第24話 街道へ

 ガタガタと揺れる荷台に身体を横たえながら、ボクはずっと考えていた。

 何か食糧はないものか。


 村を出てから、今日で5日目。

 あれからずっと、ボクは食べ物を欲し続けている。

 流石に限界が近い。


 新鮮な血肉が恋しかった。

 いやこの際そんな贅沢なんて言わない。

 この空腹を少しでも軽減してくれるのなら、雑草だってわらじの紐だって、なんだって食べてみせる。

 とにかくボクはいま、ひもじくてひもじくて仕方がないのだ。

 横たわったまま呻くように呟く。


「……ぅ……ぁ、お腹……すいた。お腹、すいたよぉ……」


 言葉にした拍子にふわっと意識が浮いた。


 あ、ダメだ。

 いま一瞬気絶していた。


 虚ろな目をして倒れたままピクリともしないボクに、母親が声を掛けてきた。


「ユウナ! ああ、可哀想に。大丈夫? しっかりして!」


 彼女は心配そうにボクの手をギュッと握る。

 やつれた顔で見つめてくる。

 ボクも母を見つめ返した。

 彼女に対してボクが思うことは、ただひとつだ。


 ……やはり、美味そうな人間である。


 ボクは空腹を覚えてこのかた、この母親や御者台に座って荷車を操る父親を食べたいと思っていた。


 けれどもずっと我慢している。

 だって彼らは、ようやく得られたボクの家族なのだ。

 そして家族は食糧ではない。

 だからボクはこのふたりを食べてはいけない。

 そう理屈では分かっているのに、本能が訴えてくる。


 もういいじゃないか。

 空腹は辛いだろう?

 お腹いっぱい食べたいだろう?


 なんて甘い誘惑だろう。

 いますぐ両親を殺してその肉に食らいつけば、途方もない満足が待っているに違いない。

 けれどもボクは歯を食いしばり、ギリギリのラインで捕食を踏み止まっていた。


 空腹は辛いけれども、孤独はもっと辛い。

 ひとりになるのは嫌だ。

 ボクはこんなことで家族を失いたくない。

 せっかく得られた愛を失いたくない。

 でも食べたい――


 思考が堂々巡りする。

 薄れ始めた理性と、それとは裏腹に強まってくる本能を抱えながら、ボクはこの旅で何度目かになる気絶をした。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 ユウナの両親は、既に焦燥しきっていた。


 それもそのはずである。

 彼らはここまでの道中、ろくに食事を摂れていない。

 自分たちの食糧まで愛娘(に化けた怪物ショゴスではあるが)へと与えながら、旅を続けてきたのだ。


 彼らは目元に濃いクマを作り、どちらも疲れ果てた顔をしている。

 ふたりは荷台に横たわる愛娘を眺めた。

 ユウナはすっかりと意識を失っていた。

 彼らは娘に痛ましげな視線を送りながら、ぽつりぽつりと会話を始める。


「……ねぇ、あなた……」

「……なんだ?」

「あなたはどう思う? 私はいくらなんでも、おかしいと思う。ユウナの様子は異常だわ」


 父親は荷車を急がせている。

 重苦しげな表情で頷いた。


「……ああ、そうだな」

「うう、何故こんなことになってしまったのかしら」


 母が両手で顔を覆った。

 弱音を吐く。


「もう私、どうすればいいかわからない。どうすれば前までの可愛いユウナに戻ってくれるのかしら。だって、いまのこの子は、何というか……」


 ユウナの父は、今度は相槌を打たなかった。

 黙ったままだ。

 そんな夫の背中を恨みがましく見やり、ひとしきり空を仰いでから、彼女は本音を漏らし始めた。


「……私、怖いの。だってふと気付くとね、ユウナがもの凄い形相ぎょうそうで私を見ている時があるのよ。はぁはぁって息を荒げて、まぶたを大きく開いて、白目をギラギラに血走らせて……。あの目で見られると、私、怖気おぞけがしてしまって。だって、あの目はまるで――」


 彼女はそれ以上、言葉に出来なかった。

 それは捕食生物が獲物を凝視する目だ。

 娘が自分にそんな目を向けてくるなんて、信じたくはない。


「こんなことを言うと、あなたは怒るかもしれないわね。でも私には、なぜかこの子がユウナじゃないみたいに思えてしまうの。……自分の娘にこんな感情を抱くのはいけないと思う。でも私、この子が空腹を訴え始めてから、ずっと怖いの。どうしようもなく怖くて怖くて仕方がないのよ……」


 彼女の怯えは生物として正しかった。

 けれども我が子を恐れてしまう自分を、母親失格だとでも考えたのだろう。

 彼女は肩を落として項垂うなだれる。

 ようやく口を開いた夫は、自らの妻を優しく慰めようとする。


「怒りやしないさ。きっとキミは疲れて思考が鈍ってしまっているだけなんだよ。都市に着いてゆっくり休めば、きっと回復する。でも、たしかに……」


 一度会話を区切ってから、彼は重々しく口を開いた。


「でも、たしかに今のユウナは異常だ。これはあまり考えたくはないが、もしかするとユウナは、何か良からぬものに憑かれているのかもしれない」


 ユウナの母が顔をあげる。


「良からぬものに憑かれた? それはどういうこと? 私たちの可愛い娘が、いったい何に憑かれたって言うの?」

「……いや、俺にも確かなことは分からないが……」


 男は言葉を濁した。

 長く家族を連れて行商をしてきた彼にしても、こんな経験は初めてのことだ。

 そして一介の行商人に過ぎない彼に、憑きものに関する知識などあろうはずもない。

 ただ愛娘の異様な様子から、いつか行商先で耳にした悪魔憑きの話を連想しただけだ。


「すまん、俺も詳しくはわからない。それにユウナの異常は本当に憑きものが原因なのかも……。だが都市に着きさえすれば何とかなる。ユウナを教会に連れていける。牧師さまならきっとユウナを助けてくれるに違いない。そうすれば全部元通りになるんだ」


 それは藁にも縋るような想いから出た言葉だった。

 彼は決断を下す。


「…………街道を行こう」


 ユウナの母が息を呑んだ。


「か、街道って、でもそれは、あなた……」


 彼女が狼狽えるのも無理はない。

 なぜなら街道は非常に危険なのだ。


 辺境の開拓村と都市の間にも、街道は敷かれていた。

 しかし聖エウレア教国とロマノ聖帝国は、目下交戦中である。


 教国はもてる戦力のほとんどを、帝国との国境線がある東側に集めている。

 西側の治安維持は二の次だ。


 そのため、いつの頃からか都市と開拓村を繋ぐ西の街道には、野盗たちが頻繁に出没するようになっていた。

 情け容赦のない非道な悪党どもが。


「街道って、野盗に襲われたりしたらどうするの? もしそんなことになったら、いっかんの終わりよ。どんな酷い目にあわされることか……」


 ユウナの母はまだ躊躇している。

 しかし彼は言う。


「……危険は承知の上だ。でもユウナを早く牧師さまに診てもらいたい。それに食糧だってもうないんだ。このままでは都市に着く前に、俺たち一家は揃って飢え死にしてしまう」


 彼の言うことはもっともだった。

 このまま街道を迂回していけば、都市に到着するまで急いでもまだ8日は掛かる。

 けれども食糧は底をついていた。

 なぜなら今朝方、彼らが眠っている隙をついて、飢えたユウナショゴスが残りの食糧をみんな食い散らかしてしまったからだ。


「いまならまだ間に合う。すぐに進路を変えて街道を走れば、あと4日ほどで都市にたどり着けるだろう。なぁに野盗が出るといっても絶対に遭遇する訳じゃない。きっと大丈夫さ」


 夫の説得に、渋っていた妻も同意した。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 美味そうな匂いに釣られて、ボクは目を覚ました。

 どうやらまた気を失っていたらしい。


 なんだかもう随分と理性が薄れて、それに伴い思考能力が鈍ってしまっている気がする。

 けれどもそんなことはどうでも良い。

 いまはとにかく食い物だ。


 朦朧とする頭で匂いの出所を探る。

 これは両親から漂う芳香だろうか。


 ボクは薄目を開いて、辺りの様子を伺った。

 いまはいつもの荒地ではなく、街道を走っているらしい。


 母親は荷台のへりに身体を預けてぐったりしていた。

 父親は御者台でチョ◯ボを急かしている。

 どちらも等しくやつれているが、成人した人間だけあってその身体にはたっぷりと肉がついており、とても食いでがありそうだ。


 ここに至り、ボクは遂に決意した。

 もう片方食べてしまおう。


 いままで何とか我慢に我慢を重ねてきたものの、もう限界だった。

 ボクを苛む空腹は、もう極限状態を超えていた。

 このままでは最悪、ボクの命が危うい。

 死んでしまっては家族も何もないのだ。


 せっかく得られた家族を失うのは実にもったいなく苦渋の決断ではある。

 けれども考えてみれば、前世でも片親の子どもなんて大勢いた。

 中には幸せな母子家庭なんてものもあっただろう。

 ならここで片方食べてしまっても問題はない。

 片親でも家族は成り立つのだ。


 さて、片方食べると決めたはよいものの、この場合に問題となってくるのは父と母のどちらを食べるかである。


 ボクは考えた。

 うん。

 やはり食べるなら母親からだ。


 父親にはこのまま都市まで荷車を走らせてもらわないといけないし、第一、我が家の生活基盤を支えているのは彼なのだ。

 それに空腹を覚えてからというもの、ずっとこの美味しそうな女性を喰らいたいと思っていたのである。

 ならここは母親一択だ。


 そうと決めたからには、まずは父を眠らせねばなるまい。

 赤の他人を食糧にするならともかく、流石に妻が我が子に食べられているシーンを見せるのは、彼の精神衛生上、不味かろう。

 だから彼は眠らせる。

 然るのちに母を捕食するのだ。


 ボクは体内で強力な睡眠薬を精製し、細く長い触手を伸ばしていく。

 注射針に変化させた先端部を父親である男性に突き刺そうとした、そのとき――


 ◇


 遠くで砂埃が舞うのが見えた。

 続いて雄叫びと粗野な笑い声が聞こえてくる。


「獲物だぁ! おいてめぇら! 獲物が街道を走ってやがるぜ!」


 幾人もの男たちが姿を現した。


「なんだぁ? 行商人かぁ?」

「ハッハー! 見てみろよ! こいつら護衛もつけてねぇぞ!」

「こりゃあ儲けもんだ!」

「金と積荷は奪え! お? 若い女もいやがるじゃねえか!」

「ぎゃはははは! 今日はついてんなぁ! ガキは奴隷にして売っぱらえ! 男は殺して女は慰み者だぁ!」


 興奮した荒くれ者たちがどんどん近づいてくる。

 父の顔が絶望に染まっていく。


「……や、野盗だ! ああ、なんてことだ。本当に野盗が出てしまった!」


 父が叫んだ。

 母が跳ね起きる。


 現れた野盗どもは、手慣れた様子であっという間にボクたちを乗せた荷車を取り囲んでいく。

 父は必死に荷車を走らせている。

 けれども野盗の方が速い。

 すっかり射程圏内まで近づいてボクたちを包囲した彼らは、警告もなく弓を射掛けてきた。

 ヒュンヒュンと矢が飛び交う。

 起きたばかりの母は、もう既に顔を青ざめさせていた。


「……ああ、そんな。……せめて……この子だけは……」


 母親が全身を盾にして、ボクを抱きすくめてきた。

 幼いユウナに擬態したこの身体が、すっぽりと母に包まれる。

 きっと彼女は身を挺してボクを守ろうというのだろう。

 そのたしかな愛情に胸が熱くなる。

 けれども今は邪魔だ。

 ボクは母親を跳ね除けた。


「ユウナ⁉︎」


 尻餅をついて驚いた母に構わず、ボクはその場で立ち上がった。

 疾走する荷車から即座に飛び降る。

 ボクが四つん這いになって地面に着地すると、面食らった野盗が叫ぶ。


「な、なんだぁ⁉︎ ガキが一匹、飛び降りやがったぞ!」


 ボクの心は踊っていた。


 ああ、なんという恵みだろう。

 これは食糧だ!

 渇望してやまなかった食糧が、向こうからやってきてくれたのだ!


 ボクは四つん這いになったまま、周囲を見回した。

 手近な野盗を見繕い、間髪入れずに飛び掛かる。


「こ、このガキ⁉︎ 俺に向かって――」


 ハンマーみたいに重く固めた拳を叩きつける。

 野盗の頭がぺしゃりと潰れて目玉が飛び出した。


「ギャ!」


 短く断末魔をあげて崩れ落ちようとする彼を支える。

 薄汚れた首筋に齧り付いた。

 そのまま肉を食いちぎり、咀嚼もせずに丸飲みしていく。

 傷口に唇を添え、噴水みたいに吹き出した血潮を飲み干していく。

 喉を通った血液が全身の渇きを潤していく。

 飛び出した目玉を拾って咥えた。

 ぐしゃりと噛み潰してから次は彼の両耳を引きちぎり、重ねて口内に放り込む。

 今度は心臓を抉り出した。

 死んだばかりの彼の臓腑は、まだドクドクと熱く脈動していた。

 ボクは大口を開けて、これも喰らう。


 ――ああ、美味い。


 たまらなく美味い。

 脳天から爪先まで、歓喜が駆け抜けていく。

 

 もっとだ。

 もっと喰わせろ!


 ぐちゃぐちゃと粘着質な音を立てて、野盗の肉を啄む。


 誰もがみな呆気に取られていた。

 荒くれ者の野盗ですら、半笑いの表情のまま固まってしまっている。

 ボクはそんな彼らの見守るなか、久方ぶりの食事に甘美な喜びを感じていた。

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