第3話 笛を、吹いた

 僕たちの学年は二クラスだった。一クラス25人程度の小規模なクラスだったが、そのおかげで一ヶ月もすれば周囲との壁はなくなり、気づけば他愛のない雑談を交わす仲まで打ち解けられていた。

 ただ、まだどことなく会話に緊張感があるのは、僕たちが人と馴れ合うことに慣れていない子供だったからだ。


「白河さんって、久我君のこと名前で呼んでるよな。やまとって」

「え?」放課後、帰り支度をしているときに、隣の席の男子が声をかけてきた。

「ほら。久我君の小学校の人たちが、久我君のこと下の名前で呼んでるところ、あまり見たことないからさ。不思議だなあ、って思って」


 もちろん、小学校までは僕のことを名前で呼んでくれる人はいた。だが中学では同じ名前の生徒が存在していたため、周りの皆は必然的に僕のことを苗字やニックネームで呼ぶようになった。この時期になって、まだ僕のことを名前で呼んでいるのは、美鈴だけだった。


「家が近いから、じゃないかな。小さい頃からの顔なじみだし」

「ああ、幼馴染ってやつ?」隣の男子が納得したように訊いてきた。

「うん」と僕は肯いた。「まあ、そこまで仲が良いわけじゃないけど」

「わかるわー。俺も幼稚園から一緒のやつ何人かいるけど、そこまで遊んだりするわけじゃないもんなあ」


 彼はけらけらと乾いた笑い声を上げた。同じような笑い声や誰かの会話が、放課後の教室には溢れている。


「でも、白河さんってかわいいよな」

「え?」僕は帰り支度していた手を止めた。

「そう思わない?」

「いや、僕は……」

「今日の音楽の授業で、一人だけすんげーリコーダー上手かった。背筋ぴんとしちゃってさ、まるでピアノ弾くみたいに」


 それが、かわいいとどう関係があるのだろうか。僕は彼の言いたいことがわからなかった。


「そんな白河さんと幼馴染ってだけで、なんか羨ましいわ」


 彼はまたけらけらと笑った。


「俺だったら余裕でオナニーしちゃうな」


 どくん、と心臓が波打ったような気がした。何か自分の行いを咎められているように感じて、冷や汗が頬を伝う。そんな僕に向かって、「じゃ、俺部活だから」と彼は顔の横に手を掲げて、颯爽と教室を後にした。今しがたの自分の発言など、さして重要なことではないとでも言うように。

 年頃の男子は、周りにいる女子のことをところかまわず査定する。中学に上がってからはそれがより顕著に感じられるようになった。そしてそれは自分自身も例外ではなく、成長していく彼女らの肉体に性的興奮を覚えることも、少なからずあった。



※ ※ ※ ※



 仮入部期間を終えて僕が所属したのは、男子ソフトテニス部だった。初めは未経験のため、走り込みや素振りの練習が日課となる。

 ただ、教室に忘れ物をしてしまったことに気づいた僕は、途中で練習を抜け出し、教室へ忘れ物を取りに向かった。当然のように教室には誰もいなくて、ときおり聞こえてくる運動部の熱い掛け声が、胸の内側をきゅっと締めつける。

 綺麗に整頓された机には茜色の光が反射していた。僕は夕暮れ時の教室をしばらくぼうっと眺めてから、自分の机に歩いていった。そしてその中から筆箱と教科書を取り出せば終わるはずだった。実際、そうするつもりで僕はこの場所に佇んでいるはずなのだ。

 しかし、どういうわけか、ある一つの机から目が離せないでいた。段々と呼吸がおろそかになる。それは窓際最後列に位置する、僕の幼馴染、白河美鈴の机だった。


 ――白河さんってかわいいよな。


 彼女の容姿が周りと比べて明らかに整っているということは、言われなくてもわかっている。クラスの中で気になる女子を挙げるなら、まず最初に名前が挙がるのが彼女だった。あどけなさを残しつつもすでに完成されている彼女の美貌は、中学生である僕ですら魅了された。いや、中学生だからこそ、と言うべきなのかもしれない。この多感な時期だからこそ、僕は近くに存在するその魅惑的な少女に、ほのかな好奇心を滲ませていたのだ。

 

 気づけば彼女の机の前に立ち、引き出しからリコーダーを取り出している。手が震えているのは、それがいけない・・・・ことだと理解しているからだ。しかし理解しておきながら、僕は自分のやっていることを止められない。

 赤茶けたリコーダーのケースを、ゆっくりと開けていく。しきりに聞こえる運動部の掛け声も、このときにはもう意識の外側に追いやられていた。ただバクバクと鼓動が早まり、視界の隅に映る夕焼けだけが僕を戒めている。

 僕は机の上に置いたリコーダーケースの中から、お目当てのものを取り出した。そのクリーム色の先端は、今日、彼女が音楽の授業で唇をつけていた場所だった。ふわりと香った甘い匂いはきっと僕の気の所為なのかもしれない。けれどそれが行動をかしたのは確かなことで、僕は両手で持った幼馴染のリコーダーを、罪悪感と好奇心とでないまぜになった感情のまま――吹いた。


 ピュー。


 鳴った。この場には似つかわしくない、美しい音色だった。そのまま僕は彼女が音楽の授業でやっていたように、課題曲の「レヴェル・プレイン」を覚束ない指使いで演奏した。一人きりの教室で、濁りのないソプラノの旋律が響いていた。

 だが、それも長くは続かない。こんな行為はもっと早くにやめるべきだった。そもそも初めからするべきではなかったのだ。


 ガタン、と教室の扉から盛大な音がした。鳴っていた旋律が乱れる。僕は咄嗟にリコーダーから口を離して、振り向いた。そこにはつま先をぶつけてうずくまっている、クラスメイトの女の子がいた。彼女は僕と目が合うと、どうしたらいいのかわらないとでも言うように視線を彷徨わせ、慌てて腰を上げた。

 僕も慌てて引き留めようとした。しかしその前にはもう彼女の姿は消えていて、ぱたぱたと鳴る足音だけが廊下の向こう側に遠のいていた。


 これはまずいことになったな、と僕は思った。本当にまずいことになった。下校時刻を告げるチャイムの音をかたわらに、心の中ではそれどころではないという思いが強くひしめいている。


 僕は今、とんでもない窮地に立たされている。

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