第7話 樹海調査
里を出立したルィンヘンは、ハクアの樹海を迷いなく進む。
半分に過ぎないとはいえエルフの血が混じった彼にとって、森は馴染み深いものだ。
絡み合うように複雑に生い茂った巨大な樹々や、背丈ほどの高さまで育ち視界を遮るシダ類すら障害にもならない。
危なげのない足取りで、苦もなくずんずんと進んでいく。
朝から丸一日も歩いた頃。
彼はエルフ族すらも滅多に足を運ばない原生林エリアに辿り着いた。
常であれば、ここをもう半日も進んだあたりから、少しずつ
ルィンヘンが立ち止まった。
もう時間も遅い。
辺りは暗く、夜目のきくエルフと言えど見通しが悪くなってきた。
今日のところはここで休もう。
そう考えた彼は、荷物を置き、簡単に野営の準備を行う。
獣避けと警報を兼ねた鳴子を設置し、簡易な寝床をこさえた。
次は食事だ。
布袋から干した果物を取り出す。
起こした小さな焚き火でそれを炙り、乾いた実を柔らかくしていたルィンヘンは、そこでふと何者かに跡をつけられていることに気付いた。
少し離れた場所で、彼をうかがっている気配がしたのだ。
この感じ。
心当たりがある。
「……ふぅ」
小さく嘆息してから呼びかける。
「出てこい。そこにいるんだろう?」
少しの沈黙が流れる。
やがて巨木の幹に身を隠していた少女が、姿を見せた。
プレナリェルだ。
里から彼をつけてきたらしい。
ルィンヘンに睨まれた彼女は、あらぬ方向に視線を泳がせながら、バツが悪そうに指先で鼻頭を掻く。
「え、えへへ。バレちゃった」
「……ったく、お前ってやつは。里で待っていろと言っておいただろうに」
「だ、だって! だって心配だったんだもん!」
年相応にぷぅと頬を膨らませて言い訳をする彼女に、ルィンヘンは今度はこれ見よがしに重いため息を吐いてみせる。
その態度にプレナリェルが小さくなる。
「……お、怒った?」
「ああ、怒った。ともかくこっちに来い」
呼ばれた少女は、彼のもとに歩み寄り、恐る恐るといった様子でその隣に座った。
ルィンヘンが中指を彼女の額に向ける。
そして軽く力をこめてから、ピンと弾いた。
「あいたっ⁉︎ も、もう! いきなり何するのよ! ぅう、痛いなぁ……」
「仕置きだ」
「仕置きだ、じゃないでしょ! 酷いじゃない! あ、それより、私も一緒に調査についていくわよ。だって貴方ひとりじゃ、もし怪我でもしたら対処できないだろうし」
ルィンヘンは無言でもう一発、デコピンをお見舞いする。
「あいッッッたぁ⁉︎ だっ、だから痛いって言ってるでしょ!」
涙目で赤くなった額をさする少女を眺めながら、ルィンヘンは考える。
これからどうしようか。
ここまで自分に着いてきた彼女の健脚は、さすが森歩きに優れた生粋のエルフだけあって大したものだ。
けれども、まさかひとりで帰す訳にはいくまい。
行きの道中はたまたま魔物に遭遇しなかっただけで、帰りもそうとは限らないのだ。
だがもし自分が護衛しながら里に送り届けた場合、往復で都合二日ものタイムロスになる。
そうまでして時間をかけて帰らせても、頑固な彼女のことだ。
また次だって尾行してこないとも限らない。
そこまで考えてから、ルィンヘンは諦めた。
「……仕方がない。少しでも危険を感じたら、すぐに逃げるんだぞ?」
同行を許されたプレナリェルは、してやったりとほくそ笑む。
その悪戯っけな顔をみて、ルィンヘンは眉間の皺を一層深くするのだった。
◇
次の日、巨大蟻のテリトリー周辺部を調べ回ったふたりは、結局その日は蟻の姿を確認することが出来なかった。
中心部の調査は翌日に持ち越して、また野営を行うことにする。
「……ううっ、寒い」
プレナリェルがぶるっと身体を震わせた。
樹海の夜は底冷えがする。
「こっちに来い。暖かいぞ」
焚き火を起こしたルィンヘンが、彼女を手招く。
「うん、ありがとう。……えへへ、あったかいね。はぁぁ、今日は一日中歩き回ったせいで、脚が棒みたい」
「そうか。なら腹も減っただろう」
「うん!」
「待っていろ。いま豆のスープを作ってやる」
火に当たりながら食事を摂り、会話をかわす。
しばらくしてルィンヘンは、プレナリェルが話しながらもじっと彼の右腕を見つめていることに気付いた。
「どうした?」
「……ううん。なんでもない」
そう言いながらも、紺碧の瞳は彼の腕を見つめたままだ。
静寂が訪れた。
だがふたりとも無理に話そうとはしない。
しばらくして、プレナリェルが控えめな声で沈黙を破った。
「……ね。……その手の傷、残っちゃったね……」
ルィンヘンの右腕には、手の甲から肘にかけて、大きく裂けたような酷い傷跡があった。
それはいつも危険な役目を押し付けられて全身傷だらけの彼の身体にあっても、一際目立つ大きな傷跡だ。
「ああ、そうだな。だが、それがどうした?」
「……ごめんなさい」
プレナリェルが呟いた。
珍しくしおらしい様子の彼女に、ルィンヘンは首を傾げる。
「何を謝っている?」
「だってその怪我、私のことを庇ったからじゃない。あのときは私も気が動転していたし、まだちゃんと謝れてなかったなって……」
「ああ、そういえば――」
この腕の傷は、たしかプレナリェルが里に迷い込んだ魔物に襲い掛かられたのを庇ったときに負ったのだと、そう彼は思い出した。
思えばそれまで自分を怖がって近づいてこなかったこの少女の態度が変わったのは、あれからだ。
「私ね、貴方のその怪我の跡を見るたびに思うのよ。御父様はルィンヘンのことを混血だからって悪く言うけど、そんなことない。エルフの里に、貴方ほど勇敢で強くて頼り甲斐のある、優しいひとはいないんだって」
「……買い被り過ぎだ」
プレナリェルが、ルィンヘンの肩にしなだれ掛かった。
白魚のように細く美しい指先で、何度も何度も、繰り返し繰り返し、彼の醜い傷跡をなぞる。
「これはね。貴方と私を繋げてくれた傷。とても大切な傷。……ね、見ていてねルィンヘン。私、大きくなって、御父様の跡を継いで族長になったら、貴方に対する里の偏見なんて、みんな取り除いて見せるから」
ルィンヘンは応えない。
ただひとえに穏やかな表情で、少女の優しい指先を感じていた。
◇
翌日、ふたりは巨大蟻のテリトリーの中心部まで足を運んでいた。
「……いないね」
「ああ、いないな」
ここは昨日調査をした周辺部とは違う。
もとは蟻がうじゃうじゃとひしめき合っていたエリアだ。
けれども事前情報の通り、巨大蟻の姿はただの一匹も見られなかった。
それは厳重に警戒しながら内部を調べた巣穴も同様である。
「やはり、巣を捨てて移動したのか……」
呟きながらルィンヘンは考える。
もしそうなら、今後の里の安全確保のためにも移動先を突き止めなければならない。
だが腑に落ちない点もある。
それは蟻たちの引っ越した痕跡が、どこにも見当たらないことだ。
あれほど大規模な巨大蟻の集団が一斉に移動したのであれば、少なくない形跡が残るはず。
しかしそれが一向に見つからないのである。
「……あれ?」
考え込む彼の隣で、プレナリェルが呟いた。
「なんだろう、あれ」
どうやら何かを発見したらしい。
ルィンヘンは一旦思案を中断して、少女の視線を追いかける。
すると、目を向けた少し先。
彼らはそこに、玉虫色に光る凶々しい漆黒の粘液体を見つけたのだった。
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