第9話 ピクニック
待ち合わせ場所は、二人が共通で知っている広々とした公園だった。その一角にそびえる時計台の前で、僕はそわそわと辺りを見回していた。そこにはベビーカーを引く家族連れや、遊具で笑い合う小学生くらいの子供たちがいた。ガラの悪い連中が
「おはよう」
背後から声が聞こえた。振り向くと、私服姿の藤崎さんが上目遣いで僕を見ていた。膝丈の白いスカートと空色のカットソーを身に纏い、雰囲気は普段より明るく感じられる。ピンで留められた前髪は横に流されているし、もしかすると、髪型がお下げになっていることがいちばんの理由なのかもしれない。
おはよう、と返すことを忘れて僕が驚いていると、彼女がショルダーバッグの紐を両手で持ち、にぎにぎとしながら目線を下げた。
「三つ編みはお母さんにやってもらったの」
今日のために、ということらしい。
「似合ってると思うよ」、僕はそんなことしか言えなかった。けれど彼女はそれで満足だったようで、ふと口元を緩めると、僕の隣に立つ。意外にもわかりやすい子だと思った。
午後一時三十分。僕たちは目的の場所に向かうことにした。一昨日の夜に話し合った結果、今回は無理な遠出はしないことに決めた。実は僕の家の近くに穴場的なケーキ屋さん――これは僕が勝手にそう呼んでいるだけなのだが――があり、そこのモンブランがほっぺたがとろけるほどの美味しさなのだ。もっとも今日はモンブランではなく、その店に売られているプリンを買いに行った。
道中では、気まずくならないように僕が話題を振っていた。それに対し藤崎さんもしっかり返答してくれていたのだけれど、僕の性格を知っている人がこの状況を覗き見れば、十中八九全員が、アスファルトの上でもどこでも盛大に笑い転げていたに違いない。会話が苦手な僕が率先してしゃべるだなんて、想像しようにも無理な話だし、いかにも滑稽なことだっただろうから。
ガラス瓶に入ったプリンを二個だけ買った後は、古本屋に向かった。
狭くて埃っぽい印象だったけれど、外から聞こえる蝉の声と、鳴り渡る風鈴の音は心を落ち着かせてくれる気がした。ここは藤崎さんの行き着けの場所らしい。その場所で宮沢賢治の本を買った僕は、ついでに彼女におすすめされた星新一の本も購入し、店を出た。
※ ※ ※ ※
「おいしい?」
瓶に入ったプリンをプラスチックスプーンですくいながら、僕は訊いた。
それは公園の屋根付きベンチに隣り合わせで座っているときのことだった。テーブルを挟んで向かい合わせに座るでもよかったが、迷った挙句にこうなった。
彼女は小さな一口でプリンを食べ、おいしい、と言った。
「ちゃんと覚えててくれたんだね。わたしが、ぷりん好きだってこと」
「僕、変なところで記憶力いいから」
「……なのに勉強はできないの?」彼女が首を傾げる。
「そう」と僕は言った。
いっしょ、と言って、藤崎さんはくすりと笑った。だいぶ打ち解けてきているようだった。
僕は、彼女の声がこんなにも心地よいものだとは知らなかった。繊細で、触れれば折れてしまいそうなほどにか弱くて、ときどき震えが交じるその音は、夏の日差しによく似合っていた。
ピクニックをしよう。そういう言葉を交わしたわけではない。でも僕たちが今していることは、それに近い何かだったのだと思う。
プリンを食べ終えた僕ら二人は、先程買った本を無言で読み始めた。彼女が宮沢賢治を読んでいたから、僕は星新一を読んだ。「かぼちゃの馬車」。彼らが書く短編はここにはない様々な世界を見せてくれる、と藤崎さんは言った。くだらない誰かの価値観も、つまらない学校の授業も、いたたまれない家庭のどこかも、全部を取っ払って新しい世界を見せてくれる。
陽光がガラス瓶に反射して眩しかった。牛乳瓶にも似たそれを視界からどけて、僕は頬杖を突いた。ページを
※ ※ ※ ※
ふと目を覚ますと、いつの間にか辺りは暗くなっていた。夏の虫がささやかな合唱を始めている。
「起こしてくれればよかったのに」
僕がテーブルに突っ伏しながら横を向くと、ぱたりと本を閉じて、彼女がやわらかな微笑を湛える。
「気持ちよさそうに眠ってたから。なんか悪いな、って思って」
少し下から見る彼女の顔は、街灯の光に照らされてぼやけているからか、あるいは僕がまだ寝ぼけている所為なのか、白くて、丸くて、尊かった。
上体を起こして再びその顔を見ても、それは変わらない。
「帰ろうか」と僕は言った。
「うん」と彼女も小さく肯いた。「帰ろうか」
僕たちの不慣れなデートは無事に終わりを迎えようとしている。
しかし刻々と終わりが近づいていくにつれ、僕らの会話は歯切れの悪さを増していった。じゃあね、と何でもない笑顔で手を振ることができれば、ちょっとは楽になれたのかもしれない。それでも誰もいない夜道は寂しさと名残惜しさを助長させる。
僕は、しんみりとした感じで終わるのも何だか嫌だな、と思った。ここでキスでもできれば自分で自分を称えられたのだが、ふと湧いて出たのはちょっとした
直後、
「あぅッ――」
彼女がお尻を押さえて、びっくりしたように飛びのいた。それからくるりと振り返り、僕のことをキッとにらみつけてきた。
やばい、と僕は焦った。胸を触るのを許してくれたのだし、こういうのはスキンシップの範疇だと思っていたのだが、どうやらそれは間違いだったようだ。
彼女はそのまま、何も言わずに走り去ってしまった。頬が膨らんでいるように見えたのは、たぶん気の所為じゃなかった。
あれは、絶対に怒っている。
※ ※ ※ ※
次の日の放課後、お尻を触ってしまったことを謝ろうと思って、僕は屋上の踊り場に藤崎さんを呼び出した。しかしその場所に彼女は来なかった。
嫌われてしまったのだろうか、と僕は思う。あの一日で彼女との距離はだいぶ近づいた気がしていたのだが、気がしていただけで、実際は一ミリも進展していなかったのかもしれない。
屋上の踊り場でじっと待っているのも退屈だったので、僕は五階に下りて彼女を探してみることにした。当てはある。昼休みに図書室で本を読んでいるところをよく見かけるから、おそらくはそこか、もしくは放課後ということでまだ教室に居座っているのか。
とりあえず、すぐに確認できそうな教室に行くことにした。
すると誰かの声が聞こえた。数人の男子の声だ。それはやけに耳障りで、下品な笑い方をする知っている男子の声だった。
クラスメイトに数人、そういうやつらがいた。教室で何をしているのかは知らないが、そこに藤崎さんがいることはないだろうと思い、僕は立ち去ろうと踵を返したのだが――しかし次の瞬間、足を止めた。
藤崎さんの名前を、そこにいる誰かが呼んでいるような気がした。聞き間違いかもしれないと、そう思った。けれど嫌な予感がした僕は、立ち去ることをやめて、不安になりながらもその教室を覗いたのだった。
そこにはやはり、クラスメイトの男子が数人いた。前方の扉から覗く僕に対し、彼らは後方のロッカーの辺りでたむろしていた。
誰かを囲うようにして、誰かを嬲るようにして、群がっていた。
それだけなら僕も、自分の不甲斐なさを言い訳にして、この場から立ち去っていたことだろう。しかしそれができない理由が、そこにはあった。
一ヶ月前、藤崎さんのことを「変態」と言っていたあの男子が――丸坊主頭のそいつが、なぜなら彼女の胸を、後ろから羽交い絞めにするようにして、触っていたからだ。
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