第6話


06



 パチ、と。

 瞼が開く音のような、あるいは、電気にあてられたような。

 自分自身驚いてしまう、それくらいには、気持ちのいい目覚めだったということで。

 飛び起きたわけではない故に、自然僕の視界には一面天井が映る。

 そこでようやく違和感に気付き、僕は結局飛び起きることになる。

 天井に全然見覚えがないのである。

 龍は、魔女に会わせてくれると言った。

 魔女とは、僕のいうところの、あのスーパー美人な講釈お姉さんのこと。

 では、彼女と僕が邂逅を果たしたのは、こんな天井だっただろうか。

 それは、果たして否である。

 こんな籠目の天井じゃあ、決してなかった。

 いやな直感が段々と現実味を帯びていく。

 辺りを見渡すけれど、見覚えのあるものはなに一つとして目視できない。

 こじんまりしたこの一室にあるのは、天井まで届くくらいの大きな本棚と、せいぜい数えられるくらいに積み上げられた本の数々。目算するに百冊と少し…くらいだろうか。

 加えて言うなら、洒落た脚をしたテーブルと、テーブルの上に鎮座する、埃を被った巨大なティーポット。本当に、それくらい。

 殺風景だというよりは、なんというか、味気がない。

 言わずもがな、ではあるけれど、僕はどうやらあの龍に騙されたらしい。

 もしもあのお姉さんのもとに僕がワープを果たしていたのならきっと、開眼一番にまた電波講釈を垂れてくるに違いないだろうし、なにより、この小さな部屋は彼女にとってはやや小さいように思える。

 あの魔女は存外に大きいのだ。色々と。背丈はだいたいにして百七十センチくらいだろうか。

 まあ、騙されたかどうかは現時点にして確証はない。

 ワープ先を誤ったという見解だって、僕の中でないではないのだけど、しかしこの場合、騙されたとしておおよそ間違いはないだろう。

 理由としては、僕からは唯一つ。

 この室内に、扉という扉が存在しないのだ。見渡す限り、一つだって存在しない。

 扉がないということはつまり、この空間はこの空間だけで完結しているというわけで、要するにあのお姉さん——魔女が出入りをする空間ではないということ。

 というか、この部屋に閉じ込められたとみるのが筋というものだろう。

 どうして僕を閉じ込めたのかなんてことは、果たしてわからないけれど、この場所に連れてきた理由くらいはあるはず…。

 この部屋に限定的な理由があるとは……考えにくい。

 んん、隔離された…?

 いや、考えにくいか。あんな魔法みたいな不思議パワーが扱えるなら、僕を眠らせるなりなんなり…、というか、隔離が目的なら、あの龍の腹の中にそのまま僕を隔離してしまえばいいじゃないか。

 ……推察が推察にならない。

 あのお姉さん曰く、ここは魔法の世界だそう。

 僕を騙してくれやがった龍曰く、お姉さんは魔女だそうだ。

 その魔法とやらの使用というか、おおよその用法がわからないのであれば、推察だってたてることができない。

 どんな推論を並べたところで、行き着く先全てがその魔法という可能性で潰れてしまうのだ。

 魔法という、僕にして圧倒的未知があるかぎり、正しく八方塞がりである。

 東西南北四方位に対して、どの方角に対しても推論を進めることはできない。

 ましてや現状、この世界に来たばかりの右も左もわからない僕だ。

 そもそもの話、現在僕が行っている推理がどれだけの意味を持つのかなんてことは分かりきっていることで、詰まるところの行き止まり、全くと言っていいくらいには意味がない。

 推理をして、推察をして、といくら順立てしたところでその先、行動に移せないのだ。

 あの龍が迎えに来てくれることを祈るにしても、その間僕は宙ぶらりん。

 最悪死ぬまで宙ぶらりん。こんなことなら、それこそ龍に噛み砕かれて死んだ方がマシだったとすら言える。

 今になって、前世が惜しい。

 学生服を着ていた頃の僕がどれだけ恵まれていたかが身に染みてわからされる。

 つくづく、染みる。泣いてしまいそう。

 自分自身情けないように思うけれど、お母さんに会いたい。僕はママっ子なのだ。

 向こうで僕はもう死んだことになっているのだろうか。

 いや、行方不明ということになっているか。

 僕の家族は僕のことを、心配しているだろうか。

 だとしたら、お母さんはきっと泣いているだろう。あの人はすぐに泣く。

 そんな母を見て、僕の姉貴もつられて泣く。

 父はきっと、涙を隠すだろう。

 そんな光景が、涙と一緒に、目に浮かぶ。

 いつからか、姉貴に馬鹿にされるからと、涙を堪えるのが癖になった。

 今もまた、僕は涙を堪えている。

 ここで泣いてしまったら、その全てまで零れてしまいそう。

 ——ん、なんというか、急に湿っぽいかんじになってしまったか。

 気を取り直したい。しかし、気を逸らす術がない。

 この部屋にあるもので候補に挙がるとしたら、本くらいか。

 ん、だけど、僕、読書って全然しないんだよな。

 漫画を含めることが許されるのであれば、僕は超がつくくらいの超読書家なのだけれど、この部屋にある本と言えば、表紙も裏表紙も全然漫画っぽくないし、本棚に並べられた本の背表紙にしたって、漫画らしいタイトルどころか、解読が必要なくらいの草書体が黒く刻まれている。

 一見、魔術書。魔法の世界というくらいなのだから、本当に魔術書だったりして……。

 まあ、魔法が扱えるようになるとは思ってもみないけれど、もしかしたらここにある本からこの世界の知識が学べるかもしれない。

 仮に、至極普通の——僕の苦手な小説だったりしても、その物語の登場人物の行動、所作などでこの世界の常識観念が少しでも理解できたら御の字といったところ。

 加えて、活字にチャレンジするいい機会じゃないか。

 小学生の頃の話、読書の時間というものが十分間設けられていて、どうしても読書をするのが嫌だった幼い頃の僕は、ブックカバーもされていない漫画をそれはもう堂々と楽しんで悪ぶっていたなあ。

 当時一番の仲良しこよし、吉井の奴、元気にしているかな。

 夏休みの課題である読書感想文で、太宰治の『人間失格』に対して、小学生ながらにも恐れず意見したあの高慢ちきな奇天烈斎藤君の奴は、元気にしているだろうか。

 クラスきっての助平草野君は、今ごろどんな人間に変わり果てているだろう。

 そういえば、助平草野君主犯の助平事件において、その事件の解決を図り開かれた学級裁判——スケベ裁判のドスケベ裁判長ことドスケベ植野君、あいつは元気にしているのかな。

 ああ、また泣いてしまいそう。

 思い出に耽るのはもっと涙袋のコンディションがいいときにしよう。

 今やるべきことは活字チャレンジに他ならない。

 して、積み重ねられた本の数々。

 積み重ねられているということは、下敷きになっている本ほど巻数が若いということだろうか。

 せっかくだし、下の方から読んでいくか。んん…しかしそれも億劫だ。

 妙案、テーブルクロス引き。

 誰もいない、見ていないことだし、人目をはばかることもないだろう。

 本を大事にしなさいなんて叱ってくれる人間だって、生憎、今の僕にはいないことだし。

 時間が限られているわけではないけど、しかし時間というのは有限だ。

 僕という人間の時間は、切なくも有限なのである。

 ……、ええい前置きが長い。さっさと引いてしまえ。

 ——えいっ。

 ……。…。

 …。

 失敗である。

 失敗どころの騒ぎじゃあ収まらない、大失敗だ。

 積み上げられた一つのタワーを崩したどころか、その隣もまた隣もドミノ崩しのように倒れてしまった。

 しかしこの失敗だって、まだまだ序の口なのかもしれない。

 倒れたタワーのその先、たった今僕と目があった女の子。

 艶やかな黒髪の一つ結び。

 ネコ目でやや幼い印象。

 紅葉色のグラデーションが施された袴に、黒のブーツ。

 正に大正浪漫、そんなかんじ。

 袴姿の少女は、本を拾う。

 僕が倒したタワーによって弾かれた本を、である。

 本を軽く手で払い、窓辺に置いた。

「お前なにしてんの」

 一切の抑揚のない、感情がないとすら思われる機械的な声音。どころか、眉一つだって動かさない。

 精巧に作られた人形のようだと思った。

 人形というか、ドールといった方がしっくりくる。

 少女というか、幼女だろうか、しかし幼女というほど幼くない。

 雰囲気とか、なにより背丈から推察するに、小学六年生とか——

「もう一度聞くけど、なにしてくれているんだよ」

 ここまできて、ようやっと窺うに、どうやら彼女は怒っているらしい。

 まあ、そりゃそうだ。

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