第67話 トイレを借りた代償

降り注ぐ雪の中を歩く龍一。

いつも混んでいる道路に一列に並ぶ車のヘッドライトが心地よく、振り返ると真っ赤なテールランプが並んでいる、この光景が好きだった。端から見れば誰かに追われているような言動に見えるが、龍一自身は輝きを楽しんでいるのだ。車種によっていろいろな形があるライトの形、それが長い列を作っている、頭の中では妄想が膨らみ、ヘッドライトの列は逃亡者を探す追跡者の群れ、テールランプの列は松明をかざして逃亡者を探す山狩りだった。


キン消しのシークレットウォーズマンを手に取って見ると、喜びが込み上げてきた。『あ、そうだ、ヤンキーに絡まれたら取られる可能性あるな』そう考えると、トランクスの内側にある小さなポケットにウォーズマンを入れた。大抵のトランクスにはポケットは無いと思うのだが、修学旅行に規則以上のお小遣いを隠し持つ、またはカツアゲ対策として通称忍者ポケットと呼ばれる小物入れがついたトランクスが存在した。スーパーなんかでは取り扱っておらず、ヤンキー御用達のお店がそこだった。龍一の街では『マックスラガン』『トップカルバン』と言う名前の改造学生服専門店で売られていた。


『う!』


龍一の腹部を刺すような痛みが走った。

肛門周辺が熱くなり、増してゆく腹痛に比例してその熱さは痛みに似た違和感に変わっていく。そう、まさに爆発前の下痢の初期微動だった。痛みが緩んだタイミングで急いで歩くが、主要動が来ると煮えたぎったマグマが噴火の準備を始める。その度に足が止まり中腰になる。


『ぐぬぬ…』


必死で括約筋を締める龍一、肛門と言うバルブを閉めるかのように。

漏らすわけには行かない、中学生にとっては失禁はおろか脱糞なんかもっての外、何があっても絶対に許されない。それは誰が見てなくても、自分の中で許されざる行為なのだ。しかし家まで3キロもある、持ちそうにない、いや、持たない、確実に持たないと言う確信が確実にあった、確実な確信だ。


『どこか…どこか…』


龍一の生きるこの時代、コンビニなんてものは殆どないから脳内にコンビニと言うワードなんか浮かばないのは至極当然の話し。


『腹いてぇ…腹いてぇ…は!?あれは病院だ!』


町病院ではなく、総合病院、いわゆる大きい病院が30メートルほど先に見えた。


『あそこならトイレが絶対あるはずだ!』


龍一は肛門を締めながら早歩きを開始、その姿は城内を小走りする大奥のようだった、しかも足元が悪く歩きにくい、が上での30メートルはなかなかにハードである。入り口の角を曲がると病院の建物までは更に10メートルはあった、絶望的距離ではないものの、龍一の現状を考えると圧倒的な危機感を感じる距離ではある。


【医療法人 稜南病院(りょうなんびょういん)】


内科中心の病院でいつも混んでいるから、早朝に足を運んでも終わるのは15時なんてこともざらにある。そんなに混む病院だと言うのに、ファミコンを抱えながら青い顔して屈んで歩く少年に誰も声をかける事は無かった。それは龍一にとって好都合だ、こうしてすんなり入り込む事が出来たのだから。


天上から吊り下げられた看板を見ると、トイレのピクトサインを見つけた龍一。このピンチな状況だ、通常なら走り込むと思うだろうが、ここで龍一の変な性格が顔を覗かせる。焦ってトイレに入る人として見られるのが嫌なのだ、誰もそんなことを思わず、自分が思っているほど周りの人間は龍一に興味なんかない、ここ数年のいじめや無視等で充分経験しているはずなのに、龍一の中には『そう思われそうで嫌』と言う思考があるのだった。


しかしトイレに入ってからは早かった。

ズボンと同時にパンツを下ろしながら座った瞬間には排便を行うと言う、一連の流れを僅か1秒もかけずにやってのけた。まるで水道の蛇口を捻ったかのように勢いよく、自分の意思など関係なくジャージャーと音を立てて流れ続けるほとんど水の便。経験した事のない肛門からのジェット噴射、言わば逆ウォシュレットが数秒続いたが、龍一にとっては身体中の水分が抜けて死ぬかもしれないと言う怖さを感じていた。そんな心配を打ち消すようにピタリと肛門ジェットは止まった。ウォシュレットを使うと、その温水がヒリついた肛門を刺激し、痛みでビクンと飛び上がった。肛門が焼けるように痛かったので、優しく押しあてる様に拭こうと紙を見ると、なんとトイレットペーパーが空で、在庫すらないと言うドラマや漫画でよくある状況。稜南病院はいつも混んでて儲かってるんだから紙ぐらい山積みしとけやコラ!と怒鳴りたい気持ちを抑えたが『うほっ!』と言う声は出てしまった。外から聞いた人は不思議に思うだろう、ドアの向こうから『うほっ!』と聞こえるのだから色々な想像を膨らませるに違いない。


悩みに悩んだ龍一は自分が履いていたトランクス、通称ガラパンで拭くことに決めた。便失禁したわけではないが、濡れたお尻のままパンツを履くのは嫌だった、パンツが濡れると冷たい、外は冬で雪も降っている、パンツに違和感を抱えたまま帰る、それは絶対に嫌なのだ。初めての経験だがとても嫌だった、自分のパンツで自分のお尻を拭くと言う感覚、説明しがたいが屈辱にも似た感情が湧いた。濡れただけだが、お尻を拭いたと言う事実は事実なので、汚物入れに丸めたトランクスを入れてノーパンにジーンズを履いた。これも初めての体験で、いかんともしがたい不愉快さが龍一を襲った。


何事も無かったようにトイレを出ると、看護師さんと鉢合わせになったが『えーっとどっちだっけなぁ…』と、病室を探していますよアピールをしながら足早に立ち去った、こういう時の龍一の機転の利かせ方と度胸は中三とは思えない。


外に出ると、ノーパンと言う事がやたらと恥ずかしく感じた。何気なく股間に手をやり、ジーンズ履いてるよな…と確認をした。パンツと言うたかが生地一枚抜いただけでここまで寒く、冷たく、そしてこんなにも恥ずかしいものだとは思っておらず、この日パンツは大事だと痛感した。


やっとの思いて家に到着し、ただいまと言いながら直ぐに部屋に入りファミコンをベッドの下に隠した。タンスからトランクスを出して履くと、そのままパジャマに着替えた。『ファミコンは夜中にセッティングだな、そだ!ウォーズマン!』思い出した龍一はジーンズのポケットを何度も何度も弄る、その度に不安が高まり、心臓の鼓動も速くなる。脳内に映し出される真実の映像、しかし龍一は認めたくなくて微かな希望を胸にポケットを何度も何度も裏返して迄確かめる。


そして認めた。


稜南病院のトイレの汚物入れにパンツと一緒に捨てたことを。


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