第三話「僕の母さんに心当たりはないですか」

 で、今日――二〇一九年一月二〇日。

 一睡もしないまま、朝九時半に中山競馬場に到着し。ミコトにせっつかれて夜逃げするつもりでまとめた荷物は中山競馬場のコインロッカーに詰め込み。ミコトに言われるがまま、今日、中山競馬場で開催される全十二レースの三連単馬券を買ったのだ。

 中華屋のバイトのまかないがあるおかげで食いっぱぐれる心配はない。近所のじいちゃん、ばあちゃんが何かと面倒を見てくれるおかげでギリギリ死なずに済んできた。

 それでも、専門学校に入学するために金を貯めてる身だ。高校を卒業して二年近くバイトを掛け持ちして、もう少しで二年分の学費とバイトを減らしても死なない程度の貯金が出来そうなのだ。

 財布に余裕があるわけじゃない。買った三連単馬券はどれも最低金額の百円だ。

 唯一、メインレースのAJCCだけはシャケトラが……ケガから復帰して一年一か月ぶりに出走するシャケトラが一着でゴールすると言われて、思わず千円を突っ込んでしまったけど。それ以外は最低金額の百円でしか買っていなかった。

 一レースの一着、二着、三着をぴたりと的中させるのだって相当に難しい。だからこそ、的中すれば百円で買った馬券が数千円にも、数万円にも……ときには一千万円や二千万円にもなって返ってくるのだ。

 十二レースすべての三連単を当てるなんて不可能だ。不可能の、はずなのに――。

 ここまでの十一レースすべて、ミコトが言ったとおりに買った三連単は見事的中していた。

 一レース、二レース目は一万円、二万円の払い戻しだったから、


「マジか、マジか!」


 と、手を叩いて笑っていられた。


「食べたい物とか、欲しいお土産とかあるんなら買ってやるぞ! 三万円以内だけどなー!」


 なんて、ミコトに軽口を言うだけの余裕もあった。

 それが三レース目。百円の馬券が五十万円ほどに化けたあたりから半笑いになり。そのあとのレースも的中し続け、十一レース目を迎え――。


「なぁ、これ……帰り道に交通事故に遭って死ぬパターンじゃないよな!?」


 今はすっかり恐怖に変わっていた。シャケトラ復活の歓喜も、シャケトラファンの見知らぬおっちゃんとの別れと共に消えていた。

 多分、この調子で最後の十二レース目も的中しているのだろう。


「大丈夫ですよ。僕が小さい頃に父さんから聞いたことがあるんです。十二レースすべての三連単を的中させたことがある、生きた心地がしなかったって。……だから今日、死ぬことはありません」


 それなら安心……と、言っていいのかどうか。瞬きの少ない目にじっと見つめられて、俺は引きつった笑みを浮かべた。額を押さえて、腕組みをして、考え込んで――。


「とりあえず……なんか俺に頼みたいことがあるんだよな、お前」


 そう、ミコトに尋ねた。

 ここまで十一レース。すべての一着、二着、三着をピタリと的中させるなんて、八百長をしようとも予想屋を頼ろうとも無理だ。やれても一、二レースが限界。

 だからと言って、未来からやってきただとか俺の娘だとか、そんな非現実的な話を信じられるわけでもない。

 娘がいるということは、未来の俺には恋人なり奥さんなりがいたということだろう。そこに娘も加わって家族というものを持ったということなのだろう、けど――。

 真っ赤な口紅を塗った母親の影が頭の隅をよぎって、俺は苦い笑みを浮かべた。正直、俺が家族なんてものを持ったということが一番、信じられなかった。

 ただ、まぁ、そうまでして未来からやってきた俺の娘だということを信じさせようとしているのは、ミコトが俺に何か頼みたいことがあるからだ。俺の協力が必要だからだ。


「目の前で困っているやつがいるんなら、助けてやるのは当然……だよな」


 ぼそりと、ぎんじいちゃん・・・・・・・の言葉を呟いて、俺はミコトに微笑みかけた。


「俺にできることならやってやる。だから、言ってみろよ。俺に何をしてほしいんだ?」


 俺の言葉を聞いて、ミコトはぴょん! と、小さく跳ねた。無表情なせいでわかりにくいけど、多分、喜んでいるのだろう。

 ミコトはコホンと咳払いして背筋を伸ばした。


「僕は、僕の母さんのことをよく知りません。名前も年齢も……生きているのか死んでいるのか。死んでいるのなら、いつ、どうして死んだのかも」


 母親のことをよく知らない――。


 ミコトの言葉に、思わず鼻で笑ってしまった。

 子は親に似るというけどその通りなら、俺はろくでもない相手を選んだ、ろくでもない父親だったに違いない。本当にミコトが俺の娘なら可哀想なことをしてしまった。

 だって、ろくでもない血を引き継がせてしまったのだから。


「手掛かりは小さい頃に聞いた、ほんの少しの父さんの言葉と。父さんの日記に書かれていた、ほんの少しの言葉だけです。その日記も焼けちゃって、ほとんど覚えていないんです」


 苦い感情を飲み込んで、じっと俺を見上げるミコトの目を見つめ返した。


「父さん、僕の母さんに心当たりはないですか。心当たりがあるのなら教えてください。お願いします」


 ミコトが俺の元にやってきたのは母親を探すため……と、いうことだろうか。

 正直、心当たりなんてない。手掛かりもほとんどないのに探そうだなんて途方もない話だ。でも、ミコトは小さな拳を両方とも握りしめて、真剣な表情で言うのだ。

 だったら――。


「わかった。心当たりはないけど、お前の母さんを探すのを手伝ってやる」


 ミコトはポカンと口を開けた。かと思うと、右に左にと首を傾げて、長いこと考え込んだあと、


「……よろしくお願いします」


 と、言って頭を下げた。

 何を考え込んでいたのか。母親の心当たりを聞いてどうするつもりだったのか。もっと、ちゃんと、俺はミコトに聞いておくべきだったのだ。

 でも、このときの俺はミコトの本当の目的も知らず。


「おう、任せとけ!」


 のんきに拳を振り上げて。


「十二レースが終わったら、父さんのボロアパートに帰りましょう」


「うるっせえ、ボロとか言うな!」


 そんなどうでもいいことに怒っていた。


「て、いうか、夜逃げするつもりで荷物をまとめろってのはなんだったんだよ」


「僕にもさっぱりわかりません」


 あっけらかんと言って、ミコトは首を傾げた。


「僕にもさっぱりわかりませんが……そう言っていたんです、父さんが」


 ミコトもさっぱりわからない理由がきれいさっぱりわかるのは、十二レースが終わってボロアパートに帰ってからだった。

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