第13話 勝ち逃げ
森の香りが漂ってくる。
昨晩ボクが部屋で眠っている間に、外では小雨でもパラついていたのだろうか。
ふんわりとしたその芳香には、濡れた土の匂いも混ざっていた。
こういう香りは結構好きだ。
目覚めたばかりのボクは、ベッドに身を横たえたまま、湿り気を帯びたその匂いを堪能する。
すると今度は、窓の外、どこか近くの枝から葉擦れの音が届いてきた。
そよそよと優しくそよぐ風。
さわさわと揺れる木の葉。
ぼんやり薄目を開き、森が奏でるその耳心地のよいメロディに身を任せていると、やがて窓から陽の光が差し込んできた。
薄暗かった室内が明るく照らされていく。
そろそろ起床時間のようだ。
ボクは頭をぼうっとさせたまま、ベッドに横たえていた身体をのろのろと起こした。
そうして大きな伸びと、小さな
「……ふわぁぁ……。……むにゃ……」
蕩けるような微睡み。
穏やかな朝の時間。
身を起こしたボクは、けれども完全には目覚めきっておらず、ヘッドボードに背中を預けながら、うつらうつらと舟を漕ぐ。
昨晩はこの異世界に転生してきてから初めてちゃんとしたベッドで眠ったものだから、気持ちが良すぎてつい寝過ぎてしまった。
でもそろそろしっかり目を覚そう。
「……っと、起きますかぁ」
ボクは呟いてからパンと軽く両手で頬を張り、ようやく完全に覚醒する。
ベッド降りて、朝の身支度を開始した。
◇
三面鏡の前に腰を下ろし、手にした
クローゼットから衣服を取り出して着替える。
ところで言うまでもなく、ここはプレナリェルの部屋だ。
そう言えば昨日、族長から彼女は貴族の令嬢だのどうだのと言う話を聞かされた気がするけど、その割にプレナリェルは質素な生活をしていたようである。
部屋には必要最低限の生活道具しかなく、服だって随分と着込まれたものを数着持っているだけだった。
もしかして貴族というのは見栄張りな父の僭称だったりして。
ほんのりそんな風に思うものの、まぁどうでもよいことではある。
あまり深くは考えずに、ボクは手早く身支度を済ませて部屋をでた。
◇
階下におりると父がいた。
一応は貴族の令嬢らしく(と言ってもボクに貴族の振る舞いなんてわかるはずもないのだが)、丁寧にお辞儀をする。
「お早よう御座います、御父様」
「ひっ⁉︎」
にこりと微笑み掛けると、父は悲鳴を漏らした。
頬を引き攣らせ、怯えた様子で全身を小刻みに震わせている。
なんだか顔色も悪い。
どうしたのだろう。
「御父様、体調が優れないのですか?」
「う、ぅわっ!」
父が椅子から転げ落ちた。
ボクから離れるようにずりずりと後退していく。
この世の終わりみたいな顔で額からは滝みたいな汗も流しているし、もしかして病気だろうか。
だとしたら看病してあげるべきかもしれない。
心配して近寄ると父が叫んだ。
「く、来るな! 私に近づくんじゃない!」
「……はぇ? なぜですか?」
可愛らしく見えるようコテンと小首を傾げ、さらに接近する。
すると父が悲鳴をあげた。
「ひ、ひぃ! た、たたた助けてくれぇ!」
何度も蹴つまずきながら一目散に外へと逃げていく。
ボクは何が起きているのか理解できないまま、小さくなっていく彼の後ろ姿を見送った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
父を送ったあと、少し散歩してみることにした。
外に出ると、頭上に柔らかな陽が降り注いでくる。
青空の下、新鮮な気持ちで里を見て回る。
まるで外国を旅行しているみたいで、ちょっと楽しい。
歩きながらふと思い出した。
そう言えば昨日の父との会話で、彼は自らをエルフだなんて呼称していた。
なるほど、だとすれば納得である。
どうりで里人みんな美男美女ばかりな訳だ。
耳も長く尖っているし。
となるとここはエルフの隠れ里だったりするのだろうか。
ボクは彼らが純粋な人間ではないことに少し驚いたけれども、それ以上の感想は持たなかった。
というのも彼らは人間ではなくとも、人間と遜色のない愛情を持った生物に違いないと思ったからだ。
なら大丈夫。
問題なくボクを愛してくれるはずである。
◇
樹海のなかでも特に拓けた位置にあるこの里には、所々に広場なんかの施設もあった。
ここでは住居や穀物倉庫なんかは樹上に設けられているみたいだけど、さすがに運動はこういう地上の広場でするのだろうか。
取り止めもなくそんなことを考えながら散策を続けていると、向こうから一組の男女が歩いてくるのが目に入った。
やっぱりどちらも美形だ。
すれ違いざまに挨拶をする。
「おはようございますー! 気持ちの良い朝ですねっ」
にこやかに声を掛けたというのにに、返事はない。
それどころか二人はこちらを
ボクは彼らの進行方向に先回りして割り込み、満面の笑みを浮かべながら懲りずに話しかける。
「えへへ、おはようございますっ」
「…………」
「私です! プレナリェルです!」
男性のエルフが、ようやく重たそうに口を開いた。
「…………知っている。だから何だ?」
「あ、あのっ! こんな朝早くからどこに行くんですか? もし良ければ、私と少しお話しでも――」
「邪魔よ」
女性のエルフに肩を掴まれ、無理やり退かされた。
このひと、割と乱暴者だな。
二人はそのまま歩き去ろうとしている。
けれどもボクは、なおもめげずに彼らの背中に呼びかけた。
「……あっ、お二人とも弓を持っているということは、さては狩りに出られるんですね。うわぁ、楽しそうだなぁ! 着いていっていいですか?」
「足手まといはゴメンだわ」
「着いてくるな」
エルフたちは素っ気なく言い放ち、立ち去っていく。
まるで機械みたいな無機質さだ。
「えっ、ちょ、ちょっと待って。お話を……」
ボクは小さくなっていく後ろ姿に向けて、中途半端に腕を伸ばすことしか出来なかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
里に来てから数日が経過した。
まだボクは里のみんなとも、父親とすら、まともに会話も出来ていなかった。
こちらから話し掛けては無視をされ、挙句、父にはどうしてか逃げられる。
そんなことを、ただ何度も何度も繰り返していた。
……きっとボクは、いや擬態元であるプレナリェルは、信じがたいことに里の誰からも愛されていなかったのだと思う。
認めたくはない。
だがさすがにこうまで無視されるとなると、認めざるを得ない。
ボクは大勢のエルフに囲まれて暮らしながらも、いまだ孤独なままだった。
ぶるっと身震いする。
寂しくてたまらない。
心が凍てついていく。
凍えそうなほど、身体の内側が寒い。
集団の内にあり、手の届くほどすぐ近くにみんながいながら、けれども誰にも指先すら届かない。
それがこんなに苦しいことだったなんて……。
じわり、じわりと、恐怖の影が忍び寄ってくる。
嫌だ。
独りは嫌だ。
こうしてボクは、集団のなかにいるからこそ、一層際立つ孤独があるのだと知った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
また数日が経過した。
まだボクは誰からも相手にされていない。
辛い日々だった。
その日のボクは、小雨の降り
濡れた衣服が肌に貼り付く。
涙みたいに頬を伝った雨が、雫になってあごからぽたりと地に落ちた。
それらを気にも止めず、ボクは考え続ける。
……プレナリェル。
この冷たい里で育った彼女は、どうしてあれほど明るくあれたのだろう。
プレナリェルの訴えを思い出す。
彼女は死の間際、泣いていた。
ボクにルィンヘンを食い殺されたと知った彼女は、瞳から大粒の涙をぼろぼろこぼしながら、泣きじゃくっていたのだ。
あの時、彼女はなにを嘆いていたのだったか。
……そうだ。
たしかこう言っていた。
『私にはルィンヘンしかいなかったのに。ルィンヘンだけだったのに。独りにしないで――』
ああ、そうか。
ボクは今になってようやく、あの言葉の意味を理解した。
そして同時に羨んだ。
この感情の死んだ集落において、きっと彼女はずっと独りぼっちだったことには違いない。
けれどもプレナリェルはルィンヘンを見つけたのだ。
きっと彼女は、それで孤独を癒すことができたのだ。
それはとても幸せなことだったのだと思う。
◇
ボクは里の外れに足を運んだ。
そこにはかつてルィンヘンの暮らしていた家があった。
樹上に建てられた他の住居とは異なり、地上に建てられた簡素なほったて小屋。
この家を見ていると、里でルィンヘンがどういう扱いを受けていたのかが、なんとなく察せられる。
中に入って、たったひとつしかない部屋を観察した。
随分と生活感のある空間だ。
壁には狩猟の道具が立てかけられ、天井の梁には乾燥させた果物なんかが吊るされていた。
家財道具は全部おんぼろだった。
とはいえしっかりと手入れが行き届いており、使い込まれた小物類もきっちり整理整頓されていて、この小屋の持ち主だった彼の几帳面さを窺わせる。
部屋の中央には古ぼけた木造りのテーブルと、椅子が二脚あった。
食器棚にはお皿やスプーンなど、いくつかの食器類。
こちらもどれも二組ずつである。
ボクは棚まで歩き、大小ふたつのマグカップを取り出した。
きっとこれはプレナリェルとルィンヘン、ふたりの持ち物だ。
何故だろう。
手にしたカップから不思議とぬくもりを感じた。
それと同時に何かが頬を流れていく感触に気付く。
「……あ、……あれ……?」
ボクは泣いていた。
どうしてかまでは分からない。
けれども涙がこぼれて止まらない。
ふと思った。
この涙は、本当にボクが流したものだろうか。
いや恐らくは違う。
なら何故?
自問自答するも答えは出ない。
ただ……。
ただもし『魂』なんて不確かなものがこの世に存在するのなら、ボクの内側で、ボクが食べてしまったふたりの魂が泣いているのかもしれない。
◇
ボクは仲睦まじかった彼らの姿を想像する。
きっとこの小屋で、ふたりは寄り添いあって互いの孤独を癒やしていたのだろう。
それは尊いことだと思う。
でも彼らは不幸にも死んでしまった。
だからここにあるのは幸せの残滓だ。
かつてのぬくもりは、もう二度と戻らない。
もうすでにプレナリェルたちは、遠くへ旅立ってしまったのだ。
ボクだけを独り残したまま。
そう思うと、腹の底から怒りが込み上げてきた。
「……ふざけるな……」
ボクは衝動的に、手にしていたふたつのマグカップを握り潰した。
ぐしゃりと音が鳴る。
そのまま床に叩きつけ、粉々になるまで何度も何度も踏みつけた。
「……このっ! この! このぉ!」
今度は食器棚を引き倒し、二脚の椅子を持ち上げては繰り返し壁に叩きつけ、幸せだったふたりの面影を破壊していく。
「畜生! ちくしょう! 孤独を癒されたまま死ぬなんて、勝ち逃げしやがって! 畜生! なんでボクだけひとりなんだ! どうして誰もボクに優しくしてくれないんだ! こんなに寂しいのに! こんなに悲しいのに!」
力の限り暴れ回る。
小屋が倒壊した。
それでも暴走した感情は収まらない。
「寂しいのは嫌なんだ! だから誰かボクを愛してよ! 愛してくれよぉ! お願いだから! お願いだから!」
ボクは幼な子のように喚き散らしながら、暴れ続けた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
あれからまた幾らかの日が経った。
状況はなにも変わっていない。
けれどもここしばらく里のエルフたちを観察していて理解したことがある。
ボクはここでの経験から、プレナリェルだけが特別に村八分にされていると思っていた。
けれどもそうではなかったのだ。
というのも、どうやら里のエルフたちは誰もが他人に無関心な様子だったのである。
これがエルフ全般の性質なのか、はたまたこの里のエルフに固有の性質なのかはわからない。
けどもうどうでもいい。
だってボクは決めたのだ。
ボクはもう、ここで彼らから自発的に愛されることは諦めた。
だから
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