第6話 転校

小学三年生の春、桜坂家は引っ越すことになった。

まだ納得いかない龍一は腕を組み、ぷいっと外を眺めていた。

見たこともない道路を走り、周囲が草だらけの場所に出ると、ポツリとたたずむアパートがあった。

松田マンションと建物に大きく黒で書かれており、入っている件数は6件。駐車場の雑草は伸び放題だったが、新築なのだ。つまりここが龍一の姉、純子の旦那が建てたアパートである。


荷物を運び始めても龍一は不機嫌だったのだが『ここがあんたの部屋だよ』と言われた場所は、一人部屋だった。龍一には大きすぎる5畳の部屋だったが、学習机とベッドが入ったらさほど大きな部屋とも感じなくなったのだが、すっかり自分の部屋が気に入ってしまい龍一は、引っ越し反対派だったことを忘れてしまった。


新しい学校へ行くことになった龍一の朝は7時起き。


しっかりと食べる龍一は半熟の目玉焼きと暖かいご飯がお気に入り。毎日食べても飽きないほど好きだった、そしてお茶だ、彼は幼少期の頃からお茶で育ったので、三年生になってもお茶がないとご飯が食べられない身体だったのだ、慣れとは恐ろしい。だから給食が苦手だった、お茶がないから。


父親の康平が休みだったので送っていくことになった。


母親の喜美、姉の純子と一緒に。水無月町にある北乃日吉小学校に到着して車を降りて見上げると、巴乃小学校とは似ても似つかぬ近代的な校舎に口が開きっぱなしになった。『くち閉じなさい!』と言いながら後頭部を康平にはたかれた。色々と龍一にはわからない手続きをダラダラと続け、いよいよ教室に行くことになったのだが、入口で龍一は背中を押されて一人、教室に入れられただけだった。担任の教師 狩野博子(かの ひろこ)先生が近づいてきて龍一の背中に手を置きながら前に押して歩かせた。


『みなさん、今日からお友達になる 桜坂 龍一くんです、仲良くね』


『よろしくおねがいしまーす』


『龍一君あいさつは?』


『・・・・まーす』


『聞こえませーん!』


『・・・・ます・・・』


『先生聞こえませーん』


『いいからいいから、はい龍一君の席はこっちね』


案内された席に座ると不安で不安でたまらなくなった、泣きそうになる気持ちを内ももをつねることで耐える。給食の時間になると、龍一が苦手な玉ねぎのスライスサラダが出てきた。嘔吐をしてしまうほど苦手なタマネギが初日で出てしまうとはついてない。加えてこの学校では給食を残すことは基本的に許されない、そしてこのクラスは何でも班で責任を負うシステムで、給食を残すと言う事は班全員が居残りとなるのだった。転校初日にタマネギに出くわし、転校初日に班のクラスメイトに連帯責任を負わせてしまうことになった龍一。どうしても食べられない龍一に班のクラスメイトは聞こえるように舌打ちをし、あからさまなため息をつく。それもそのはず、小学生の昼休みはみんなと遊べる最高に楽しい時間、それを龍一一人のせいで4人が椅子から離れられない、無情にも昼休み終了を知らせるベルが鳴る・・・・『こいつのせいだ!』と明らかに龍一を罵る声がした。昼休みが終わるといわゆる居残りは終了する。


とても嫌な気持ちで5時間目を受ける。


龍一にとっては長い長い約5時間が終わり、ホームルームの後下校となった。


龍一が靴を履き替えようとすると、お尻に衝撃が走った、驚いて振り向くとグーで顔を殴られた。ふらつきながら見ると、班の一人が立っていた。もう3人がやってきて龍一を取り囲み、突き飛ばして転ばせてから何度も何度も殴られ、蹴られ、踏みつけられた。中靴を奪われ、玄関横の少し先にあるドブ川に捨てられ、取ってきたら許すと言われた。


流れの緩い川だったのでまだ靴が浮いているのが見えた、深さもなさそうなのでランドセルを置いて急いでドブ川に入った、これで許してもらえると思ったからだ。入ってみると胸まで沈み、殆どヘドロで泥まみれになった。なんとか身体をよじって捻じって歩を進め、靴を手にした。


龍一が振り向いて『取ったよ!』と言うと、ランドセルを川に放り投げられ、今日貰ったばかりの教科書がずぶぬれになって川に流れ出した。『バーカ!もうくんな!』そう罵声を浴びせると、同じ班の4人は逃げて行った。流れ出した教科書とノートを全部拾ってランドセルに入れた龍一。川を上がり、トボトボと歩き出した。


靴がグチョグチョと気味の悪い音を立てる。


首から下が泥だらけだった、この街の4月はまだ寒い。

風が吹くと身が切れそうになり凍えるような冷たさを全身に感じた。途中まで歩くと、帰り道が分からなくなっていた。それもそのはず今日は転校初日で康平の運転で学校に行ったのだ、一度も歩いていない龍一が歩いて帰れるはずがない。寒くてもう歩けない、迷子になった恐怖感、そして今日受けたいじめ、龍一は我慢の限界を迎え、声を張り上げて泣き出してしまった。

泣いても泣いても誰も来てくれない、不安で、怖くて、闇雲に歩き回ってやっとたどり着いた公園は、朝に見覚えがあった景色だった。龍一の記憶が全部繋がり、なんとか家に辿り着く事が出来た。


もうすっかり暗くなっていた。


嬉しくて嬉しくて『ただいまー!』と元気に声を張り上げて、何でもないふりして玄関の扉を開けた。仁王立ちしていた母親にいきなりビンタされ、壁に叩きつけられてそのまま床に転んだ。『転校初日になに遊んで歩いてるの!何時だと思ってるの!バガでないのかい!』


何か言おうとする龍一の泥だらけの恰好を見て、頭に来た喜美は『こんなに汚して!!!!』と怒鳴ると、思いっきり張り手を何度も何度も身体のあちこちに叩き下ろした。バンバンと布団たたきの様な音が鳴り響く玄関。喜美は理由も聞かず、ただただ龍一を殴り続けた。


彼は黙って殴り終わるのを堪えた、いや、痛みすら感じていなかった、もう既にスイッチを切っていたのだ、今日一日でとてつもない傷を心に負ってしまった彼が、せめてこれ以上傷付かない為の自己防衛だった。無になることで全部を忘れようとした、心の痛みも、身体の痛みも、誰にもわかってもらえない悲しみも。


龍一には今日、流す涙は残っていなかった。


ただ、殴るのは耐えていれば終わる、その希望だけは忘れずに持っていた。

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