第8話 デリカシー
僕と藤崎さんが屋上の踊り場で密会するのは、基本的に三十分程度の短い時間でのことだった。これは僕が部活のためそうせざるを得なかったからだ。いちいち部活動を抜け出してもきっと怪しまれる、そういう理由で。
そして僕が彼女の胸を触ったあの日から、LINEでのやり取りが劇的に変化した――ということはなかった。好きな食べ物や嫌いな教科などの、ありふれた質問についてはもはや訊き尽くした限りだが、そうなればあとは意味のない会話に興じるだけだった。たとえば明日の晩御飯についての予想を立てたり、地球外生命体が本当に存在するのかどうか語り合ってみたり、そういう話だ。会話の内容はさして重要なことではなかった。そのとき彼女と会話をしているという事実が、僕にとって大きな意味を持っていたのだ。
あるいは彼女にとっても、そうであったのかもしれない。
さて、話を戻そう。あれからLINEでは大した言及をしてこなかったものの、僕は次に彼女と会ったときも前とまったく同じことをした。要するに彼女の胸を触ったのだ。そして彼女もそれを受け入れた。僕は「彼女の胸を触る」という目的のもと屋上の踊り場に出向き、彼女は「僕に胸を触られる」ということを理解しておきながらも屋上の踊り場に出向いた。それが一か月以上も続いたのだから、その行為が実は間違ったものだとしても、それに僕は気づけなかった。
初めは彼女の隣に座り、控えめに触るだけだった。しかし次第に両手で触るようになってから、僕はおそらくは自重ができなくなっていたのだと思う。
一週間が過ぎた頃には、彼女の後ろに回り込み、その胸を下から押し上げるように揉んでいた。それから身体を密着させ、ホールドスチールにも似た体勢で彼女を抱き込んだ。足の間に入り込んだ彼女は、まるでそこが自分のもともとの定位置だったかのように、すっぽりと収まっていた。
髪に見え隠れした首筋からはほのかに石鹸の匂いがする。顔を近づけてみると、彼女の口から微かな吐息が漏れていることがわかった。僕は片手で胸を揉みながら、もう片方の手をスカートの中に滑り込ませる。やわらかなふくらはぎをなぞり、すべすべとした太腿を優しく撫でた。そのたびに、「ん、ぁ……」と彼女が色っぽい声を上げるものだから、僕の下半身はどうしようもない熱を持ってしまっていた。
今はまだそこまでしか踏み込めていないけれど、もっとデリケートな部分にふれられるようになるには、たぶん時間の問題なのかもしれない。僕は水の弾ける音を聞きながら、藤崎さんとの淫らな逢引について思い返していた。
「暑いねぇ」
虫取り網を片手に持ちながら、美鈴がまっさらな空を見上げていた。
六月下旬。夏の予感を孕んだ風が、僕たちのいるプールサイドを何食わぬ顔で駆け抜けてゆく。辺りでははしゃぎ声を上げる生徒の他に、蝉の音もじりじりと聞こえていた。
「やまとくんは入らなくていいの?」
美鈴は僕の隣に立つと、後ろ手に覗き込んでくる。
「一応、見学だから」と僕は言った。
「どこか怪我してるとか?」
「まあ、そんな感じかな」
四時限目の
「そっちは?」
僕は水面に落下した落ち葉を虫取り網ですくうと、美鈴の方に顔を向けた。彼女は「へ?」となぜだか素っ頓狂な顔をして、「あー」とか「んー」とか言葉を探している。そして視線を斜め下に置くと、
「やまとくん。女の子にそういうこと訊いちゃいけないんだよ」と言った。
何かよからぬことでも言ってしまったのだろうか。
「……どういうこと?」と僕は訊いた。
「わからないならいいの。でも、ちゃんとデリカシーってものも勉強しなきゃ」
そうしなきゃモテないよ、と言って彼女はこの場所を離れた。あまりそのことについて問いただされたくないという表情をしていた。自分から話を振っておいてよくわからなかった。
僕はそんな彼女の後姿を目で追い、小さく首を傾げる。そのときちょうど、藤崎さんがはしごを使ってプールから上がってきていた。藤崎さんは美鈴とすれ違うと、彼女のことをちらと横目で見る。それから視線を戻し、いつも通りの物憂げな顔で、僕の方に歩いてきた。
ただ、いつもとはちょっとだけ違うところがあった。
「あ……」と僕に気がつき、二メートルほど離れた場所で足を止める。彼女は恥じらうように、両手の指先を太腿の前で絡めていた。
スクール水着姿を僕に見られたくないのかもしれなかった。普段は長いスカートで隠されている素足が、今は水滴を伝わせながら空気に晒されている。さらにはプール帽子に前髪を仕舞い込んでいるからか、彼女の瞳がはっきりと窺えるようになっていた。眠たそうに垂れていて、自信なさげに揺れている。そんな瞳を僕が見つめていると、不意に、彼女と目が合った。
彼女ははっとしたように目を見開き、そして逃げるように駆けていった。たったった、と僕の横を足早に通り過ぎていったのだけれど、その瞬間――。
「藤崎!」と担任の教師の怒声が聞こえた。ビクっ、と藤崎さんの肩が跳ねる。「プールサイドを走るんじゃない!」
僕は、授業の初めに、プールサイドは走るなと口酸っぱく言われていたことを思い出す。滑って転びでもしたら危険なのだから、わかるにはわかるのだけれど、彼女のしゅんとした小さな背中は、とても不憫に見えた。
※ ※ ※ ※
今日の藤崎さんの髪の毛からは、プール上がりの塩素の匂いがした。僕は彼女の肩に顎を乗せるようにして、「プールの匂いがする」とそのままを伝えた。
彼女は、ん、と身を捩らせるだけで言葉は返さない。膝を擦り合わせて、僕に胸を触られている。嫌がる素振りも見せないので、それを肯定と捉えて僕は少しずつ行為をエスカレートさせていった。彼女の胸を揉んでいた手を、下へ下へ、上着の裾の辺りまで添わせてゆく。それから上着の中に手を滑り込ませると、その温かな腹部をさわさわと撫でつけた。
彼女は手で押さえるだけの弱々しい抵抗を見せるが、当然ながら無意味に終わっていた。おへそをくすぐると、くすぐったそうに腰を捻る。そのままくびれを伝って胸にまで到達した僕の指先が、下着らしき物体に触れる。ゴム製のブラジャーだった。そしてそのブラジャーの下に僕は指を入れようとしたのだが――しかし、そこで気づくべきだったのかもしれない――突然、彼女は僕のことを押しのけると、か細い悲鳴を上げた。
「やッ――」
初めての明確な拒絶に、僕は戸惑った。指先に触れた柔肉の感触も、一瞬で遥か彼方へと消え去った。
束の間、胸を刺すような静寂が降りる。彼女は放心してものが言えなくなってしまっている僕を見ると、「あ、えと、ごめ……なさい。ちが、くて……」としどろもどろに狼狽える。悪いのはこちら側なのに、そんな風に自分の方に罪があると決め込む反応が、心の奥でざわめいていた違和感を増長させた。
胸を触ることは、恋人らしいことではない。いや、らしいと言えばらしいのかもしれない。
ただ、順序が違った。僕はまだ、彼女のことを何一つ知らないのだ。好きな食べ物や本は知っていても、本当に彼女がプリンを好きなのか、あるいは本当に宮沢賢治の本を読んでいるのか、僕は知らないし知ろうとすらしなかった。それはとても悲しいことに思えた。
これはただ単に、そういう知識を持っている、というだけのことなのだ。
「藤崎さん」
足の間で小さく縮こまっている彼女に向かって、僕は声をかけた。
彼女は不安そうな瞳で僕を見つめてくる。まるで僕の口から放たれる言葉によって、自分のこれからの人生が決まってしまうかのように。
そんなことはないと安心させてやれればよかったのだが、気恥ずかしさに負けた僕は顔を少し背けて、ただ遠回しに自分の気持ちを伝えることしかできなかった。
「今週の日曜日。どこかに遊びに行かない?」
放課後。夕陽の照りつける屋上の踊り場でのこと。僕は彼女を、デートに誘った。
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