第四話「だからさ、俺のことは大丈夫だから安心してよ」

 十二レースが終わって、ボロアパートに帰ってきた俺は呆然とした。

 ちなみに十二レースもミコトが言う通りに買った三連単は見事的中……って話はさておき。

 俺一人だけが住んでいたボロアパートとその周辺が炎に包まれていた。

 冬で日も短い。空はすっかり夜の色になっているのに、炎のせいでボロアパート一帯だけ昼間のように明るい。消防士やら警察官やら野次馬やらの声が騒々しい。


「うそだろ……」


 頬を叩く熱風にごくりと唾を飲み込んで、リュックの肩ひもを握りしめた。昨夜、ミコトにせっつかれて夜逃げするつもりでまとめた荷物が入っているリュックだ。

 生まれて二十年、物心がついてからでも十数年。住み慣れたアパートと見慣れた家々が燃えているのを見て、血の気が引いた。

 もちろん家財の心配もあるけど、それよりも。そんなことよりも――。


「トウマ……トウマ! お前、無事だったか!」


 呆然と炎を見つめていた俺は、名前を呼ばれてハッとした。見ると、白のコック服を着たつるっぱげのじいちゃんが駆け寄ってくるところだった。バイト先の中華屋のじいちゃんだ。


「連絡付かないから心配してたんだぞ!」


「だから言ったじゃない! きっとバイトかどっかに行ってるだけだって。……ミヨさん、ミヨさーーーん! トウマ、帰ってきたわよ!」


 すぐさま中華屋のばあちゃんも気が付いて、大声を張り上げた。

 夕飯を作っている最中だったのかもしれない。エプロンをしたミヨさんが、曲がった腰に手を当てて、せかせかとやってきた。


「あら、ホント! もう~、この子は! 心配かけさせんじゃないよ! 金子さん! 金子さーーーん!」


 あとはもう芋づる式だ。次々と近所のじいちゃん、ばあちゃんが集まってくる。皆、無事だとわかって俺はほーっと盛大に息を吐き出した。

 年のわりにと言うべきか、耳が遠いせいでと言うべきか。とにかく皆、声がでかい。

 ミコトは警戒する野良猫みたいに低い姿勢で俺の背中に隠れた。


「どっかのアホが隣の工場に入って、タバコ吸って捨てたんじゃないかって」


「ほら、あそこ。もう十年も前に潰れて、放ってあった工場」


「いつかこういうことになるんじゃないかって思ってたけどなぁ」


「今日、寝るとこ。あるかしら」


「トウマが通ってた中学、あそこの体育館を使わせてもらえるんじゃない?」


「ああもう! せっかく良い里芋とイカを買ってきたのに台無しじゃないか!」


「災害みたいなもんだものねぇ。避難所として使わせてくれるわよねぇ」


 中華屋のじいちゃん、ばあちゃん。ボロアパート正面に住んでるミヨばあちゃん。裏に住んでる金子のじいちゃん、ばあちゃん。金子のじいちゃん、ばあちゃんちの隣に住んでるゲンじいちゃんと、ヨネばあちゃん……。

 一度に喋るもんだから、会話が成立してるんだか、してないんだか。多分、成立していない。苦笑いしていると、


「トウマ」


 中華屋のじいちゃんに名前を呼ばれた。中華屋のじいちゃんも、隣に立っているばあちゃんも、暗い顔をしている。

 厨房に立って中華鍋を振るったり、常連客とげらげらと笑っているときには気が付かなかった。でも――。


「店はこんな状態だ。そろそろ年だし、店を閉めようかって話もずいぶん前からしてたんだ。だから、その……すまない」


 中華屋のじいちゃんもばあちゃんも、すっかり年を取って本当のじいちゃん、ばあちゃんになっていたらしい。

 落ち込んでいるというだけじゃない。年ですっかり丸くなった背中を、申し訳なさそうにさらに丸める中華屋のじいちゃん、ばあちゃんに俺は黙って首を横に振った。

 あやまらなきゃいけないのは俺の方だ。年なのに、俺のために無理して中華屋を続けてきてくれたのだ。掛け持ちでバイトしてたけど中華屋で出るまかないはめちゃくちゃありがたかった。

 バイトとして雇ってもらう前からずっと、ずっと。中華屋のじいちゃん、ばあちゃんだけじゃない。ミヨばあちゃん。金子のじいちゃん、ばあちゃん。ゲンじいちゃん。ヨネばあちゃん。

 メシにしろ何にしろ、どれだけ面倒を見てもらったことか。

 ひとり親だった俺の母親は物心ついた頃からほとんど家に帰ってこなかった。正直、今では顔も思い出せない。育児放棄状態だった俺が死なずに二十歳を迎えられたのは、近所のじいちゃん、ばあちゃんと……ぎんじいちゃんのおかげだ。


「こちらこそ長いことお世話になりました。本当にありがとうございました!」


 深々と頭を下げると、中華屋のじいちゃんがバシバシ! と、俺の背中を叩いた。顔をあげると案の定、じいちゃんもばあちゃんも涙ぐんでいた。


「今月のお給料は銀行から下ろせるようになったらすぐにでも渡すから。ちょっとだけ待っててね」


「いや、いいよ! 小さい頃から散々、メシ食わせてきてもらったわけだし!」


「馬鹿野郎! 子供が遠慮するな!」


 中華屋のばあちゃんの言葉にあわてて首を横に振ると、中華屋のじいちゃんに怒鳴られてしまった。じいちゃんに同意するように、まわりのじいちゃん、ばあちゃんも腕組みして大きく頷いている。

 じいちゃんたちも家が焼けて大変なのに。参ったなと襟首を掻いて、俺は息を飲んだ。

 多分、このためだったんだ。そんな確信があった。

 どさりとリュックを下ろすと中から茶封筒を取り出した。的中した全十二レースの三連単馬券を払い戻して得たお金が入っている。千円札と硬貨は財布にしまって、茶封筒の中身は万札だけ。それでも結構な厚みだ。

 その茶封筒をずいっとじいちゃんたちに差し出した。


「これ、二百万ちょっと入ってる! じいちゃん、ばあちゃんたちで分けてよ!」


 じいちゃん、ばあちゃんたちはじっと茶封筒を見つめた。中華屋のばあちゃんが代表して茶封筒を受け取って、そっと中身を引き出して、万札の束を確認した瞬間――。


「……はあああぁぁぁ!? お前、こんな大金どうした!」


「まさか、なんか危ない仕事に手を出したんじゃないでしょうね!?」


 悲鳴と共に茶封筒を突き返してきた。


「馬鹿か、お前! トウマがそんなもんに手を出すか!」


「あれよ、あれ! 専門学校だかに通うために貯めてたお金!」


 一斉に怒鳴るもんだから、誰が喋ってるんだかさっぱりわからない。

 じいちゃん、ばあちゃんの大声に、ミコトはますます俺の背中にしがみついた。うん、まぁ……慣れてないとビビるよな、このいきおい。


「ふざっけんな、トウマ! てめぇ、俺らをなめくさってんのか!」


「いや、そうじゃ……!」


「あんたが必死になって貯めた学費を恵んでもらうほど、うちらは落ちぶれちゃいないよ!」


 勢いが凄まじい。苦笑いで口をはさむ隙を探していると、


「……競馬」


 ミコトがぼそりと呟いた。小さな声のわりにじいちゃん、ばあちゃんたちの耳にはしっかりと届いたようだ。ぴたりと賑やかな怒声が止んだ。かと思うと、


「……あら、座敷童さん?」


 ミヨばあちゃんが頬に手を当てて、小首を傾げた。

 妖怪扱いされたことにか。子供扱いされたことにか。ミコトは唇を尖らせて、また俺の背中に隠れてしまった。


「そう! そうなんだよ! 競馬で当てたもんなんだよ、この金!」


 俺はここぞとばかりに身を乗り出した。


「昨日、二十歳はたちになって馬券が買えるようになったんだ。嬉しくて早速、競馬場に行ってきたんだよ!」


「トウマ、昔から競馬見るの好きだったもんね」


「うちのお父さんといっしょになって競馬番組見て。時間になると金子さんやゲンさんまで集まってきて」


 中華屋のばあちゃんにじろりと睨まれて、俺とじいちゃんたちは小さくなった。


「もっと前からよ。ぎんさんがアパートに住んでた頃から。ぎんさんのひざに乗ってよく競馬番組、見てたでしょ」


 ボロアパートの裏手に住んでる金子のばあちゃんが苦笑いで言った。つられて俺も苦笑いした。あれから十年以上が経つのだ。懐かしい気持ちと寂しい気持ちに目を伏せ、でも、すぐに顔をあげた。


「あぶく銭はとっとと使えって、ぎんじいちゃんにも言われてたし。今日、当たったのって、きっとじいちゃんやばあちゃんにこの金を渡すためだったんだよ」


 そう言って、俺は改めて茶封筒を差し出した。


「みんなで分けたら大した金額じゃないけどさ。じいちゃん、ばあちゃんたちに世話になってばっかりだったんだ。こういう金くらいは受け取ってよ」


 じいちゃんとばあちゃんたちは互いに顔を見合わせた。しばらく考え込んで、


「いや、やっぱり受け取れん!」


 それでも首を横に振った。


「私たちの家は焼け残ったところもある。しばらくは子供のところでも、兄弟のところでも世話になれる。でも、あんたの家は全焼なんだよ?」


「学費のことだって、新しい部屋のことだってあるんだ。やっぱり、これはトウマが……」


 茶封筒ごと俺の手を握りしめるミヨばあちゃんを遮って、


「……住み込み」


 再び、ミコトがぼそりと呟いた。小さな声のわりにじいちゃん、ばあちゃんたちの耳にはやっぱりしっかりと届いたらしい。ぴたりと賑やかな声が止んだ。かと思うと――。


「どした、座敷童!」


「怖くないぞ、出て来ーい」


「出ておいでー」


 じいちゃん、ばあちゃんたちが一斉に手のひらを差し出した。一人歩きを始めたばかりの子供に、おいでおいでするジジババみたいだ。

 注目を集めたことに驚いたのか。ミコトは俺のコートをガシリとつかんで背中に隠れてしまった。でも、俺が肘でつつくと、ぬーっと顔を出して、俺を上目遣いに見た。


「父さんに、住み込みのバイトを紹介しようとしてました」


 相変わらずの無表情だ。じいちゃん、ばあちゃんたちの勢いに背中を丸めて小さくなっているものだから、顔の位置がいつも以上に遠い。

 くしゃりとミコトの白い髪を撫でて、住み込みのバイト……と、口の中で呟いた。

 多分、これが一番、じいちゃんとばあちゃんたちに心配を掛けずに済む選択だ。

 俺はミコトの目をのぞき込んで、大きく頷いた。俺の考えていることを察したのだろう。ミコトは頷き返すと、ようやく俺の後ろから出てきて隣に並んだ。


「まだ返事はしてなかったんだけど、こういう状況なら行ってこようかなって」


「避暑地にある大きな別荘です。給料も良いです」


 俺が笑顔を浮かべるのを見て。続いて、ミコトがこくこくと頷いて補足するのを聞いて。じいちゃん、ばあちゃんたちは顔を見合わせた。

 俺の手を握りしめたままのミヨばあちゃんの手に茶封筒を握らせて、まだ心配そうな顔をしているじいちゃん、ばあちゃんたちをぐるりと見回した。

 そして、


「だからさ、俺のことは大丈夫だから安心してよ!」


 小学生の頃のようににひっと歯を見せて、笑い掛けたのだった。

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