第7話 じゃあね

 頼めば誰にでも胸を触らせてくれる。その真偽は定かではないけれど、実際に彼女は何の抵抗も見せなかった。だとすればあの話は本当だったのだろうか、それとも、僕が彼氏だから拒まないのか。いずれにせよ女の子の胸を触れているという事実に、僕は内心歓喜していたのだと思う。

 彼女は「ぁ……」と小さな声を漏らしたきり、口を噤んでされるがままになっていた。抱きかかえている鞄の隙間から滑り込む、僕の手。セーラー服越しの慎ましやかなそれを、僕は触っていた。

 やわらかいというよりも固い感触があった。女の子がブラジャーというものをいつ頃から着け始めるのかは知らないが、すでに身に着けてもよい膨らみ加減はしていたので、その所為かもしれないと思った。

 ただ、固いといっても、僕の指先はちゃんと彼女の胸に沈んでいた。壊れものを扱うように揉みほぐすと、膨らんでいる部分が僕の手の形に姿を変える。気持ちは徐々に徐々に昂っていき、僕は片手だけでなく両手で触れようと前のめりになったのだが――。


「久我くん」


 彼女が、僕の名前を呼んだ。

 一瞬で視界がクリアになる。触れていた手を離して、僕は叱られた子供のように反省を滲ませていた。


「な、なに……?」

「……時間」と彼女は言った。


 校舎内に、下校時刻を告げるチャイムが鳴り響いていた。あまりにも夢中になり過ぎていて、僕は気づいていなかったらしい。そんな僕に叱責の一つや二つ浴びせてしまっても構わないというのに、彼女はそれ以上何も言わなかった。扉から差し込む夕焼けを半身に浴びて、おそらくはその所為だろう、頬を少しだけ赤くしていた。

 帰ろうか、と僕はつぶやいた。

 彼女は身を縮こめるように、うん、と肯いた。



 二人で無言のまま階段を下りていると、寂しげな足音が異様に目立った。夕陽の当たらない踊り場を通り過ぎるとき、意図したことではないけれど、手と手が触れ合いそうな距離に僕らはいて、それを何でもないことだと思いながら歩くことが辛かった。

 僕はさっき、彼女の胸を触っていたんだ。短絡的ではあるけれど、付き合うってこういうことなんだと思った。今まで妄想の中でしかできなかったことを自由に体現できる立場にいる。それを彼女も許容してくれていて、だからこそこれから先のことを考えると心が躍った。

 

 下駄箱で靴を履き替えると、僕は彼女に向かって「じゃあ、また」と言った。部室に荷物を取りに行くので、彼女とはここでお別れとなる。名残惜しい気もするけれど、「じゃあね」という彼女の小さな返事を聞き、また会えるのだから気にすることはないと受け入れた。


 放課後の斜陽が、胸の奥をひたすら締めつけていた。



※ ※ ※ ※



 体育祭は無事、晴天の中で行われた。

 だが、僕は小さい頃からこういう行事ごとが苦手だった。内向的で自分を取り繕ってばかりいる性格ゆえか、周りの皆みたいに熱情的に何かに打ち込むことが恥ずかしかった。大声で叫んだり、誰かを強く励ましたり、意思とは関係なく絆を深めようとする学校の方針が、たまらなく苦手だった。

 だからその日の体育祭では、僕は本当につまらなそうにしていたのだと思う。「やまとくん、欠伸してたよ」と美鈴に言われて、そこで初めて気づかされた。


「たまたま見ちゃったんだけどさ、私、思わず笑っちゃった」

「……そ、そうなんだ」としか、僕は言えなかった。

 

 体育祭の打ち上げでのことだ。晴れて勝利を収めた僕らのクラスは、近所のサイゼリヤで打ち上げをすることになった。そこまで大々的なものではなかったけれど、クラスの半数以上が集まり、体育祭はもちろんそれとはまったく関係のない話題でも盛り上がっていた。

 今はその帰りだった。それぞれが自分たちの家路に向かおうとする中で、「私たち、こっちだから」と美鈴が僕の隣に立ち、クラスメイトたちに手を振る。女子はあまり気にしていなかったみたいだけれど、男子たちは冷やかしたり羨望の眼差しを向けてきたりした。久我ー、ちゃんと送ってやれよー、とか。いくら白河さんと二人きりだからって、襲っちゃだめだぜー、とか。


「そんなことしないよね?」と美鈴が訊いてくる。

「うん。するわけない」と僕は断固として否定した。


 そのとき、ちらりと藤崎さんが視界の端に見えた。若干気まずくなるも、僕は周りに気づかれないように手を振った。すると彼女も、腰の前で小さく手を振ってくれた。どうやら怒ってはいないようだ。

 僕がほっと胸を撫でおろしていると、「どうしたの?」と美鈴が不思議そうに覗き込んできたので、「なんでもない」と言って僕は歩き出した。その後ろを彼女もついてくる。

 

 国道沿いの歩道では車の走行音がまばらに聞こえるだけで、他には僕たち以外誰もいなかった。星の輝く夜空にはくっきりと三日月が浮かび、その真下では彼女がずっとしゃべり続けている。とはいえ一方的にしゃべり続けているというわけではなくて、いい具合に僕にも話題を振ってくるので僕も自然にしゃべらされていた。

 こんなに話すのは久しぶりだった。普段は特に用もないので、わざわざ彼女と話すということもなかった。一日の中で会話をしないことなんてざらにあるし、すれ違っても軽い挨拶を交わすくらいだった。だからなのかもしれない。それまでのちょっとした疎遠を取り戻すように、彼女は自分の身に起こった最近の出来事を僕に話してきたのだ。


 静まり返った住宅街に入り、ようやく僕らの住む団地まで辿り着いた。ポストの前まで歩いていくと、不意に、「思ったんだけど」と彼女が振り返る。


「なんか、身長高くなった?」


 真っ正面から向かい合うような形になって、僕は反射的に後ずさってしまった。漂ってきた柔軟剤のいい匂いが、彼女の存在を間近に感じさせる。

 僕が顔を背けていると、「なんで照れてるんだよー」と彼女が笑いながら脇腹をつついてきた。「私たち幼馴染でしょ。変なの」


 団地の壁に反響するその声が、良くも悪くも、僕を落ち着かない気持ちにさせていた。僕の身長が少しずつ高くなっているのと同じように、彼女も彼女で、女性らしい身体つきになってきているような気がした。丸みを帯びた肩や、豊かに育ってゆく腰回り。あのとき、小学五年生のときに触ったその胸は、ここ数年で他の誰よりも人目を惹く膨らみとなっていた。あのときは一言の謝罪で許されたけれど、今そこに触れてしまえば、僕は取り返しのつかない過ちを犯すことになる。

 何しろ僕たちは、ただの幼馴染なのだ。その魔法のような言葉でカモフラージュされていても、踏み込むべきところにはちゃんと境界線が引かれている。嫌われるのが怖いというだけかもしれないが、間違っても一線を越えてはならないと思った。


「じゃあ、また学校でね。やまとくん」


 彼女が階段を上っていき、玄関の扉に手をかけた。淡い蛍光灯の光に染められて、彼女の姿は白くぼんやりと瞬いている。

 僕は言葉を発さぬまま手を振った。

 にっこりと微笑んだその顔を、また忘れられなくなる。

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