第13話 わからなかったこと

 土砂降りだった。天気予報は曇りのはずだったのだが、なんでこんなときに限って外れるのだろう。僕はずぶ濡れになりながら再び携帯を見た。七時半。一時間遅れの大遅刻だった。

 さすがに公園でずっと待っていることはないと思ったのだけれど、藤崎さんからのメッセージがない所為で、もしかしたらという不安が拭えなかった。そしてそれは間違っていなかった。

 

 公園の入り口に駆け込むと、時計台の前に小さな人影が見えた。僕は静かに歩み寄る。青色の浴衣を着て、髪にかんざしを刺したその女の子は、紛れもなく藤崎さんだった。しかし今日のために着飾ったらしいその恰好のすべてが、雨に濡れて台無しになっていた。着付けなどはきっと母親にやってもらったのだろう。そう思うと鼻の奥がつんと痛くなった。泣きたいのは藤崎さんの方なのに、彼女がどんな思いでこの場にいるのかということを考えただけで、僕の方が泣きそうになった。


 気づけば藤崎さんの身体を思いきり抱き締めていた。僕は濡れていて、彼女も濡れていた。生温い雫が僕たちの全身を激しく打ち、ザァ、という雨音だけが絶え間なく騒がしかった。

 それから無言のまま時間が流れ、僕の胸元に顔をうずめていた藤崎さんが、雨音に負けそうなくらい微かな声で、ぽつりと言ったのだった。


「もう来ないかと思った」


 その言葉を聞いて、僕はより一層彼女を抱きしめていた。


「そんなわけあるか」と、噛み締めた唇が、痛かった。



※ ※ ※ ※



 僕たちは公園の屋根付きベンチで雨宿りをしていた。そこは藤崎さんとデートがてらにピクニックをした場所だった。しかし現在はテーブルに背を向けて、お互いに隣り合わせで座っている。肩はぴったりとくっついていて、彼女の息遣いが聞こえそうなくらいに距離が近い。実際、彼女の声は耳元で囁いてるのではないかと思えるほど、僕の心をぞわぞわと震わせた。


「久我くんは白河さんのことが好きなの?」


 え、と誰かが言った。それが自分の口から発せられた声だということに、遅れて気がついた。


「なんとなく、そんな感じがしたの」

「……えっと」僕は返答に窮していた。自分でもわからなかったからだ。

 すると思い切ったように、「久我くん、白河さんのリコーダー舐めてたでしょ」と藤崎さんが言った。「だから好きなのかなって」

「あれは……」


 それはずっと僕が避けていた話題だった。舐めていたのではなく、吹いていたと言い返したかったが、言い返したところで事態が好転することはないと、自分でもわかっていた。


「そういうのに興味があったんだよ」と僕は白状した。「キスとかしてみたいって思ってたけど、そういう相手がいなくて、リコーダーを代わりにした」

「それがなんで白河さんのリコーダーなの?」

「幼馴染で、いちばん近しい間柄だったから。ただそれだけ」


 それに加えて、容姿が整っていたことも少なからず関係していたのかもしれないが、ここでは言わなかった。まるで浮気現場を目撃された男のように、僕は縮こまっていたのだ。


「でも、もうしてないから。その必要も今はないし」

「そうだね」と藤崎さんは言った。「その必要は、今はないの」


 心なしその声が明るく感じられたのは、気の所為だったのだろうか。彼女の顔をおそるおそる見てみると、視線は降りしきる雨に釘付けだった。僕もじっと雨を眺めて、しばらくしてから「僕も、質問していいかな」と訊ねてみた。

 うん、と藤崎さんは肯いた。「いいよ」


「なんでリコーダーのこと、誰にも言わなかったの?」と僕は言った。避けていた話題ではあったが、気になっていたことでもあった。

「わたし、そこまで悪い人じゃない」藤崎さんはそう答えた。それは決して意外な言葉ではなかった。出会った当初ならまだしも、曲がりなりにも彼女の恋人として過ごしてきた僕ならば、彼女が人の悪口を言うような野蛮な人間ではないことは理解していた。理解していたからこそ、その厚意に甘えてこれまで避けてきたのだ。改めて彼女に訊ねたのは、納得して安心したかったからだ。

 しかしまだ一つ、僕には疑問があった。


「なんで僕と付き合ってくれたの?」


 こんな僕と恋人になってくれた理由を、知りたかった。

 少しの間があった。藤崎さんは、ふぅ、と気持ちを整えるみたいに吐息を漏らし、ぽつぽつと語り出した。


「付き合ってって、今までにそんなこと言われたことなくて、わたし、純粋に嬉しかったの。付き合うって、なんか好きって言われてるみたいで」


 それに、と彼女は言う。


「久我くんのことは、リコーダーのことがあったときから、ずっと気になってて。初めは変な人だと思ってたけど、気づいたら、なんていうか……」


 そこで唇を結んだ。藤崎さんはちらっと僕を見ると、緊張してものが言えなくなってしまったのか、俯いて、意味もなく自分の手を揉み始める。それがなんだかおかしくて、僕は自分が緊張していたということさえも忘れて、彼女を見つめていた。

 その視線を感じ取ったのだろう。藤崎さんはぴたりと手を止めて、「わかる? わたしが言いたいこと」と震えた声で言った。

 僕はわかると返した。つまり僕たちはお互いに同じ気持ちだということなのだ。それを知ってか否か、藤崎さんの口元が僅かに綻ぶ。ややあって、「でも」と彼女は言った。


「久我くんは、やっぱり変態」

「……え?」いきなりのことで、僕は動揺した。


 胸を触るし、お尻も触るし、匂いも嗅いでくる。そう続けながらも、しかし藤崎さんの顔には不快感というものが微塵も浮かんでいなかった。おそらくそれは、これが理由だった。


「そんな久我くんが好きなわたしも、きっと変態なの」


 静寂。雨はまだ乱暴なくらい大袈裟に振り続けていた。

 それから僕たちは祭りに行けなかった今しがたの時間を取り戻すように、ベンチに座りながらささやかな会話に興じた。僕が待ち合わせに遅刻した理由を正直に打ち明けると、藤崎さんは「今度から気をつけてよ」と笑って許してくれた。時間にして二時間程度だったと思う。門限があるの、と言った彼女の言葉で、僕たちの会話は呆気なく終わりを告げた。


「そっか……」


 ただ、傘を持っていない状態で、この雨の中をどうやって帰ればいいのか、僕は悩んでいた。濡れた自分の身体を見る。


 傘なんて、今さらだった。



※ ※ ※ ※



 ぴちゃぴちゃと二人分の足音が鳴る。水溜まりを踏みしめると、歪んだ波紋を描いて盛大に水滴がはじけ飛ぶ。僕は藤崎さんの手を引っ張り、藤崎さんは僕に引っ張られながら笑っていた。

 心の奥底から得体の知れない高揚が湧き上がってくるようだった。雨に濡れ、傘もささずに無邪気に駆ける僕たちは、そのちょっとした背徳感をきっと愉しんでいたのだろう。


 家が近いということで、先に藤崎さんを送り届けることになっていた。しかし彼女の要望で、僕は彼女を送り届けたら帰ることはせず、一旦、その家の玄関まで上がることになった。


「お父さんが、車で、久我くんのこと家まで送ってくれるって言ってたけど」


 藤崎さんは僕の頭をバスタオルで拭きながら、さっき彼女の母親が言っていたことを改めて口にした。藤崎さんが二人きりにしてほしいと言ったので、彼女の母親はバスタオルを二枚置いてリビングに戻ってしまったが、そのかんに「うちでゆっくりしていっていいのよ」とか「お風呂入っていく?」とか「親御さんに連絡しておこうかしら」とか、様々な気遣いをしてくれた。

 しかし僕としては少々いたたまれないので、「大丈夫」と断っておいた。


「家、すぐそこだから」と、僕はお返しとばかりに藤崎さんの頭をバスタオルで拭く。

「いいの? もうちょっと居てもらっても、ぜんぜん構わないのに」

「うん。わざわざよくしてもらうのも、なんか悪い気がする」

「そっか、そうだよね」と藤崎さんは言った。似た者同士だから、僕の気持ちは何となく察してくれたようだった。「じゃあせめて、傘だけ持って行って」


 傘立てから抜き出された傘が、僕の胸に押し付けられる。僕はそれを受け取って、ありがとう、と言った。それから身を翻し、玄関の扉を開ける。

 肩越しに振り返ってみると、バスタオルを頭に被ったままの藤崎さんが、僕に手を振っていた。


「また」

「ああ」


 また、学校で。そう言って、僕も手を振り返した。


 僕たちには次がある。これから歩んでいく道の先に、僕たちの想像だにしない新しい何かがあるんだと思った。何しろまだ始まったばかりなのだ。こんなところで足踏みしているわけにもいかないと、僕は目に見えない明日に確かな期待を抱いていた。


 しかしこの悲しげな空だけは、僕たちを一向に祝福してくれなかった。

 それだけが、嫌に気がかりだった。

 

 

 


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