第2話 桜の花びら
僕の中学校は全校生徒が145人しかいなかった。別の小学校の生徒も在籍しているはずなのだけれど、それでも一学年50人程度と数は少ない。そのためクラスメイトの顔と名前は、数か月もすれば簡単に覚えられた。その間に「交流会」と称したレクリエイションや、体育祭などの行事ごとがあったこともおそらくは関係している。
とはいえ、入学当初はやはり、同じ小学校出身の友達同士でつるむことが多かった。帰り道も別々だし、最初は誰もが緊張しているので当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。
そしてこれから話すのは、その入学当初からの出来事だ。僕と彼女が、まだ幼馴染だった頃の話――。
※ ※ ※ ※
僕は人の名前が呼べない。それが親しい間柄の人間であれば、尚更だった。
いつからこうなってしまったのかはわからないのだが、相手の名前をどう呼べばいいのか迷ってしまうのだ。呼び捨てにしたら怒られるだろうか、とか、逆に敬称を付けたら変な風に思われるのではないか、とか。
初めのうちは敬称でもいい。だが段々と親しくなるうちに、「君」とか「さん」を名前の後ろにつけてよいものなのか悩み込んでしまうようになる。例えるなら、そう、母親の名前を「ママ」と呼んでいた子供が、成長していくにつれその呼び名の恥ずかしさを知り、変えようとしてもいきなり「お母さん」と呼ぶのも羞恥が伴うため、最終的には母親のことを「ねえ」としか呼べなくなってしまった、というように。これは実体験だ。
つまるところ、僕は臆病者なのだ。相手にどう思われているのかが気になって、もし嫌われていたらと考えると不安で眠れなくなる。
それは幼馴染の彼女にしても、同じだった。
「携帯買ったんだって?」
入学式の帰り道、僕たちは二人きりで通学路を歩いていた。入学式には相応しく、辺り一面には桜の花びらが吹雪くように舞っていて、隙間から見えた青空は手を伸ばしてみても未だ遠い。
僕たちは同じ団地の一階と五階に住んでいた。彼女が一階で、僕が五階。保育園が同じということもあって、小さい頃から彼女とは顔を合わせる仲だったが、毎日遊んだり毎日一緒に帰ったりとかそういうことはなかった。たまにすれ違えば会釈をするくらいの、平凡な関係だった。少なくとも僕はそう思っていた。
ただ、今日は残念ながら彼女の親が入学式に来れず、彼女が一人で帰るという状況になってしまったため、やむにやまれず僕が一緒に帰ってあげるということになった。自分の親に「一緒に帰ってあげろ」と言われたのが事の真相だ。
「スマートフォン、だっけ?」彼女が僕の隣を歩きながら言った。うん、と僕が肯けば、なぜだか嬉しそうな顔をする。「ならさ、連絡先交換しよ? まだ誰とも交換してないよね?」
「うん」登録されているのは、今のところ両親だけだ。
「ふうん」彼女がにっこりと微笑む。「なんかわくわくするね」
それから僕たちは一先ず家に帰ることになった。携帯は家に置いてあるので、それを取ってきたら階段下に集合ということになっている。
僕が一階の階段を下りて外に出ると、すでに彼女が携帯を持って立っていた。
「見て、私の携帯」それはキーホルダーがジャラジャラとついた、ガラパゴス携帯だった。スマートフォンが普及し始めたばかりの昨今、ガラパゴス携帯はそこまで珍しいものではない。むしろスマートフォンの方がまだ珍しかった。
僕は彼女に促されるまま携帯を差し出す。お互いに正面から向き合って、赤外線通信で連絡先を交換した。「よし、できた」
「これで終わり?」僕は彼女に訊ねた。
「ううん、私の名前を、電話帳に登録して?」ずいっと顔を寄せて、彼女が僕の携帯を覗き込む。「フルネームは嫌でしょ? だから、やまとくんの呼びやすいように私を登録してよ。私も、やまとって、自分のに登録するから」
難しいことを言ってくれるな、と僕は思った。僕と彼女の距離感はものすごく曖昧だった。敬称で呼ぶほど距離が離れているわけではないし、たぶん「さん」付けで呼んでしまえば彼女は悲しい顔をするのだろう。
かといって気を許せるくらい親しい間柄でもないので、僕は今の今まで、彼女の名前を呼んだことが一度たりともなかった。今さら名前を呼んで変な空気になるのも避けたいし、ここは「
「なんて登録したの?」
「いや、見せないけど」近づいてきた彼女から離れ、僕は携帯を学ランのポケットに仕舞う。
「えー、いいじゃん」彼女はあからさまに不満そうな顔をした。「恥ずかしがり屋さんなのかなあ。……まあ、いいけど」
そしてまた、とびきりの笑顔で僕を見つめた。小学五年生のときの出来事は、この様子だともうとっくに忘れているのかもしれない。
しかし僕はあのときの胸の感触を、二年経った今でも鮮明に思い出すことができる。一瞬、ぎこちなさそうに伏せられた彼女の瞳も、束の間、指先に滴っていたアイスキャンディーの冷たさも。それは色褪せることなく、確かな実感を保ち続けている。
美鈴。か細く発せられたそのころころとした響きを、僕は気づかれないように舌先に残した。中途半端に閉じ込めて、口の中で甘やかに溶かされていく言葉の余韻。心の中で呼ぶ分には、何の問題もないことを自分に教え込む。
彼女は大切そうに自分の携帯を胸に抱きしめると、顎を上げ、背筋を正し、背伸びでもするように踵を目いっぱい伸ばした。それから春の空気をたっぷりと吸い込み、ふぅ、と体全体を駆使して吐き出す。
「綺麗だねえ……」
アスファルトや車体の上に乗っていた淡紅色の花びらが、渦を巻くように空に舞い上がってゆく。生温い春の風に誘われて、桜の枝が蜜の香りを伴いながら揺れていた。ちゃりんちゃりん、どこからか自転車のベルの音が聞こえた。
「綺麗だね」と僕も言った。
それに反応してにこりと笑った彼女の顔を、僕はまた忘れられなくなる。青く澄み渡った空の先に、ひこうき雲の線が道しるべのように引かれていた。
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