第15話 終わりの始まり

 あの日を境に、僕と藤崎さんが会話をすることはなくなった。いつものように屋上の踊り場で静やかな時間を過ごすこともなくなったし、教室や廊下ですれ違っても、目を合わすことすら彼女はしてくれなくなった。「ごめん」というメッセージを送ってみたが、一向に既読がつかず、二週間ほど経ってからそれがブロックされているためだということに気がついた。露骨に避けられていると。


 しかし直接謝罪をしに行こうとも、僕にはそこまでの度胸というものがまったくと言っていいほどなかったのである。しつこい男だと思われることが嫌だったのもあるが、それ以上に自分が傷つくことを恐れていた。最低、という二文字だけで済んでまだましだったのかもしれない。その言葉よりも悲惨な軽蔑を浴びせられたなら、僕の精神はミンサーですり潰された豚の食用肉のように、見るも無残な塊と化してしまう。


 とはいえど、僕たちはつい数週間前までは確かに恋人同士だったのだ。夏休みの間に何度か二人で会ったことがある。そのほとんどは本を読んだり雑談したりするだけのピクニックだったが、一回だけ葛西かさい臨海公園の水族館に行った。


「ねえ久我くん。クラゲって、傘みたいじゃない?」


 浮遊生物展示ゾーンの水槽の前で、藤崎さんが僕に振り向いた。「撮ってみる?」僕は携帯を彼女に向ける。遠近法で藤崎さんとアカクラゲの距離を測った。彼女は屈み腰になって頭をずらし、「上手くできてる?」と帽子を被るみたいにアカクラゲを被った。パシャリとシャッター音が鳴る。

 そのときの何でもない写真を、僕はスマートフォンのアルバムの中に消さずに残しておいている。そしてその写真を意味もなく眺めては、未練がましい思いで眠りにつく。繰り返して繰り返して、しかしそれでも頑なに、彼女に謝ることはできなかった。

 僕が抱いていた彼女への想いは、結局はその程度のものだったのかもしれない。そう納得することがこの喪失感を抑え込むいちばんの解決方法だと思った。


 僕たちは恋人同士だった。何か明確な別れ話があったわけでも、誰か見知らぬ他人が否応なく僕らの仲を引き裂いたわけでもない。水面に浮かぶ泡のように、僕たちの四ヶ月間は自然に消滅した。



 眺めていた写真をおもむろに削除する。僕の手元には、星新一の「かぼちゃの馬車」だけが残った。まるでこれまでの出来事が儚い夢だったかのように。



※ ※ ※ ※



 一月中旬、この地域にしては珍しいくらいの大雪が降った。

 学校の授業にはもうとっくに慣れ、あっという間に過ぎ去っていく日常にどこかわびしさを覚える。この時期から将来を見据えている者なんてのはおそらくはごく少数だろう。ここにいる誰もが目の前のことにかかりきりで、あるいはそうすることが自然であるかのように盲目になる。僕たちにとって将来というのはまるで現実味を帯びない。結婚も就職も進学も、今となってはとても大事なことのように思えるのに。


 僕は十センチばかりの積雪を踏みならしながら、校舎に向かっていた。「もう戻るのか?」と後ろから声が聞こえたが、「寒いんだよ」と言って振り向きもせずに歩いてゆく。

 昼休みは学校中の生徒が校庭に集まって雪遊びをしていた。中には図書室で本を読んだり、教室に残って何かしらの作業に取り組んでいる者もいるのだろうが、ほとんどの生徒は真っ先に教室を飛び出していった。

 そして僕のクラスも例にたがわず、給食を食べ終わると同時に、我先にと廊下を駆け抜けていった。ただ一人を除いて。


「やっほ」


 僕が教室の扉を開けると、一人で窓の外を眺めていたらしい美鈴が、顔の横で小さく手を振った。彼女は自分の席にちょこんと座っていた。たぐいまれなる強運の持ち主のようで、この数か月の間に何度か席替えがあったのにも関わらず、彼女はずっと窓際の最後列の席だった。そういう僕も、隣の席ではないけれど、ずっと伊谷と近い席という、悪運の持ち主だった。

 ただ今回は、初めて美鈴の隣の席になった。それが理由で教室に戻ってきたわけではないが、ひょっとしたらそれは幸運と呼ぶべきことなのかもしれない。


「楽しかった?」椅子に座った僕に、美鈴が声をかけてきた。教室には僕たちの他に誰もいなかった。

「そりなりに」と僕は言った。


 ふうん。彼女はつぶやくと、「寒い」と言って手を擦り合わせた。開いた窓の外からしたたかな冬の冷気が入り込んでくる。僕は立ち上がり、開いていた窓をぴしゃりと閉じた。校庭ではしゃいでいる生徒たちの声が遮断され、雪で覆われた街がガラス越しの風景へと変わる。

 ありがと、美鈴の声が耳に届いた。自分の席に戻った僕は、「外に出ないの?」と彼女に訊ねていた。


「私のおばあちゃん、青森に住んでるんだ」と彼女が言った。「一年に一回は、必ず会いに行くんだけど、雪なんてこれの比じゃないくらい降ってる。だから、雪はもうお腹いっぱい」

「冬は嫌い?」

「ううん。そういうわけじゃないけど……て、この話、小さい頃にもしたよね?」

「したね」僕は肯いた。それは確か保育園に通っていた頃の話だ。

「やだ、私、おばあちゃん化してる」


 美鈴は驚愕して口元に手をやると、間を置いてくすくすと笑いだした。セーラー服の裾の下から、桃色のカーディガンが垣間見えている。そのカーディガンは彼女の手を甲の辺りまで隠し、なめらかな指だけを空気に晒していた。

 それをじっと凝視していたからか、「なんか私の顔についてる?」と彼女が首を傾けた。


「目と鼻と口がついてる」と僕はふざけて言った。


 あはは、と美鈴が無邪気に笑い、頬に垂れた毛先を耳にかけた。照れたときに髪を耳にかける仕草は、彼女の昔からの癖だった。それから両手で頬杖をつくと、僕の顔をお返しとばかりに見つめてくる。


「やまとくんの顔にも、目と、鼻と、口がついてる」


 灯油ストーブのじんわりとした熱が、黒板のそばから漂ってきているような気がした。

 美鈴は昔から、ちょっとしたことですぐに笑う子だった。それは僕だけでなく周りに対しても同様で、僕は彼女の怒った顔というものをこれまで一度も見たことがなかった。ここであなたのリコーダーを吹いていましたとぶちまければ、彼女は怒ることはしなくとも、僕のことを気持ちの悪いものとして蔑むのだろうか。もしくはクラスメイトの女の子を傷つけてしまった僕の過ちを伝えれば、それらの感情は思ったよりも安易に引き出せてしまうのかもしれない。


 しかしここから数か月後、僕はそれらとはまったく別の形で彼女を傷つけてしまうことになる。

 

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僕が彼女とセックスするまでの話。 じんまーた @jiomata

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