じゃあんっ! 正解は、エラ呼吸よぉ〜ん!」


 ……。

 …………。


「わかるかぁぁぁぁっ!」

「くぁぽんぬっ!?」


 正解が発表された数秒後、俺の渾身の右ストレートが鶏の顔面を捉えていた。

 奇妙な断末魔の叫びを上げて吹っ飛んだ鶏は、着陸後、瀕死の魚のように胴体をピクピクと震わせていた。


 ……やっぱりイヤだ、こいつ。

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