第12話 約束がある
待ち合わせ場所には美鈴と一緒に行くことになった。暑そうにうちわを扇いでいる彼女は、「混んでるねえ」と僕の隣で遠くを見据えていた。市民プールを過ぎると飛行機のような形をした巨大な塔が姿を現す。それは公園の片隅に設置された
汽車ポッポ公園は当然ながら数多くの人で溢れていた。沿道に連なるように並ぶ屋台が、白熱灯の光で淡いオレンジ色に煌めいている。香ばしい匂いに誘われて闊歩する人々を、僕はまるで他人事のように眺めていた。
碑を囲う柵の前で、伊谷が手を振っていた。「おーい、こっちこっち」
どうやら僕たちで最後のようだった。待ち合わせ場所に到着していた彼らは、僕らに気がつくと賑やかに笑い合う。その中の一人が「美鈴ー!」と手招きしたからだろう、美鈴は「お待たせー!」と言って小走りに駆けていった。
話したことは何度かあるが、二人きりになると途端に緊張が走るような、友達と定義してよいのかよくわからないクラスメイトが三人いた。その所為か僕は若干の疎外感を感じていたのだが、歩き出した彼らに合わせて、「行こ?」と美鈴が肩を叩いてきたので、今すぐにでもここから逃げたいとは思わなかった。
人混みの中を女子三人が前、残りの男子三人が後ろで歩いた。道幅が狭く、通りすがる誰かとたびたび肩がぶつかりそうになったことを除けば、これといった不都合はなかった。
屋台は、この汽車ポッポ公園から神社の鳥居の方まで延々と続いている。わたあめを買った僕らは、それを片手に持ちながら駄弁っていた。
「なんだかんだ言って、私たちが一緒にお祭り来るのって、初めてだよね」
前方から美鈴の声が聞こえた。彼女が「ね?」と同調を求めてくるので、僕はそうだねと肯いた。
「へぇ、俺たちは去年も来たよな?」と伊谷が首を回した。
僕と美鈴以外、ここにいるクラスメイトたちは同じ小学校出身だった。だから何だという話だが、彼らは僕たちのこと、特に僕のことについて色々と知りたがった。あまり自分のことを自分から話さないことが、彼らに好奇心というものを芽生えさせたのはわかっていたが、それでも自分から自分のことを話そうとは僕は思わなかった。訊かれれば答えるというだけだ。
「普段は無口だから、無愛想な人だと思ってたんだけど、違ったんだね」
そう言ったのは真面目そうな見た目をした女の子だった。彼女は僕らのクラスの学級委員長をしていた。そんな委員長に、「そうなんだよ、そうなんだよ」と美鈴はなぜか誇らしげに肯いている。そして僕の横にいた伊谷までもが、「久我っちって、喋るとめちゃくちゃ面白いんだよな」と背中をばしばし叩いてきたので、切実にやめて欲しかった。
夏の夜は他の季節と比べればずっと遠い。でも、夕暮れ時であるはずの空を見上げても、分厚い雲が辺りを覆っているだけで世界はいつもより薄暗く感じられた。
交差点で信号待ちをしながら、携帯の画面を見た。藤崎さんとの約束の時間を確認してみたが、まだここに来て三十分も経っていないようだった。これなら大丈夫そうだと僕は安心した。
信号機が青に変わり、四方から人の波が押し寄せてくる。足の踏み場がないほどに混みあっていた。もはや他人と密着することも免れない狭さだったのだが、目の前に視線を向けると、伊谷が委員長と肩を寄せ合っていて、それが故意ではないことは理解していたのだけれど、彼が委員長のことを馴れ馴れしく下の名前で呼んでいるのが少し気になった。
そのとき、美鈴の姿が見当たらないことに気がついた。周囲を見回し探してみると、人混みに紛れた彼女を離れた場所で発見した。白い半袖Tシャツに、デニム素材のショートパンツを履いている。そのショートパンツの後ろポケットには、うちわが挿してあった。
「あ、やまとくん……」
近くまで来た僕を見て、美鈴は安堵するように笑った。
「よかった。私、みんなとはぐれちゃったかと思って」
「いや」と僕は視線を巡らす。「本当にはぐれちゃったかもしれない」
事実、彼らの姿はどこにも見当たらなかった。ただの通行人の姿が僕らの視界に映り込む。「とりあえず行こう」と彼女の手首を掴み、ほとんど咄嗟に、僕は急ぎ早に歩き出した。するとその途中、美鈴が僕の手からするりと抜け出し、それからまた手を繋ぎなおした。僕が一方的に彼女の腕を掴むのではなく、今度はちゃんとした手の繋ぎ方で。
「こっちの方が自然だから」
確かに自然かもしれないが、ちょっといきなりすぎやしないか、と僕は不覚にも顔が熱くなるのを感じた。やわらかくて小さなその手を握ったまま、交差点を渡り切った。
信号の押しボタン機の横で一息つくと、繋いでいた手はどちらともなく離された。美鈴は何か言いたそうにしていたが、思い出したかのようにポケットから携帯を取り出し、電話をかけた。僕はそれを黙って見ていた。
「……うん。わかった。そうしよっか」
通話が終わると、美鈴が僕に顔を向ける。
「みんな、もう結構先に行っちゃってるみたい」
「どうするの?」と僕は訊いた。
「鳥居の前で合流しよう、ってことになってる。だからそれまでの間、二人で屋台を見て回るってことになるんだけど」
「二人で?」
「そう、二人で」
美鈴は背後のガードレールに寄りかかり、頬に垂れた髪を片耳にかけると、「なんかさ」と照れたように笑った。通り去っていく車のヘッドライトが、ほのかな逆光を彼女に当てている。
「二人きりになっちゃったね」
※ ※ ※ ※
なんだかんだ言って、僕たちが一緒に祭りに来るのは初めてだった。
僕らは道の端に吊るされた提灯を見上げながら浅間通りをひた歩き、他愛のない会話を繰り広げてはりんご飴をかじった。歩く速度は人並みで、ふいに背丈の低い子供が僕たちの横を走り抜けていった。その子供が母親に怒られている姿を微笑ましく見つめて、美鈴は僕の肩を人差し指でつついた。
「最後に、金魚すくいでもしていかない?」
目線の先に、合流場所である神社の鳥居が見えた。僕たちは最後という名目で金魚すくいをすることにした。
「おじさん、一回だけお願いします」と美鈴が店主にお金を渡し、ポイを二つもらった。円形の金魚をすくう道具だ。それを渡された僕は、彼女と一緒に水槽の前に座り込んだ。
「私ね、今からすごいこと言うよ」
美鈴はポイをうちわみたいに揺らしながら、僕の顔を覗き込む。
「もしやまとくんが私より金魚をすくえたら、なんでも一つ、やまとくんのお願い事を聞いてあげる」
「なんでも一つ?」僕はぎょっとしていた。本当にすごいことだ。
「なんでも一つ」と美鈴はおかしそうに笑う。「でもその代わり、私がやまとくんより金魚をすくえたら、私のお願い事を聞いてね。やまとくん」
彼女が僕に何をお願いしたいのかはわからなかったが、かといって、僕も彼女にお願いしたいことなど何一つなかった。時間をかければそれ相応に思い浮かぶのだろうが、彼女の大きな瞳に見つめられて僕は思考が回っていなかった。
ブー、と水槽のポンプ音が片耳に聞こえる。逃げるように目線を逸らすと、彼女の折り曲げられた脚が見えた。肉置き豊かな太腿とふくらはぎが、互いに重なり合い、つぶされて横に広がっていた。
その刺激的な光景に、僕は無意識に唾を飲んでいた。一瞬、美鈴の太腿を触りたいという願望がよぎったが首を振った。そんな変態的な願望はすぐさま捨ててしまった方がよかった。何でも許してくれる藤崎さんならまだしも、美鈴にこんなことを頼んだら絶対に嫌われてしまう。絶対に――。
「あれ……」
そう思ったとき、僕は藤崎さんとの約束を思い出した。
慌てて立ち上がり、ポケットから携帯を引っ張り出す。そして画面に映し出された時刻を見て、言葉を失った。周囲の雑音が水底に沈んでいくかのように消えてゆく。
午後七時。約束の時間から、すでに三十分が経過していた。
「……やまとくん?」
自分の名前を呼ぶ声が聞こえて、ふと僕は顔を横に向けた。
美鈴が心配そうに僕の腕を揺すっていた。このとき、僕は確かに選択を迫られていた。しかしここから先の記憶は、酷く曖昧だ。まるでタイムカプセルに埋められた十年前の写真のように、ところどころが古寂びていて、唯一はっきりとした部分さえも水に濡れていた。
ただ一つ言えることがあるとするなら、僕は自分の置かれている状況を理解したその瞬間、迷いもなく駆けだしていたのだ。知らない誰かと肩と肩がぶつかる。すみません、と言って浅間通りを走り抜ける。僕は湿った風を切り裂くように、全力で腕を振っていた。
ただ一つ、あの子のいるところに行かなくちゃならない。それだけを念頭に置いて。
「くそっ……」
遠方の曇り切った空を見据える。ぽつりと、雨が降り出していた。
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