第10話 味方

 そいつらは僕のことを視界に収めると、一瞬だけ驚いた表情を見せたが、「久我君かよー」とすぐに安堵した表情を浮かべた。その中の一人が、「こっち来いよ」と手招きした。良いもん見せてやるよ、とでも言うように。

 僕はゆっくりとそちらに向かう。ここで逃げるのも何か違う気がした。けれど逃げなかったとして、自分に何ができるとも思わなかった。


 そいつらはまた笑いだした。下心を丸出しにした俗っぽい笑い方だ。

 

 目の前に来た僕を見て、藤崎さんは口を開きかけたが、胸を触られながら黙り込んだ。表情は一つも変わらず、前髪で目元が隠れているので実際に僕を見ているのかもわからなかった。

 代わりに、「なあ」と坊主頭の男子が口にする。「生で触ってみようぜ」


 生。そう言われて、それがどういう意味のもと発せられたものなのかを、僕は即座に理解した。周りの男子たちも同じように理解しているようだった。「まじー?」「ついにやっちゃう?」「やべー、興奮してきた」。次々と放たれる言葉は放課後の教室を鈍色に汚染してゆく。

 濁り切ったその場所で、藤崎さんは延々とされるがままだった。どうしてだろう、と僕は思った。


「久我君。心配しなくてもだいじょーぶ」と坊主頭の男子が言っている。「こいつさ、こうやっておっぱい触っても、先生にも親にも、誰にも言いつけないからさ」


 変態なんだよ。そういうやつなんだよ。そう言っているような気がした。

 そのとき自分がどのような返答をしたのか、僕ははっきりとは覚えていない。ただ、周りのそいつらが愉しそうに笑っていたのを感じて、都合の良いジョークでも発したのかもしれないと思った。

 それが答えなのかもしれなかった。この場所に彼女の味方をする者など誰一人としていなかった。あるいはこの小さくて狭い世界で、彼女を救おうとする者なんてただの一人として存在しないのかもしれなかった。


 坊主頭の男子が、藤崎さんのセーラー服をゆっくりとたくし上げる。背後から抱きしめるようにして、周りの反応を愉しむみたいにずり上げた。

 

「すげえ」と誰かが言った。


 見れば、セーラー服と一緒に、そのブラジャーまでもが胸上に捲られていた。色素の薄い桜色の突起が、そこにいる男子の瞳にはっきりと映る。色白で染み一つない綺麗な肌をしている。

 まるで見世物だった。絵や写真でしか見たことのないような女性の裸体が目の前にあった。坊主頭の男子はにやにやと笑いながら、「ちょっと代わってくんね?」と言った。そして仲間の一人と場所を交代すると、藤崎さんの裸を正面からじろじろと舐め回した。


「まず、俺から触るから」


 藤崎さんは何も言わなかった。何も言わないことで自分の殻に閉じ籠っているようにも見えた。大して知りもしない男に自分の恥ずかしい部分を晒して、その状況を簡単に受け入れてしまう彼女が、なぜだか悲しんでいるように見えて仕方なかった。

 

 微かに震える唇がすべてだと思った。彼女はきっと助けてほしいと願っている。はっきりとそう感じられた。ただ言えないだけなのだと。彼女が消極的で自分を曝け出せない性格だということは、とっくにわかっているはずだった。

 そして偽善的な思いが心を支配するその前に、自分は彼女の恋人なんだという明確な意識が湧いた。なんでお前らが触ろうとしてんだよ、と思った。だからだろう。興奮しきった顔で彼女を見ているそいつらの輪を掻き分けて、気づけば僕は坊主頭の男子の腕を力強く掴んでいた。


「あ?」と彼は首を傾げる。「……もしかして久我君、先に触りたかった?」


 ここでこいつのことを殴ってやれば、何かが変わったのかもしれない。あるいはそれこそが正解なんだという気さえした。

 しかし、僕は俯いたまま言葉を探すだけだった。自分も彼らと同じことを、彼女にしていたのだ、という罪の意識に苛まれていたわけではない。単に怖かったのだ。踏み込んだことによってこれまでの平穏な風景が変わってしまうことが。

 だから保身に走った。それが正しい選択なのだと自分でも思っていた。


「さっき」と僕は口にする。「先生がいたんだ。階段の方に。教室に向かってるみたいだったから、ばれたらやばいよ」

「嘘だろー」と残念そうな声を誰かが上げた。


 もうすぐここに教師がやって来る。あからさまな嘘だったけれど、まさか僕が嘘をついているなんて誰も思わなかったみたいだった。ぞろぞろと足音が鳴る。信じた彼らは足早で教室を後にしたが、僕はそれについていく振りをして、この場にとどまった。


 しばらくすると、背後からぺたりと音が聞こえた。振り向けば藤崎さんが床にへたり込んでいた。僕は彼女のそばまで歩いていき、「ごめん」と言ってしゃがみ込んだ。それから、はだけた衣服を丁寧に整えてやった。

 装いが整うと、それを合図にするかのように藤崎さんが僕の胸に飛び込んできた。え、と声が漏れる。僕は尻もちをついて彼女を受け止めた。


「ふじさき、さん……?」


 反応がない。ただの静寂がこの場に広がった。当たり前のように入り浸る夕焼けが僕らを染め上げ、このこぢんまりとした教室に半端な影を作っている。

 それから数秒後、藤崎さんは声を上げずに泣いた。肩を震わせ、しゃくりあげるように僕の胸元に顔をうずめ、皺ができるくらい強く、衣服を握りしめていた。彼女の嗚咽を聞いた。静かに泣きじゃくるその姿は、僕の心を酷く痛めつけていた。


 胸を触られるだけではとどまらず、彼女はその裸体をあいつらに晒してしまったのだ。プールの授業ごときで羞恥していた自分が、急に恥ずかしくなった。彼女はそれ以上の恥辱を受けていたというのに。

 ごめん。再びそう言って、僕は彼女のことを抱きすくめた。


「大丈夫だよ」


 そのとき、藤崎さんが顔を上げて言った。流れた涙を指先で拭い、僕に向かって笑いかける。


「久我くんはわたしを助けてくれた。それだけで充分だよ」

「……助けたって言えるのかな?」と僕は訊いた。

「言えるんだよ。少なくともわたしはそう思ってる」


 藤崎さんの顔からはすでに涙は引いていた。代わりに穏やかな笑みがその場所に浮かぶ。僕は「立てる?」と言って手を差し出し、「うん」と肯いた彼女と一緒に立ち上がった。


「これから、どうしようか」


 ぽつりと、目の前の不安が口からこぼれ出す。


「あいつらまた、藤崎さんに手を出すかもしれない」

「気にしないで」


 言うなり、彼女は僕の隣に立って、ぽんっと軽くお尻を叩いてきた。まるで昨日の仕返しをしているみたいだった。

 この数分ばかりの出来事で、彼女の心境にどんな変化があったのかは正直言ってわからない。しかし後日、再び胸を触ろうとしてきた坊主頭の男子に向かって、「今度わたしに触ったら、今までのこと、先生に言いつけるから」と彼女は言った。


 変わろうとする彼女と、変われずにいる僕。どちらが正しくてどちらが精神的に強くなれたのか、それは言わずとも明白だった。

 

 僕は未だ臆病者のままでいる。でも少しでも彼女の力になれるなら、なりたいと思った。味方のいない世界なんて悲しいだけだから。

 

 

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