第4話 変態
あれから一週間ほど経ったが、何の制裁もないどころか、美鈴はまたあのリコーダーで音楽の授業を受けていた。僕が唇をつけたあのリコーダーで。
僕についての悪い噂が広まっていないということがせめてもの救いだった。おそらく、あのときの女の子が黙っておいてくれているのだろう。隅の方で特定の友達とだけつるむような、あまり自分からは主張しないタイプの子のようだし、願わくば僕の醜態はそのまま墓場まで持っていって欲しかった。
しかし、残念なことにそれは僕の憶測でしかない。僕は彼女のことを外側の部分でしか判断できていないのだ。もしかすると彼女は、仲間内であのときの僕のことについて語り合い、隠れて悪口を言っているのかもしれない。そんな不安はどう取り繕っても、いつまで経っても心からは拭えなかった。
「久我君って意外と足速いよな」
その日、体育の授業で準備運動をしていると、隣にいた男子が声をかけてきた。隣の席の
ただ、僕は彼の名前を未だ呼べずにいた。初めの一歩を踏み出せなかった時点で、僕はもうこの人の名前は一生呼べないだろうと思った。
「小学校のときも足速かった感じ?」伊谷が独特なストレッチをしながら訊いてきた。
「学年で四番目に速かった」と僕も屈伸しながら答えた。「ぎりぎりリレ選に選ばれなかった感じ」
「あー。久我君の小学校の人たち、みんな運動神経良いもんな」
どうして僕たちがこんな話をしているかと言うと、それは体育祭が二週間後に迫っているからだった。今日はその合同練習をするため、一学年全員が校庭に集まっている。初めての体育祭ということもあって、周囲のクラスメイトたちは団結力というものに磨きをかけているようだけれど、僕はあまり乗り気じゃなかった。
「そっちは?」屈伸を止めて、次は僕が訊いた。「運動できる人とか、いないの?」
「あー」と伊谷は背中を逸らした。「いるっちゃいるけど、そんないないな」
「どっちだよ」僕がそう言うと、彼はけらけらと笑った。
「男子より女子の方が運動できんじゃねー?」
彼の視線が向いた方に、僕も顔を向けた。そこには男子のようにむさ苦しくない、華やかな女子の集団が見えた。その中には美鈴の姿もあった。相変わらず人と打ち解けるのが上手なようで、愛想のいい笑顔を振り向きながら何人かの友達と雑談していた。
伊谷はそことは別の、物静かな女子たちを控えめに指さした。
「ほら、あの藤崎ってやつ。あの見た目でもさ、走るとはえーんだよ」
僕はしばらく、彼の言う藤崎という女の子のことを、目を見開いて凝視してしまった。胃が痛くなる。彼女は僕の醜態を見て逃げていった、あのときの女の子だった。
「久我君と似てるな」
「え、僕?」わけがわからなくて、僕は彼の方に振り向いた。
「普段は静かなのに、実は色々と器用なんだよな。いや、だから器用なのかもしれない。謎めいたところとか特に似てる」
「それ、褒めてんの?」
「褒めてなきゃこんな言葉出ねーよー」と彼は両手を頭の後ろに置いた。「ま、俺の方が二人より速いけどな」
足の速さには自信があるらしい。さすがアンカーを任されるだけのことはある、と僕は思った。そんな風に会話を交わしている僕たちに、「何の話してんだ?」と声をかけてくる者がいた。丸坊主頭のクラスメイトだ。伊谷は「お前かよ」と言うと、先程まで僕たちが話題にしていたことを彼に伝えた。どうやら同じ小学校出身らしい。
「藤崎なー」と丸坊主頭の男子は、にやにやと嘲るような笑い方をした。「久我君は、あいつがどんなやつなのかもう知ってる感じ?」
「え、知らないけど」急に話しかけられて、僕はそんな返答しかできなかった。
「だよなー」と彼は笑った。「おれたちの小学校では有名だったんだけどさ。あいつ、変態なんだぜ」
「変態?」
中学生にしたら当たり前で、しかし女子に向けるにはいささか不釣り合いなその言葉に、僕は戸惑った。「お前、まだそんなこと言ってんのかよ」と伊谷が呆れている。一体どういうことなのだろう。
担任の教師が校舎の方からやって来るのが見えた。準備運動を行っていたクラスメイトたちは、教師の姿を視界に収めると気だるげに列を作っていく。そんな中で僕たち三人だけが未だ歩き出していなかった。
そして丸坊主頭の男子が、「あいつはさ」と声を抑えたように言う。周囲の雑音がそのときばかりはなりを潜めていく。誰の声も聞こえない。けれど目の前のそいつの声だけは、やけに明瞭な響きをもって僕の耳に届いてくる、そんな気がした。
「頼めば、誰にでもおっぱいを触らしてくれんだよ」
※ ※ ※ ※
聞き間違いかもしれなかった。あるいはあれはただの冗談なのかもしれなかった。しかし体育祭練習が終わった後で、偶然にもその話の続きを聞く機会があった。
彼らの小学校では、高学年のときに「女子の胸を触る」という下劣なゲームが流行っていたと言う。もちろんそれは一部の男子でのみ流行っていたことであり、その他の男子も一緒になって女子の胸を触っていたというわけではない。
男子たちはそのゲームで、胸を触られたときの女子の反応を見て楽しんでいたらしい。一度、やり過ぎて教師に言いつけられたこともあったそうだ。そのときはこっぴどく叱られたのだけれど、簡単にやめられなかった彼らは次に人を選ぶようになった。
普通の女子なら胸を触られることに嫌悪感を示すだろうが、一人だけ何も言わずに触らせてくれる相手がいた。教師にも言いつけず、むしろ協力的に我が身を差し出してくれる絶好の標的が。
それが、
僕は自室のベッドで仰向けになりながら、どこか作り話を聞いたような気分になっていた。幼馴染のリコーダーを吹いていた自分が言えたことではないが、本当にそんなことがあるのだろうかと。スカート捲りの延長線だとしたら実に馬鹿げている。だけれど否定しきれない自分もどこかにいた。それを羨ましいと思っている自分が、心の片隅には確かに存在したのだ。
何の気なしに携帯を眺めていると、画面に藤崎琴音のアカウントが映っているのが見えた。彼女もクラスのグループLINEに入っているようだった。アイコンは地味な観葉植物で、ホーム画面はどこでもない海の景色。
ただ、時刻が夜の十一時を越えていたからか、眠気を抑えられずにぼうっとし過ぎたようだった。気づけば手に持っていた携帯が真っ逆さまに落下し、顔面に勢いよく衝突していた。
「痛っ……」
滑り落ちた携帯を拾い上げ、僕は鼻をさすりながら画面を見る。「あれ……」そこで思考が止まった。上体を起こし、映っているそれをまじまじと眺める。
まじか、と思った。あろうことか、僕は彼女のことを友達登録していた。相手側には「知り合いかも?」でこのことが知らされるだろうし、だとすれば勝手に登録したことで気持ちわるがられるかもしれない。それは何としてでも避けたかった。
僕は藤崎琴音の一クラスメイトとして、堂々とした態度を取ることにした。
「よろしく」
ただ一言だけ、そんなメッセージを送った。すると数分後、既読がついた。
「よろしく」
返信は早かった。それ以外にも言いたいことや訊きたいことはあった。しかしそこまでの積極性がなかった僕は、携帯を枕元に放り投げ、そのまま寝ることにした。
この些細なやり取りが、あるいはそれだけでは終わらないということを知りもせずに。
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