第6話 秘密の恋人

 夕飯を食べ、風呂に入り終えた僕は、自分の部屋のベッドに横たわると、さっそく藤崎琴音のトーク画面を開いた。やり取りはあのときのままで、「いいよ」という淡白な文字だけが瞳に映っている。

 まだ夢を見ているような気分だった。しかし、何度も確かめてそれが夢ではないことを実感していくたびに、胸の内側がこれまでとは違った高鳴りを覚えてくる。浮かれているのはその所為だ。リコーダーのことなんて、このときには頭の片隅にすらなかった。

 僕は横向きに寝転がった状態で、スマートフォンを操作する。「藤崎さんの好きな食べ物は?」というメッセージを、悩んだ末に送った。すると一分も経たないうちにメッセージが返ってきた。


「プリン」


 ぷりんかあ、と僕はつぶやいた。大して知りたいと思っていたわけではないが、仮にも僕たちは恋人同士なのだ。何でもいいから何かを話したくてしょうがなかった。

 でも、一つだけ心配事があった。


「僕たちって付き合ってるんだよね?」と僕はメッセージを送った。

「付き合ってないの?」と藤崎さんから返信が来た。

「付き合ってると思う」

「だよね」


 その確認が取れただけで安心してため息が出た。本当に僕たちは付き合っているのだ。

 それから好きな色や嫌いな教科、なぜか自分たちの家族構成の話もした。彼女は青が好きで、僕は黒が好きだった。そして数学が苦手な彼女に対し、僕は全部の教科が嫌いだった。共通点は一人っ子という点のみで、けれど言いたいことや訊きたいことは他にもたくさんあった。

 その夜、僕たちは深夜までLINEのやり取りをした。初めての夜更かしだった。



※ ※ ※ ※



 やり取りは翌日の日曜日にも続いた。その日はお互いに何の予定もなくて、時間さえあれば携帯とにらめっこしていた。とはいえ、そんなにもメッセージを送り合っていた僕らだが、次の日の学校ではそれらが嘘のようによそよそしかった。「付き合っていることは自分たちだけの秘密にしよう」というやり取りがあったのは確かだが、それだけではなかった。僕が目を合わせようとすれば彼女は目を逸らすし、彼女が目を合わせようとすれば僕が目を逸らす。つまるところ、僕たちはお互いに人見知りで、お互いにデジタルの中でだけ饒舌だった。

 伊谷が僕と彼女のことを似ていると言っていたのは、あながち間違いでもなかったのかもしれない。藤崎さんはよく本を読んでいた。ブックカバーが付けられていて何を読んでいるのかはわからなかったが、LINEで訊いてみると、「宮沢賢治」という答えが返ってきた。それは漫画しか読まない僕には未知の世界のように思えた。でも、のちに僕が文学にのめり込むようになったのは、彼女がきっかけだった。

 

 あのとき、僕が彼女に告白したときにいた友達には、詳しいことはあまり話していない。たまに訊かれることはあったけれど、順調だと言って誤魔化した。幸いなことに、友達もそれ以上は追求してこなかった。

 考えてみればまだこれは一週間ばかりの出来事だ。初めての者同士の恋愛が、大人の恋愛のようにあっという間に進展していくわけがない。じっくりと着実に距離を縮めていくことこそがきっと正しい付き合い方なのだ。ただ、そんな真っ当な知識を持ち合わせていない僕らは未熟で、子供ながらに大人のような恋愛に憧れを抱いていたのだと思う。

 その日のLINEのやり取りでは、付き合ったら何をするかについて話していた。手を繋ぐとか、ハグをするとか、デートをするだとか。そして僕たちがいちばん興味を抱いていたのは、キスのことだった――。


「ディープキス」

「ディープキス?」と僕は返信した。「それって、ハリウッド映画とかでやる、あの濃厚なやつ?」

「たぶん、そう」

 

 いまいちピンとこなかった僕は、一旦それを想像してみることにした。唇を重ね合わせる僕と彼女。啄むように音を鳴らすお互いの姿を。それは思い浮かべるだけで心臓が張り裂けるような、甘美な行為に思われた。


「やり方はわかるの?」と僕は訊いた。

「わからないけど、」と彼女は返した。「でも、してみたい」


 それが、僕たちが初めて直接会うための、理由となった。僕たちは、ディープキスをするために対面することにした。



※ ※ ※ ※



 僕たち一学年の教室は校舎五階にあって、屋上を繋ぐ階段と距離が近かった。ホームルームから一時間ほど経ち、五階の教室に誰もいなくなったところを見計らって、屋上の踊り場で落ち合うというのが僕たちの些細な計画だった。

 僕は部活の練習を抜け出してその場所に向かったのだが、動悸が激しく、乱れる呼吸を整えることができずにいた。教室で毎日のように顔を合わせていても、一度も言葉を交わしたことがない二人だ。僕は間違いなく緊張していた。

 五階の踊り場で長い深呼吸をして、手すりに手を添わせながら階段を上がっていく。そして息詰まりそうになりながらものぼり終えたところで、そこに誰かがいることに気がついた。藤崎さんだ。


「あ……」


 だが、言葉が出なかった。まるで喉の奥に鉛を詰められたような気分だった。

 彼女は通学鞄を抱きかかえながら、壁を背にするようにして座っていた。そして僕のことを認めると、腰まで伸びた長い黒髪を揺らして立ち上がった。待たせてしまったのかもしれない。僕は部活のため学校指定のジャージ姿だったけれど、彼女の格好は帰宅するためのセーラー服だった。

 屋上の扉はガラス張りで、そこから差し込む光が僕たちを薄く照らしている。静かな沈黙があった。僕は、ぎこちなくも口を開いた。


「……とりあえず座ろっか」


 彼女はこくりと肯いた。僕が壁に寄りかかって座ると、その隣にゆっくりと腰かけてくる。ずっと下を向いていて何も話さないのは、彼女も僕と同じように緊張しているからだろうか。彼女の横顔をじっと見つめて、僕はやり場のない感情をため息と共に吐き出した。

 とはいえ、彼女はそこまで美人といったわけではなかった。小柄で庇護欲を誘う体型であることは間違いないが、まったくの無表情で何を考えているのかははっきり言ってわからない。前髪で目元が隠れているし、髪には若干のくせがあった。口尻にあるほくろ・・・だけが僅かな存在感を放っている以外、取り立てて特筆すべき点のない素朴な女の子だった。ただ、そんな彼女を可愛らしいと思ってしまうのは、この一週間ばかりのやり取りで僕が彼女のことを神格化してしまっていたことも関係しているのかもしれない。ちょっとやそっとのことでは、評価を下げるなんてことはしない。


 すると、彼女が動揺したようにそっぽを向いた。少し俯き気味で、指先をもじもじと絡めている。

 どうやら見つめすぎたようだった。僕はふと顔を正面に向けて、それもそうだよな、と思った。なぜ自分がこの場所にいるのかという理由を考えれば、それは当然のことだった。

 彼女の唇をちらりと見る。薄くて赤い肌の表面がここからでもよく見える。今から、その唇へ触れるのだと思うと、じわじわと心の奥底が熱を帯びていくような感じがした。まるで内側から炭酸飲料で刺激されているような感覚だった。

 しかし、いつまで経っても僕は動き出すことができなかった。微動だにせず沈黙を選ぶことしかできない。やがて太陽は西へ傾き、放課後の校舎を青の混じった橙色に染めてゆく。このままじっと時を待っているだけになると、下校時刻のチャイムが僕たちの逢引の終わりを告げに来る。でも、やっぱりそれは悔しかった。何もせずに終わりを迎えることが。


 ディープキスはできないのかもしれない。それに至るまでの勇気を僕は持ち合わせていないから。でもこれだけはかろうじて実行できるというものが、一つだけあった。

 

 僕はそっと手を差し出す。そして、彼女の胸を触った。

 

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