第八話「秋穂姉さんたちには、わからないかもしれませんが……」

「住み込みのバイト、いらなくなったって……言われました」


 ミコトの言葉を飲み込んで、首を傾げて――。


「いらなく……なった……」


 俺は頭を抱えた。

 それは、つまり、衣食住のしょくじゅうの当てがなくなったということだ。

 頭の中を数字が飛び交った。通帳の残高、敷金、礼金、仲介手数料。家具も家電も何もかも、全部焼けてしまった。買い直すとしたら……?


「…………」


「父さん、大丈夫ですか?」


 途中で計算を放棄して口から魂を吐き出し始めた俺の肩を、ミコトはそっと揺らした。

 無表情だし、図々しいし、太々しいし、野良猫みたいだけど、優しい娘だ。おとーちゃん、みことがそんなにやさしいこにそだってくれてうれしいよー。まだ育ててないけど。


「どこの家で働く予定だったんですか?」


 俺とミコトの様子を見兼ねてか。千鶴ちゃんが一歩、二歩と歩み寄ってきながら尋ねた。それでも、ずいぶんと距離があるけど。


「古関さんです」


 口をパクパクさせている俺の代わりにミコトが答えた。


「あなたたち、古関のお邸に働きに行く予定だったの!?」


「それなら、さっき我が家にも連絡がありました。古関のご隠居さまは昨日、お亡くなりになられたそうです。それでお邸のバイトも必要なくなったんでしょうね」


「ずいぶんと年だったからね、あそこのおじいちゃんも」


 夏希ちゃんは盛大に、秋穂さんは頬に手を当ててそっと、ため息をついた。ため息をついたあと、


「と、いうか……古関のおじいちゃんところに住み込むつもりだったの、あなた……?」


 なぜか夏希ちゃんの眉がぴくりと跳ね上がった。


「夏希ちゃん、あまり立ち入ったことは聞かないの」


 なぜか秋穂さんが大人の微笑みを浮かべた。社交辞令的……とも言う。

 何、その表情? どういう意味、その表情?

 ……と、思ったけど。それを聞くよりも先に、


「住み込みでバイトって……もしかして家を引き払って来ちゃったんですか?」


 千鶴ちゃんが眉を八の字に下げた心配顔で俺とミコトを見つめた。ミコト並みに表情の変化に乏しい子かと思ったけど、ずっとわかりやすい。


「引き払ったというか……」


「父さんのボロアパートは火事で全焼したんです」


 ミコトの言葉に千鶴ちゃんの顔が青ざめた。赤の他人の話なのに、そこまで心配してくれるなんて。きっと、すごく優しくて、育ちの良い子なのだろう。


「大丈夫、大丈夫。なんとでもなるから。心配しないで!」


 バタバタと両手を振って、俺はベッドから起き上がった。


「お言葉に甘えて、駅まで送ってもらってもいいですか?」


「えぇ、もちろん」


 秋穂さんは微笑んで頷いた。

 あまり千鶴ちゃんに心配を掛けるのも申し訳ない。そう思って、さっさと立ち去ろうとしたのだけど――。

 ちらっと隣に立っているミコトに目を向けた。ミコトは俺の視線に気が付くと、相変わらずの無表情で首を傾げた。

 ミコトの母親が三姉妹の誰かだと考えると、この家の近く――避暑地周辺にいた方が良いのだろうか?


「うーん、でも住み込みのバイトなんて簡単に見つかるかな」


 思わず声に出してぼやいた瞬間――。


「あ、あの……秋穂姉さん……!」


 千鶴ちゃんが大声を出した。見ると千鶴ちゃんは必死な表情で秋穂さんを見つめていた。で、秋穂さんの方は、


「何? なあに、千鶴ちゃん! なんでも言って! 千鶴ちゃんのお願いなら秋穂お姉ちゃん、なんでも叶えちゃう!」


 俺に応対したときの凛とした上品さはどこへやら。恋する乙女のように胸の前で手を組み合わせ、目をきゅるん♪ と輝かせた。

 秋穂さんの勢いに千鶴ちゃんは顔を引きつらせ、困り顔と言うかちょっと怯えた顔で後退った。そんな千鶴ちゃんと秋穂さんを見て、夏希ちゃんはふん! と、拗ねたように鼻を鳴らした。

 なんだか温度差のある姉妹だ。


「遠慮なく言ってね! 秋穂お姉ちゃん、千鶴ちゃんのためなら……!」


「それなら、二人を藤枝家で雇っていただけませんか。住み込みで!」


 千鶴ちゃんが言った瞬間、秋穂さんの肩がぴくりと跳ねた。きゅるん♪ とした笑顔も、一瞬で引きつった。

 ついでになぜか、ミコトの肩もぴくりと跳ねた。かと思うと、


「大丈夫です。ボロアパートに帰れば、ご近所のじいちゃん、ばあちゃんたちが助けてくれます。そうですよね、父さん!」


 なんてことをやけに大声で、早口でまくし立てた。


「勝手なこと言うなって。そんなに簡単に頼れるわけないだろ」


 俺は額を押さえて、ため息をついた。確かに、じいちゃん、ばあちゃんたちは助けてくれる。だからこそ、おいそれと頼りたくはない。甘えたくはなかった。

 次の仕事の当てがあるわけでもない。通帳の残高も相当に厳しい数字だ。ミコトの母親のこともある。藤枝邸で雇ってもらえるのなら、それに越したことはない。

 ただ――。


「えっと、トウマさんって……男の子ですよね?」


 秋穂さんの質問に俺は黙って頷いた。男の子なんて年齢ではないけど、聞かれているのはそういうことじゃない。俺が頷くのを見て、秋穂さんの表情は引きつった微笑みから、目だけが笑っていない微笑みに変わった。

 ……どうやら、秋穂さんの気持ちとしては少しも雇いたくないし、なんならとっとと出て行ってほしいようだ。

 秋穂さんにか、藤枝家にか。どういう事情があるかはわからないけど、なんだか男子禁制っぽい雰囲気が漂っている。なんとなく、何かの危機を察して、俺は思わず前かがみになった。

 肝が……と、いうか金タマが冷えている気がする……!


「ち、千鶴ちゃん、大丈夫だから本当に心配しないで!」


 秋穂さんの圧に負けて、俺は思わず拳を握りしめて叫んだ。


「ほら、千鶴ちゃん! トウマさんもこう言っていることだし!」


「大丈夫です! 父さんがこう言ってるんだから大丈夫です!」


 すかさず秋穂さんと、なぜかミコトも力いっぱいに頷いた。


「お姉さま、必死過ぎ……」


「えっと、でも……でもね……」


 夏希ちゃんの冷ややかな目に、秋穂さんはたじろいだ。そんな秋穂さんに追い打ちをかけるように、千鶴ちゃんが目に涙を滲ませた。


「お願いします、秋穂姉さん。次の仕事が見つかるまでのあいだで構いません。二人を住み込みで働かせてあげてください」


 千鶴ちゃんの真剣な表情に――。


「次の仕事の当てがないって言うのは、家がないっていうのは……すごく不安なことなんです」


 千鶴ちゃんの真剣な言葉に――。


「秋穂姉さんたちには、わからないかもしれませんが……」


 秋穂さんは唇を噛んで頷いた。

 その表情は多分、傷ついていたと思う。

 どうしてなのか、何に対してなのか。このときの俺にはわからなかったけど。

 でも、確かに秋穂さんは傷ついていたと思う。

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