第二章

第七話「いらなくなったって……言われました」

 目が覚めると、ふっかふかのベッドの上だった。両腕を広げてもベッドの端に指が届かないくらい大きなベッドの上。

 腕を持ち上げて、拳をにぎって、開いてみる。一応、動くし感覚もある。ミコトが言っていた通り、大丈夫だったらしい。ほっとしていると、


「……父さん」


 視界のすみで白い髪がさらりと揺れた。

 まだ体が重い。顔だけを横に向けるとミコトが俺の顔をのぞき込んでいた。わかりにくいけど、ほんの少しだけ眉が下がっている。一応、心配してくれていたらしい。

 腕を持ち上げて、くしゃりとミコトの髪を撫でた。猫が頭を撫でられたときみたいに、ミコトはきゅっと目をつむった。

 と、――。


「目、覚めた?」


 ミコトとは反対側から声がした。


「バウッ」


「……っ」


 顔を向けるとゴールデンレトリーバーの薄くて柔らかい舌に、顔面をべろん! と、なめられた。


「こぉら、ノエル! 悪いわね。この子、人間が大好きなの!」


 ゴールデンレトリーバーの大きな体を横に押し退けて俺の顔をのぞきこんだのは、髪を二つに結った少女。雷に打たれた直後に見た三人の中で、一番、幼い雰囲気の少女だった。

 犬の名前はノエルというらしい。ノエルは舌を出して満面の笑顔だ。体が揺れているのは、お尻ごと尻尾を振っているからだろう。ベッドの端に掛けられた大型犬らしい大きな前足にくすりと笑って、俺は体を起こした。


「父さん、大丈夫ですか……?」


「おう、ありがとな」


 ミコトに背中を支えられて起き上がった俺はあたりを見回した。ベッドのふかふかさ加減で薄々、感付いてはいたけど――。


「広……」


「父さんが住んでたボロアパート一棟よりも広い部屋です」


 ぼそりと呟くミコトに引きつった笑みを浮かべた。比べてやるな、あの部屋と。

 大正風の邸の一室、といった感じの部屋だ。木でできた落ち着いた雰囲気の棚やテーブル。イスには赤いベルベット生地が使われている。棚にはランプが飾られていたり、分厚くて古そうな本が並んでいたり。

 どれもこれも高そうだ。割ったり傷をつけたりしたら大惨事な気がする。絶対にさわらないようにしよう。近付きもしないようにしようと決意して、こっそり拳を握りしめていると、


「体調はいかがですか、紺野 トウマさん」


 女性にフルネームを呼ばれた。


「ひゃい、大丈夫です!」


 聞き馴染みのない品の良さそうな声に俺は思わず背筋を伸ばして、引っくり返った声で小学生並みの良いお返事をした。

 人懐っこそうな笑顔を浮かべるツインテールの少女の後ろで、声の主は腕組みをして微笑んでいた。

 雷に打たれた直後に見た三人の中で、一番、大人びた雰囲気の艶っぽい女性だ。白いブラウスに黒のタイトスカート、肩からストールを羽織っている。雷に打たれた直後は胸しか見えなかったけど、腰からお尻にかけてのラインも魅力的だ。

 思わず鼻の下が伸びそうになって、慌てて咳払いした。じろじろと見ていいのは、パドックを歩く競走馬のお尻だけだとぎんじいちゃんに教わった。

 雷に打たれた直後に見た女性は三人だった。

 あと一人、すらりと背の高いショートカットの少女はドア近くの壁に寄り掛かり、黙って俺たちのようすを見つめていた。記憶では制服姿だったけど、今は黒のニットにスキニージーンズと私服姿だ。シンプルな服装は細身の彼女に良く似合っていた。


「なかなか目を覚まさないので心配していたのですが、元気そうで何よりです。……初めまして、藤枝 秋穂です」


 艶っぽい雰囲気の女性――秋穂さんは、そう言って会釈した。ただ会釈しただけなのに、品がある。


「人妻っぽいって良く言われるけど、まだ大学一年生。お姉さまは未成年だからね」


「夏希ちゃん!」


 犬のノエルといっしょになって、ベッドの端に手を掛けて身を乗り出している少女――夏希ちゃんがにんまりと笑いながら言った。途端に秋穂さんが顔を真っ赤にした。


「そ、そういう余計なことは言わなくていいの!」


 頬を手で押さえて、顔を赤らめる姿が色っぽい……なんて、またもや鼻の下を伸ばす俺。それがどれだけ危険な行為だったかを知るのは、もう少しあとの話だ。


「ちなみに、私は藤枝 夏希。あっちにいるのが……」


「千鶴です」


 夏希ちゃんに話を振られて、すらりと背の高い少女――千鶴ちゃんが壁に寄り掛かったまま会釈した。ミコトほどじゃないけど無表情な子だ。

 三姉妹をぐるりと見回して、俺は腕組みをした。

 雷に打たれた直後は、この三人の中にミコトの母親が。つまり俺の恋人候補的な女性がいるのだろうと思っていたけど――。

 俺はじっと夏希ちゃんを見つめた。俺の視線に気が付いて、夏希ちゃんは笑顔で首を傾げた。

 髪を二つに結って、ふりふりの可愛らしいワンピースを着て、胸には大きな犬のぬいぐるみを抱えている。ミコトと同じくらいに小柄だ。どう見ても小学生、せいぜい中学生だろう。

 さすがに小・中学生に手を出すような真似はしない。しないはずだ。

 しないよな、俺……!

 だったら、恋人候補は三人じゃなく二人だ。雷にまで打たれたんだから、一人に絞ってくれよとやっぱり思うけど……世界女性人口・約四十億人から三人になって、二人にまで絞り込まれたのだ。

 四十億択じゃなく、三択でもなく、二択!

 秋穂さんか、千鶴ちゃんか!

 爆発的な進歩だ。内心でがしりと拳を握りしめていた俺は、


「私と千鶴は高校二年生ね」


 夏希ちゃんの言葉に凍り付いた。

 ……え、高校二年生? 誰が? 夏希ちゃんが!?


「同じ学年でも私の方がお姉ちゃんなんだけどね」


「……半年ですが」


「え、お姉ちゃん? 誰が? 夏希ちゃんが!?」


 と、思わず叫んだ瞬間――。

 ふふん! と、あごをあげて胸を張っていた夏希ちゃんの眉が跳ね上がった。


「ちょっと! 何よ、その反応! 私の方が千鶴よりも子供に見えるって言ってんの!?」


 て、いうか小学生か、せいぜい中学生としか思っていなかった。

 なのに、まさかの高校生。まさかの千鶴ちゃんよりお姉ちゃん……!

 驚愕の事実でした、なんて夏希ちゃん本人に言うわけにはいかない。唇を尖らせて、犬のぬいぐるみをぎゅーっと抱きしめて拗ねているところが、ますます小学生っぽいとも言えない。

 ついでに言うと――。


「はい、十才かそこいらかと思っていたのでびっくりしました」


 ミコトが言えることでもない。


「じゅ、十才って小学生じゃない! あんたにだけは言われたくないわよ!」


「……そうですか?」


 そうだと思う。首を傾げて振り返るミコトに、俺は大きく頷いて見せた。白髪の野良猫はきょとんとして、反対方向に首を傾げた。

 夏希ちゃんは唇を尖らせて、ますます強く犬のぬいぐるみを抱きしめている。今にも子犬のようにキャンキャンと鳴き出しそうな夏希ちゃんを止めたのは秋穂さんだった。


「夏希ちゃん、雑談はそれくらいで。……我が家の主治医に診てもらったのですが、奇跡的に火傷一つなかったそうです。気を失ったのも、ただの睡眠不足ではないかと。一応、大きな病院での精密検査をおすすめしますが……」


 と、秋穂さんに言われて、俺はポン! と手を打った。

 昨日の夜は夜行バスの中でろくすっぽ眠れなかった。一昨日の夜はミコトがやってきて、夜逃げするつもりで荷物をまとめろなんて言うから、ほぼ徹夜だった。一昨日の昼間は引っ越しのバイトだったし……思い当たる節しかない。


「大っっっ変、ご迷惑をおかけしました!」


 勢いよく頭を下げると、秋穂さんはため息混じりにくすりと笑った。


「もうすぐ夕方です。駅に向かうにしても、今夜の宿泊先に向かうにしても、到着する頃には暗くなってしまいます。車でお送りしますので、もう少し休まれてから……」


「夕方……夕方!?」


 窓の外を見ると、確かに空が暗くなり始めている。天気が悪いとか、木々や建物に遮られて薄暗いだけかと思っていた。


「ミコト、バイト先に遅れるって連絡は……?」


「電話はしたんですけど……」


 そう言って、ミコトは肩を落とした。表情こそ変わらないものの、あきらかにしょんぼりしている。真っ白な髪を撫でて、俯いている顔をのぞきこむと、


「住み込みのバイト、いらなくなったって……言われました」


 ミコトはぼそりと呟いた。ミコトの言葉を飲み込んで、首を傾げて――。


「いらなく……なった……」


 俺は頭を抱えた。

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