第11話 夏祭り
「本当にいいの?」
「うん」
僕は椅子に座る藤崎さんの後ろに立ち、小さく呼吸を整えた。
電柱に張りついた蝉がうるさいくらいに鳴いている、そんな七月の日曜日。晴れ渡った空の下で、彼女はてるてる坊主のようにゴミ袋を被っていた。地面に生える雑草は丁寧に手入れされていて、そこには新聞紙が何枚か敷かれている。
僕は彼女の髪に触れた。ダイソーで買った散髪用のハサミで、その毛先を整えていく。
「文句は言わないでよ」
「言わない、言わない」
藤崎さんに髪を切ってくれと言われたのは、昨日のことだった。どうしても僕じゃなきゃダメなんだと彼女は言った。
そして話を進めるうちに、彼女の家に招かれることになった。「あらあらまあまあ」、僕が玄関に入ると、彼女の母親が待っていましたと言わんばかりにやって来た。藤崎さんは母親の背中を押して、「あっち行ってよ」と恥ずかしそうにしていた。僕のことは友達として通しているらしかった。
そんな友達の僕に、母親は厚かましいくらいの笑顔で皿に乗ったスイカを渡してきた。「あっち行ってよ」、小声で言って、藤崎さんは眉を顰めた。
父親は同僚と釣りに行っているらしい。母親がこんなにも僕たちに構ってくるのは、もしかしたら寂しかったからかもしれなかった。藤崎さんに似て穏やかな人だとは思っていた。
「小学校の頃まではね、夏の祭りは、お母さんと行ってたの」
僕は藤崎さんの声に耳を傾ける。庭の隅に植えられた菜の花に、モンシロチョウがひらひらと舞っていた。僕たちは庭で髪を切っていた。
「夏の祭りって、
この街はかつて、海に沈んでいたらしい。そう言うと少し語弊があるので、〝この土地は〟と言った方が正しいのかもしれない。昔は僕らの通う学校も、僕らの住む住宅街も、そこらにあるものすべてが海だった。東京湾に面したこの街は埋め立てられてできた街だ。当たり前のように進められた都市開発によって団地ができ、高層住宅が立ち並び、工場地帯が遠目に見えるようになった。
だから海はそれなりに近いところにあって、ときどき潮の香りが漂ってくることもある。そして浅間神社の周辺だけが、今も昔も変わぬ姿で存在している。
「うん」と彼女は言った。「もしよかったら、今年の浅間神社のお祭りは、久我くんと一緒に回りたいなって」
「……僕と?」
「もしよかったらなんだけど」
後ろに立っているので、藤崎さんがどんな表情をしているのかはわからなかった。でも、髪を切る過程で毛先を掻き分けていると、赤くなった耳がふと垣間見えた。
「行こうか」
彼女の髪を手櫛で梳かし、僕はまたハサミを扱った。
「いいの?」彼女が控えめに訊いてくる。
「その日は予定ないし、ぜんぜん」
「違くて」
「ん?」
「わたしとお祭りに行って、嫌だったりしないの。そういう意味」
「しないよ」僕はぽんぽんっと、藤崎さんの頭を撫でるみたいに叩いた。「むしろこっちからお願いしたいくらい。藤崎さん。僕とお祭りに行かない?」
僅かな間があった。「……うん」彼女は言うと、「行こうか」と嬉しそうに微笑んだ。
それから僕たちは
そのときの僕たちの心情はなかなかに形容しがたい。何もかもが初めてのことで浮ついていたのも確かだし、傍目から見ればさして特別なことではないのかもしれないが、目まぐるしく変化していく日常にいちいち喜びを覚えていたのも事実だった。まるで脚本の定められていない舞台に、右も左もわからぬまま思わず飛び込んでしまったかのようだった。登場人物は僕と彼女の二人だけ。けれど二人ならば怖くないと、拙いながらも堂々とした演技を披露する。
僕は彼女の正面に回り込み、「これで最後」と言って顔を近づけた。それからしっかりと目元が見えるように前髪をつまみ、小気味よくハサミを鳴らした。はらりはらりと毛先が散りゆく中、油蝉が懸命に鳴いている。
「できたよ」
ようやく彼女の髪を切り終えた。「どう?」と藤崎さんが窺ってくる。
腰まで伸びていたはずの黒髪は、毛先が跳ねているという部分は変わらないけれど、顎のラインに沿うように短く切り揃えられている。
露出した首回りの皮膚が、空に滲んだ太陽に掠められ、なんだか僕には神秘的に白光しているようにも見えた。でもそれに目を疑うことはしなかった。なぜなら彼女のその素顔を僕はすでに知っていたからだ。「よく似合ってるよ」、それだけ言って、僕は彼女の髪をくしゃくしゃに撫でた。
「ならいいの」
藤崎さんは照れくさそうに目を逸らし、両肩をすくめて笑った。
※ ※ ※ ※
髪型を変えた後の藤崎さんの評判はよかった。普段は関わりのないようなクラスメイトたちにも声をかけられて、彼女自身困り果てているくらいだった。同時にそれは、僕の散髪が成功に終わったことの証明になった。人目に晒しても不自然のない仕上がりに、僕も内心ほっとしていた。
とはいえ、いつまでも藤崎さんに注目が集まっているわけでもなかった。一週間もすればまたいつものように、彼女は自分と似た性格――たとえば物静かで本を読むタイプの友達と机を囲んでいた。そちらの方が彼女も落ち着けるだろうし、すでにクラスメイトたちの興味も別のものに移っていた。
「久我っちー」
そう僕を呼んだのは、伊谷だった。
通学鞄を背負って部活に向かおうとしていた僕は、教室を出ようとしたところで振り返る。
「なに?」
「明後日の土曜のことなんだけどさ」
「明後日の土曜」と僕は繰り返す。
「そうそう」伊谷は言った。「浅間の祭りあんじゃん? それ、一緒に回らないかって、話なんだけど」
浅間神社の祭りは、二日間に渡って行われる。それがちょうど今週の土曜日と日曜日に被っていた。
その祭りに男女四人で伊谷も行く予定だったらしい。ただ、女子の中の一人が、「美鈴も一緒に行こうよー」と彼女を誘った。男子二人に、女子三人。居心地が悪いと思った伊谷は、こちら側も誰かを誘うことに決めた。そして人数調整のために僕が選ばれたわけだ。
「久我っちって、白河さんと幼馴染なんだろ」と伊谷が言っている。
「そういう理由で?」と僕は訊いた。
「あと、誰かを誘うなら、俺も久我っちかな、って思ってたんだよ」
「僕たちってそんなに仲よかったっけ」
「ひっどいなー」伊谷はけらけらと得意の笑い声を上げた。隣の席で、いつも話してるだろ、と。
しかし、僕はその日、藤崎さんと浅間神社の祭りに行く約束をしていた。先約があるので、「ごめん」と言いかけたときだった。
「五時からなんだ」と伊谷が言った。一日目は夕方から屋台が並び始めるので、集合時間がその時間になった大方の予想はつく。そして彼はこうも言った。「日曜はみんな用事があるらしくてさ、集まれるのって明後日しかないんだよな」
家族と屋台を回ったり、あるいはその他の事情があったり、それぞれの理由だ。
集まれるのはその日しかない。そんな風に言われると断りづらいな、と僕は思った。困った面持ちで悩み込んでいると、窓際の方から視線を感じた。
見れば、美鈴が不安そうに僕のことを見つめていた。彼女は僕と目が合うと、「だめかな?」と唇を動かし、小さく首を傾げる。僕を誘ったのは伊谷の意向かと思っていたが、もしかしたら彼女も関係しているのかもしれなかった。
「わかった」
このときの僕は、渋々といった感じでそう返事をしていたのだと思う。一時間だけなら問題はないと。しかし今にして思えば、その行為は僕にとって愚策に等しかった。藤崎さんとの約束をまた別の日に変えていればよかったものを、考えが足りなかった所為でそれに気づくのが遅れてしまったのだ。
窓外の景色を眺める。この街を映し出したかのような群青色の空に、作り物じみた入道雲が侵略を始めていた。
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