家族同然のメイドが難病を患ったので全財産はたいて薬を買う

ランド

家族同然のメイドが難病を患ったので全財産はたいて薬を買う

 ワイングラスを手に取り、貴族にも引けを取らぬような作法で上品に飲む。

 国でも一、二を争う大商人としての、当然の嗜みだ。

 そのまま、静かにグラスから口を外し……。


 ――ダン!


 力任せに机にぶつけた。


「うぐっ、ぐすん……」


 机に突っ伏し、声をあげて涙を流す。

 大の大人が何をやっているんだと思うかもしれない。

 だが、今回ばかりは我慢できない。

 結婚まで考え、二万金貨以上もの金を貢いだ女に裏切られたのだ。

 そりゃあ、涙だって出るさ。


「ご主人様。これ以上飲まれますと、お体に障りますよ」

「ん? ああ、カランテか。お前も一緒に飲もうぜ」

「いえ、ですから……」

「……というか、いい加減敬語はやめてくれないか? 俺たちは、家族・・なんだ」

「いえ。ご主人様はご主人様です」

「…………」


 こういうところ、融通が利かねえんだよ、こいつは。

 まったく、俺がいいって言ってんだから、敬語なんか使わなくたっていいのに。

 しかも、この間メイド長に任命してから、さらに固くなりやがった。


「まあでも、そろそろ終わりにするか」

「ご主人様、後片付けは私たちが致しますので、グラスを降ろしてください」

「いや、このくらいなら、俺にもできる。俺がやる」

「……ボタン様がやると、この家にあるお皿がすべて駄目になってしまいます。どうか、降ろしてください」

「カランテは、俺のことを何だと思ってんの!?」


 確かに、確かに、俺は超が付くほどの不器用だ。

 それでも、グラスくらいなら洗える……はず……。


「あの、何でもないです。すみません、お願いします」

「かしこまりました。ベッドの準備は既に済ませておりますので、今日は早めにお休みになられてはいかがですか?」

「いや、まだ仕事が残ってるから……」

「事情は存じ上げませんが、大層疲れたようにお見受けします。お休みになられてください」

「でも……」

「お休みになられてください」

「はい……」


 結局、いつもこの圧で抑え込まれるんだよな。

 普段なら、どんな客からの圧だろうとまとめて跳ね返してやるが、カランテにはどうも弱いんだよ。

 まあ、カランテが俺のことを考えていってるからなんだろうけど。


 ベッドに潜り、俺をだました女のことを考え続ける。

 割と本気で好きだったから、なおさらショックが大きい。

 眼が眩むような額をはたいて指輪まで買った後だったんだぞ、この野郎。


「結局渡せなかったけど」


 大きな宝石が窓から入る薄明かりに照らされる。

 彼女の瞳と同じ色の宝石を眺めていると、若干の涙が滲んできた。

 ……くそ、まだ未練たらたらじゃねえか、俺。


 ……はぁ、寝よ。

 明日の商談は少し面倒な相手とだしな。

 指輪を枕元の机に置き、重くなりだした瞼をゆっくりと閉じる。

 なに、明日にはあのくそ女の事なんざ忘れてるさ……。




 …………。

 力なくふらふらと自宅までの道をたどり、先程のことを思い返す。

 今日はナーシサスというこの辺りでは悪い方で名前が売れている貴族との商談だったのだが、昨日明け方まで眠りにつけなかったことが祟り、いくつものミスを犯してしまったうえ、それをネタに法外な値段を吹っ掛けられてしまった。

 自業自得といえばそれまでだが、今回は相手が悪すぎる。

 この件は、あと数年は強請りのネタにされてしまう。


 ちくしょう、本当にやばいぞ。

 あいつに弱みを見せたら、まじで何をされるかわからん。

 奴隷商で買った奴隷をぼろぼろになるまで扱き使い、働けなくなったら魔獣の餌にしているとまで言われている男だぞ?

 こういう立場でなければ、今すぐにでもどこか遠い国の田舎でやり直したいくらいだ。


「お帰りなさいませ、ご主人様」

「ただいま、カランテ」


 なるべく笑顔を浮かべようとしたのだが、声に疲れが滲んでしまったのだろう。

 カランテが心配そうな顔で、


「ご主人様、どうかなさったのですか?」

「ん? いや、何でもないよ。少し取引で失敗してしまっただけさ」

「そうですか……」

「いや、本当に何でもないよ。俺の財力の前では、どんな問題だって塵も同然さ」


 そう、俺は国一の大商人なんだ。

 発言の影響だって、その辺の貴族以上にある。

 ……まあ、それをやるような度胸はないが。

 それにいち早く気付きやがったナーシサスは、事あるごとに俺を半分脅し気味で頼ってくるのだ。

 それを断れない俺も俺だが。


「すまんが、夕食の用意をしてくれないか? ナーシサスの家のものなんか口に入れたくなくて、何も食べてないんだ。あんなのよりも、カランテの飯の方が百倍はおいしい」

「……。今後とも精進いたします」


 カランテの料理は程よい味加減で、俺好みの味なんだよな。

 貴族連中の食べる、見た目だけ豪華で味がやたらと薄い料理は体が受け付けない。


「ん? カランテ、大丈夫か?」

「はい、どうかされましたか?」

「……いや、何でもない。気のせいだ」


 今一瞬、カランテがよろけたように見えたんだがな。




「ご主人様、お食事の用意ができました」

「おお、ありがとう」


 手に持っていた書類を置き、すぐさまカランテの後を追う。

 うん、ここからでもいい匂いが漂ってくるな。

 この感じだと、今日はステーキっぽいな。

 流石カランテ、俺の大好物をちゃんと把握してくれている。

 まあ、食べたいものを聞かれた時に毎度毎度答えていれば、いやでも覚えるわな。


「本日は、良質な熊の肉のステーキの方をご用意させていただきました。お口に合わないようでしたら……」

「大丈夫大丈夫、口に入れば何でもうまく食べられるんだから。それじゃ、いただきまーす!!」




 ふぅ、結構食べたな。

 臭み消しの香辛料もうまい具合に調整してあったし、結構がつがつ食べられた。

 添えてある野菜にも味がしみ込んでいて、俺好みだった。

 やっぱり、カランテの料理は最高だ。


「なあ、今日も皿洗ったらだめなのか?」

「だめです」

「えー、少しくらい練習しねえと、いつまでたっても上手にならねえじゃねえか」

「……ご主人様って、全然お金持ちに見えませんね」

「え?」

「普通、こういった仕事を自らやろうとするお金持ちなんていませんよ」


 良かった、そういう意味か。

 全然威厳のない主人に見られてるのかと思ってひやひやしてしまった。


「まあ、俺は元々平民の生まれだからな」

「そうだったんですか!?」

「ああ。手元にあった金を元手に少し商売をしてみたら、それが案外儲かってな。まあ、いわゆる成金ってやつだ」


 ……うん、大体あってる。


「さて、まだまだ仕事も残ってるし、もう部屋に戻っとくわ」

「承知しました。ベッドの用意がまだ済んでいませんので、後程メイドを向かわせます」

「いや、俺がやっとく」

「だめです」

「主人命令だ。お前たちは休んでおきなさい」


 あんまり働かせすぎて体を壊されては、元も子もない。

 俺自身が働くということを嫌う性分だし、雇っている奴らには極力休んでてもらいたいんだよな。

 というか、五年くらいなら出勤しなくても給料払えると思う。

 金なら腐るほどあるんだから、みんなには少しでも楽かつ不自由のない生活を送らせてあげたい。




 ……………………。

 書類の山の整理も終わったし、あとは署名をするだけか。

 ……まあ、確実に百枚以上はあるが。


 何でも先送りにしてしまうのは、俺の悪い癖だな。

 気づけば、こんなに仕事が溜まっていた。

 あれだ、学校で宿題が出されたときなんかに、締め切りギリギリまで手を付けない現象と同じだ。

 ま、俺は学校に行ったことがないからわからないけど。


 そんなことを考えながら、ひたすらに羽ペンを走らせていた時、ノックもなしに扉が突然開かれた。


「旦那様!!」


 扉の先には、この間雇ったばかりのメイドが立っていた。

 しかし、明らかに様子がおかしい。

 息を切らせており、顔からは血の気が失せている。


「どうかしたか!?」

「カランテ様が、カランテ様が……」


 カランテ!?


「……なにがあったか、落ち着いて説明してくれ」

「えっと、あの、その、先程まで、私たちと家事の方をしていたのですが、その途中で突然倒れてしまい……」

「倒れた!? 場所は!?」

「あの、台所です……」


 その言葉を聞き終わるか終わらないかの内に、俺は台所までの道を駆けだした。




「カランテ! カランテはどこだ!?」


 扉をけ破り、中の様子を確認する。


「あ、旦那様! カランテ様は、あちらのソファに横になって頂いておりますが……」

「容態はどんな感じだ!?」

「先ほど倒れたっきり、意識が回復されておりません。ただ、旦那様……、高熱が出ているため、疫病の可能性もあります。ですので、あまり近づかないほうがよろしいかと……」

「構わん! お前たちは、至急馬車の用意をしろ!! 知り合いの医者の所へ運ぶ。俺のことはいいから、お前たちの方こそ近づくんじゃないぞ!」


 この辺りの医者は信用ならんからな。

 貴族連中に毒されているせいで、ろくでもない考えを持っている奴が多い。

 今から会う奴もクズには違いないが、あいつらよりかはましだ。


「旦那様、馬車の用意が済みました」

「ご苦労様。もう今日は全員休んでいなさい」


 カランテを担ぎ、席にそっと寝かせる。

 夜間の運転は初めてだが、そんなことを言ってる場合ではない。

 なるべく振動の少ない道を通ってやらなきゃだな。




「ヘリコニア!!」


 錆びついたドアを開き、大声で奴に呼び掛ける。


「うるせえぞ、今何時だと思ってんだ!? ……って、ボタンじゃないか。いつぶりだよ! どうかしたのか?」

「うちのメイドが倒れた。診てやってくれ」


 馬車から静かにカランテを降ろし、ヘリコニアのところまで運ぶ。


「……こいつって、俺が昔治療してやった奴か?」

「ああ、そうだ」

「そうか、そうか……。うん、ずいぶんと見違えたな。大事に育てられている」

「おい、そんな悠長なこと言ってる場合じゃないんだって! お願いだから、早く診てやってくれ!」

「はいはい、分かりましたよっと」


 手際よくカランテをベッドの上に寝かせ、ヘリコニアは診察を始めた。

 しかし、診察しているヘリコニアの表情は次第に曇っていった。


「おい、ボタン。今貯金はどれくらいある?」

「え、なんだよ急に」

「いいから、早く答えろ!!」


 えーっと……。


「大体、二十万金貨くらいだと思う」

「クソッ、たったそれだけか! お前、国一の大商人とか言われてるんなら、百万金貨くらい持っとけよ!!」

「はあ!? ちょ、どういうことだよ!!」

「とりあえず診察は終わった。この子がかかっている病気は『フェアリー病』というものだ。症例が極端に少ないうえ、治療法が困難な病気の一つだ」

「困難……ってことは、治る可能性はあるのか!?」

「そこが問題なんだよ」


 悔しそうに歯を食いしばり、ヘリコニアはこの恐ろしい病気の詳細を語りだした。


「フェアリー症というのは、初期段階では単に目眩や吐き気を起こすだけなんだ。だが、症状が進むにつれ、高熱、嘔吐、吐血など……様々な症状を発症し、やがて死に至る病なんだ」


 死……。


「昔は、妖精に魂を取られたなんて言うバカげた考えが広まっていてな。その影響で、未だにフェアリー病と呼ばれているんだ」

「由来とかはいいから、治療法について教えてくれよ!!」


 元が教授だか何だか知らないが、こんな時は勘弁してくれ。


「薬だ」


「薬だけで直るのか! 良かった……」

「馬鹿、よかねえよ。俺が言いたいのは、その薬が問題だってことなんだ。薬の原料に使う素材というのがまた特殊なんだ……」

「原料?」


「『月桂の蜜』という代物でな。裏市場で取引されているものなんだ」


 月桂の蜜……。

 様々な商品を扱っている俺でも聞いたことがないぞ。


「現在の取引価格が三十万金貨。お前の貯金額をはるかに上回っている」

「はあ!?」

「これは本来、貴族や王族どもが自分の権力を象徴するために買っているんだ。それを市民が手に入れようとすれば、値が張るのも当たり前……という事らしい」


 ……またくそ野郎どもか。

 俺はいったい、あいつらのせいで何度苦しまなくてはならないんだ!?


「……どうにか治せたりしないのか?」

「無理だ。俺がどうあがいても、症状を緩和してやることしかできん。それでも、もって一か月と考えたほうが良い」


 一か月。

 ……。


「わかった。俺の持ってるものをすべて売れば、残りの十万金貨くらいにはなるはずだ。俺がそれを買い取ったら……頼むぞ」

「ああ。……にしても、お前もよくそこまでやるな」


「そりゃあ、こいつは俺のたった一人の家族なんだから」


 あの時・・・から見てくれていたヘリコニアなら、俺の言葉の真意もわかったはずだ。

 今は、一分一秒が惜しい。

 まずは、屋敷に帰らなくては。




 書斎にこもり、家の中にある物の計算をする。

 コネを使って少し高めに売れたとして、ギリギリ十五万金貨に届くか届かないかくらいだ。

 あのくそ女に使った金が惜しい。

 ……指輪は……もちろん売るが……。

 ……うん、これを売れば、二十万金貨に届きそうだな。

 だまされた女なんかよりも、家族が一番に決まっているだろう。

 ……しばらく、メイドたちに暇を出さなきゃだな。




 ――これで最後か。

 もともと狭くはない家だが、物がなくなると、さらに広く感じるな。

 にしても、売るだけで一週間もかかってしまうとは、予想外だった。

 こっちは、もう時間がないのに。

 だが、貯金含め、これで三十万金貨に達した。

 あとは、裏市場にまで行くだけだ……。


 本来であれば、行くだけでも処罰対象である、裏市場。

 でも、背に腹は代えられない。

 あいつのためと思えば、簡単なことだ。

 馬車も売り払ってしまったが、ここからなら徒歩で行けるはずだ。

 ……ヘリコニア、後は頼む。




 血と泥と汗のにおいが渦巻いている。

 王都からほんの少し離れただけで、こんなにも変わるのか……。

 俺が知っている環境の中では、ダントツで悪いな。

 とりあえず、この案内所とやらにでも聞くか。


「すまんな、主人。月桂の……」

「客人。そう容易にその名前を出しなさんな。……目的の品のところまでは、俺が案内してやろう」


 そういうと、案内所の主人は億劫そうに立ち上がった。


 ……。

 月桂の蜜、そんなにヤバい代物なのか。

 まあ、取引にこれだけ多額の金が動くという時点で、想像はしていたが……。

 とりあえずは、この人についていくしかないか。




「ほら、この店だ」


 あまりの風貌に、生唾を飲み込んでしまう。

 周りの汚らしい雰囲気とは違い、ここだけは清潔感が漂っている。

 あまりにも、異質。

 ……だが、入らないわけにもいかない。

 扉をゆっくりと開き、中の様子をうかがう。


「いらっしゃいませ。どのような商品をお求めで?」


 王都の店と遜色ないような装飾が施されている店内に若干の驚きと恐怖を感じつつ、俺は静かに店主のほうへ近づく。

 幸い、ほかに客はいないようだ。

 これなら、名前を言っても大丈夫だろう。


「申し訳ない。月桂の蜜をくれないだろうか」


 そう告げると、店主は悩むような素振りを見せ、


「少々お待ちください」


 それだけ言い、店の奥へと消えていった。




 ……………………。

 手元にある小切手を握りつぶし、ゆっくりと川沿いの道を辿る。

 こんなことがあっていいのだろうか……。


 月桂の蜜はすべて売れていた。


 元々の希少さ故、普段から在庫はそれほどないそうだ。

 しかも、次に入荷するのは今日から数えてちょうど一か月後。

 その頃にカランテが生きている保証はない。


 あまりにも酷過ぎる。

 俺は、どこかで選択を間違えてしまったのだろうか。

 どうして、こんな苛烈な運命の中で生きなければならないのだろうか。

 ……とりあえず、ヘリコニアのところに行くか。




「――ということだ。もう、月桂の蜜は手に入らない」

「……そうか」


 …………。


「ヘリコニア、カランテはどこにいるんだ?」

「奥のベッドで休ませている。薬で症状自体は軽くなったようだが、明らかに衰弱してきている」

「そうか……」

「「…………」」


 互いの間に、何とも言えない沈黙が広がる。

 それは数分の間続いたが、遂にヘリコニアが口を開いた。


「……ボタン。俺はいまだに覚えているぞ」

「何をだ?」

「お前が、カランテをここに連れてきた日だ。多分、一生忘れられないと思う」

「そう、か……」


 俺だって、忘れられないさ。


 カランテは、元々奴隷だった。

 取引相手の誘いで渋々行った奴隷市場の檻の一つ。

 その中に、カランテはいた。


 全身に切り傷ややけどの跡があり、あまりにも痛々しい姿であった。

 髪はぼさぼさ、衛生環境は最悪。

 その目からは、全く生気を感じなかった。


 俺は内心で激高していた。

 未だに、このような非人道的なことがまかり通っているのかと。


 俺は速攻で有り金をはたいて、カランテを買い取った。

 その頃は、というか未だにだが、奴隷を診察しないという医者も多いのだ。

 そのため、昔から懇意にしてもらっているヘリコニアのところまで運んだ。

 ヘリコニアの必死の看病のおかげで、今ではこんなに元気になっていた……というのに……。


「……ボタン」

「どうした?」

「俺はな、カランテをどうしても助けたいんだ」

「それは」

「ああ、分かってる。お前の方が気持ちが強いことも。……これは、俺なりに動いた結果だ。これをどうするかなんてのは、お前の自由だ」


 そう言って、ヘリコニアはこちらに一枚の紙を渡してきた。


「なんだ、これ?」

「月桂の蜜を購入したことのある奴をリストアップしてきた。俺に蜜を購入するほどの金はなかったからな。……この仕事をしていると、いろんな情報が手に入るんだよ」

「ヘリコニア……」

「俺ができることはもう、カランテを治す準備だけだ。それ以外のことはすべて、お前次第だ」

「……ああ。ありがとうな」


 ……腐っても俺は商人だ。

 伝手やコネを使えば、こいつら全員に会うことだって可能……なはずだ。

 それに、取引は俺の得意分野だ。

 リストを大事にポケットの中へ入れ、大急ぎで家までの道を辿った。




 それから俺は、あらゆる手段を用いてリストにある人物との接触を図った。


「リアトリス家もダメか……」


 これで八件目……。

 リストに書いてあったのは九人。

 ……あと一人か…………。

 とすると……。


「いやだな……」


 最後に残ったのは、ナーシサス家だ。

 というか、わざと一番最後に回してたんだけどな……。

 前にも話したが、俺はあいつからかなり嫌がらせをされている。

 なんなら、奴隷市場に連れていきやがったのもあいつだ。

 まあ、その奴隷市場に行かなきゃ、カランテとは出会えなかったのだが。

 ……そう考えると、少し複雑だな。




「これはこれは、ボタン殿。今日はどういったご用件ですかな?」


 使用人に通された部屋で待っていると、太った腹を揺らしながらようやくナーシサスが入ってきた。

 相変わらずの胡散臭い笑顔だな。


「この度は、突然押しかけてしまって申し訳ございません。しかし、火急のようでしたので……」

「御託はいらん。貴様と違って儂は忙しいのだ」


 こっちだって時間ねえんだよ、馬鹿野郎。


「では、さっそく本題に移らせていただきます。……ナーシサス様。どうか、月桂の蜜を譲ってはいただけませんか?」

「!?」


 俺は今まで、違法な取引というのをしてこなかった。

 ……いや、正確には、こいつとはしたことがなかった。

 これ以上弱みを握られたくなかったからな。

 だからこそ、俺の口からこのような単語が出てくることは、少なくともナーシサスにとって異常事態なのだ。


「くっくっく、貴様もやはり人間だな。そうか、それほどまでに権力を表したいのか」

「…………」

「堅実な奴だと思っていたのだが、意外だったな。よし、気に入った。儂の言い値でよいのであれば、貴様に譲ってやらんでもない」

「本当ですか!?」


 良かった、これでカランテを救える……!

 ナーシサスが勘違いをしてくれて助かった。


「ああ、当然だとも。では、値段の方を決めさせていただこう」


 そう言ってナーシサスは、しばらくの間考えるような素振りを見せ、


「よし、決めた」


 …………。

 ゴクリとつばを飲み込む。

 今までは、月桂の蜜の名前を出しただけで門前払いだった。

 でも、ようやく蜜が手に入る。

 ようやく、ようやく……。


「五十万金貨で貴様に譲ってやろうではないか!!」


 ごっ……!?


「どうした? まさか、払えんというのではないだろうな?」

「……少し、考えさせてください…………」

「……よかろう。いくらでも待ってやる。良い返事を待っておるぞ」




 グニャグニャと世界が歪んで見える。

 どうして、この世界は俺に優しくないのだろうか。

 今までは、どんな理不尽にも、なにくそと抗ってきた。

 だが、抗っても、抗っても……。

 ……俺はまだ苦しまなくてはならないのだろうか。


 唯一資産として残っている家も、手放すべきだろう。

 本当は、あれを元手にもう一度商売をしようと思っていたんだけどな……。

 だが、家を売ったところでよくて十万金貨程度だろう。


 …………保険って、どのくらいかけてたっけ。

 いっそのこと……。


「おい、ボタン!!」


 突然、後ろから肩を掴まれる。


「……ヘリコニアか。どうかしたのか?」

「それはこっちの台詞だ!! お前今、なにしようとしてた!?」

「え?」


 その言葉で、ようやく気が付いた。

 半身が橋の手摺から飛び出し、飛び降りる寸前まで行っていた。


「ひっ……!!」


 腰が抜け、地面に強くしりもちをついてしまう。

 なんでこんなとこに……。


「やっぱ意識なかったか。……とりあえず、家に来い」

「あ、ああ。ありがとう……」




 ヘリコニアに支えてもらいながら、何とかヘリコニアの病院にたどり着いた。

 その瞬間に気が抜けたのか、自然と涙が流れてしまった。

 ヘリコニアは、何も言わずに静かに背中をさすってくれた。


 それから数十分が経ち、俺も大分落ち着いてきた時。


「なあ、カランテと話してこないか? 意識もはっきりしてきてるし……な? どうだ?」


 カランテと、話せる…………?

 ……せめて、最期にってことか……?


「ほら、肩かしてやるから。こっちに来い」




「あ、ボタン様……」


 ヘリコニアに連れていかれた部屋の中には、普段と変わりないカランテの姿があった。


「カランテ……カランテ………………!!」

「ど、どうされたのですか!?」


 俺は再び大号泣しながら、カランテを抱きしめていた。


「ごめんな、ごめんな……。俺じゃあ、お前を治せそうもないんだ……。ごめん。本当にごめん……」

「…………」


 泣きながら、嗚咽を漏らしながら、ただひたすらに謝り続ける。

 寂しさ、申し訳なさ、悔しさ、もどかしさでいっぱいになった心を吐き出すように。


 すると突然、頭部にひんやりとした感覚が通った。


「ボタン様。私は大丈夫です。……ですから、泣かないでください」


 優しく、やさしく、ゆっくりと頭を撫でてくれる感触に、不思議な安堵感を覚える。

 それと同時に、カランテの腕にほとんど力が入っていないことにも気づいてしまう。


「カランテ……」


「あの日の事、覚えてらっしゃいますか? ……私が、檻の中にいた時のことです。奇異、好奇心、忌避。様々な視線に晒される生活は、まだ幼かった私には非常に辛かったです。……非常に馬鹿げていて、愚かしいことを考えてしまう程に。……でも、あの日、あの時、ボタン様が私を救ってくださったんです。檻の中でしか生きてこなかった私を、外の世界へ連れて行って下さったんです。新鮮で、楽しく、面白く、それはもう私の身に余るような幸せを、ボタン様からはたくさんいただきました。……あのまま檻の中で一生を過ごしていれば、この歳まで生きることはできなかったでしょう。ボタン様は、私に命までくださったんです。一度は人生を諦めた、私にです。……もう、十分ですから。ボタン様からは、本当にたくさんのものをいただきましたから。……ですから、もう泣かないでください」


 ゆっくりと、静かに。

 穏やかな口調で、子供に言い聞かせるような口調で。

 心の底から幸せそうな声で告げた、その言葉。


「……………………カランテ」

「……どうされましたか?」


 ゆっくりと立ち上がり、扉の方へ歩を進める。


 ごめん、カランテ。

 俺はまだどこかで甘い考えを捨てきれていなかったみたいだ。

 ……でも。


「少し待ってろ。すぐにお前を治してやるから」


 涙を拭い、にっと笑みを浮かべる。


 覚悟はできている。

 もう、迷う時間もない。


 急ぎ足で病室から出て、すぐにヘリコニアを探す。


「おい、ヘリコニア!」

「……話は済んだのか?」

「そんなことより、ちょっとだけ待っててくれ。月桂の蜜、買ってくるから!!」

「は!? おま、えっ!? どういうことだよ!?」

「いいから!! じゃ、行ってくる。……カランテのこと、よろしくな」


 それだけ告げて、俺は全力で走りだす。

 きっと、これが俺に残された最期の希望なのだろう。

 ……上手くいくだろうか。

 いや、上手くいかせてみせる。

 これから会う相手のことを考えると、正直武者震いしてしまう。

 だが、俺はカランテのためなら命だって懸ける覚悟だ。

 あいつと俺は、家族だ。

 ……家族なんだ。




 息を整え、城門の前で大きく声を張り上げる。


「頼もう! 我が名はボタン・エーデルワイス! 国王陛下・・・・に要件がある! 至急、取り次ぎを願いたい!!」


 俺の呼びかけに、門番たちは小さく頷きあい、ゆっくりと城門を開けた。

 呼吸を再び整え、気持ちを落ち着かせながら、俺は門を通り抜けた。


 国王陛下。

 議会を見学に行った時に数度見かけただけではあるが、こうして私的に会うのは初めてだ。

 国内外で冷酷無比な方と噂されているが、本当にそうだと思わせてしまうような雰囲気を出している。

 だからこそ、怖いのだ。

 俺がこれから頼むこと。

 それが断られてしまえば、希望はついえる。

 それだけでなく、噂通りの方であれば、俺は死罪にされる可能性もある。

 ナーシサスなんかに会うのよりも百倍は怖い。




「ボタン殿。陛下はこちらにいらっしゃいます。大丈夫とは思いますが、くれぐれも、無礼のないようお願いいたします」

「はい、承知いたしました」


 国王専属の執事に案内してもらい、ようやく玉座の間にたどり着いた。

 …………緊張する。


「陛下、ボタン殿がお見えです!」


「通せ」


 扉の向こうから、冷淡な声が響いた。

 ゴクリとつばを飲み込む。

 緊張感が漂う空気の中、執事が厳かに扉を開いた――




「久しいな、ボタン」


 声と雰囲気の威圧感に息が詰まってしまう。

 失礼のないよう、失礼のないよう……。


「陛下におかれましても、ご壮健のようで……」

「挨拶など要らん。要件だけ述べよ」


 要件……。

 死罪が脳裏をよぎり、口に出すことを一瞬ためらってしまう。

 カランテのため、ということを考えろ……!


「無理を承知でお願いしたいことがございます。……陛下。私に、金銭の方をお貸しいただけませんか?」


 今までよりも一層冷ややかな視線が、俺を貫く。

 そのまま数秒が経過し、国王はゆっくりと口を開いた。


「いくらだ?」


 ……まじか。

 正直、ここまでうまくいくとは思わなかった。

 だが、問題はここからだ。

 額から嫌な汗が噴き出る。


「じゅ、十万金貨でございます」


 それを聞いた瞬間、国王は大きく目を見開いたが、すぐにいつもの鋭い目つきに変わった。

 ……怖い。

 沈黙が続いているのが本当に怖い。

 死罪を求刑されたら、俺はどうしようか。

 カランテを助けられなかったら……。


「ボタン、ちょっとこっちに来なさい」


 びくりと体が震える。

 怖いが、命令に背くわけにもいかないだろう。


「はい、すぐに……!」


 ガタガタと震える体を無理矢理にでも動かし、国王の元へ急ぐ。


「ボタン。これを貴殿に渡そう。……売れば、少しの金にはなるはずだ」


 そう言って、国王は自分の指についている指輪を俺に……!?


「貴殿からそのような申し出があるということは、切羽詰まった事なのであろう。詳しくは聞かないでおく。それを私に返す必要もない。いいな?」


 ……っ!!


「ありがとうございます!!」

「ほら、早く行きなさい。トラブルなら、なるべく早く解決しておいたほうが良い」


 もう一度深々と頭を下げ、俺は玉座の間から駆け出した。




「――急な取引になって本当に申し訳ない」

「いえいえ、ボタン様にはいつもお世話になっておりますから。ボタン様との取引ともなれば、すぐに駆けつけますよ」


 手広く商売を行っていた甲斐があったな。

 宝石商なんかも少し行っていたから、すぐにひいきの商人に話をつけることができた。

 てか、ストレリチアの世話になるのは、例の婚約指輪を売った時以来だな。

 ……嫌なことを思い出しちまった。


「これを売りたいんだが、どうだ?」

「少々お待ちくださいね……」


 専用の器具か何かを取り出し、じっくりと鑑定を始めた……のだが……。


「……ボタン殿、こんな代物、どこで手に入れたのですか!?」

「あー、いや、なに、取引の一環で手に入ってだな……」


 流石に国王から譲り受けたものをそのまま売っているなんて言えるはずもないしな。


「こんなに精巧な宝石と装飾の施された指輪なんて、そうそうありませんよ!? ……売らないほうが良いと思いますが……」

「いや、絶対に売る。というか、お願いだから買ってくれ!!」

「そ、そうですか……。でしたら、お値段の方出させていただきます」


 ストレリチアはしばらく考えた後、


「十五万金貨でいかがでしょうか?」


 さらっと値段を告げた。


「じゅっ、十五万金貨もか!?」

「そりゃ、これだけ素晴らしい品でしたら、このくらいが妥当でしょう」

 「そ、そうだが……。本当にいいのか!?」

「はい、もちろんでございます。それでは、こちらの契約書にサインをお願いします」


 これで、四十五万金貨……!!




 来る運命の日。

 俺は再び、ナーシサスの屋敷を訪れていた。


「さて、ボタン殿。先日の返事、聞かせていただこうではないか」

「どうぞ、こちらをお納めください」


 懐から小切手を出し、ナーシサスに堂々と見せつける。

 すると、見る見るうちにナーシサスの顔が気色の悪い笑みに覆われた。


「さすがはボタン殿。信じておったぞ」


 嘘つけ。

 どうせ、無理な取引内容でも告げて断ろうとしてたんだろうが。

 あとは本当にヘリコニアに任せるだけになったな。

 良かった、本当に良かった……!


「これが、月桂の蜜だ。ほら、誰かに見つかる前に早く持っていけ」


 ナーシサスが取り出したのは、小さな小瓶。

 中をよく見ると、鮮やかな黄色の粘性の高そうな液体が入っている。


「この量で五十万金貨……」

「そうだ。だからこそ、我々貴族は揃いもそろって買っておるのだよ」


 相場よりも高くしておいて、よく言うぜ。


「よい取引であったぞ、ボタン殿。また次に機会があれば、頼むぞ?」

「ええ、もちろんでございます」




 小瓶を手に持ち、慎重に、大急ぎでヘリコニアのとこまで走る。

 カランテを、治せる。

 あの時、飛び降りていたら、こんなハッピーエンドも迎えられなかっただろう。

 それもすべて、ヘリコニアのおかげだよな……。

 全身全霊でお礼をしなくちゃだな!

 でも、まずは……!


「ヘリコニア! ヘリコニア!!」

「ん? あ、ああ、ボタンか……」


「月桂の蜜が手に入ったぞ!!」


 一瞬の間が開く。

 その直後、ヘリコニアが目じりに涙を浮かべながら、


「本当か!? 本当に、本当に手に入ったのか!?」

「ああ。ほら、この通りだ」


 慎重に小瓶を取り出し、ヘリコニアに手渡しする。


「…………ちょっと待っててくれ」

「ん? どうかしたのか?」

「いや、なに、勘違いかもしれないから……」


 もごもごと口を動かしながら、ヘリコニアは奥の部屋に入っていった。




 それから数分が経過し、ようやくヘリコニアが部屋から出てきた。


「ボタン、これ、どこから買い取ってきた?」

「ナーシサスのとこからだけど……」

「くそっ、あのタヌキジジイ、やりやがった!! ちくしょう……!!」


 涙をぽろぽろとこぼしながら、そのまま床に突っ伏した。


「あれ、偽物だったのか……?」

「いや、あれは確かに月桂の蜜だ。……でも、明らかに流通しているよりも量が少ない」

「え……」

「必要な量に半分も満たない量しか入っていなかった。絶対にわざとだ。くそっ、くそっ……!!」


 半分にも満たない……?


「そうか、分かった……」


 病院の扉を開き、スッとそのまま外へ飛び出す。

 向かう先はもちろん、ナーシサスくそやろうの屋敷。

 ……もう、我慢できない。




「ナーシサス! ナーシサスはどこだ!!」


 屋敷の前で大きく声を張り上げる。

 もう、なりふりをかまっていられるような余裕はない!!


「おや、またボタン殿か。どうでしたかな? は作れましたかな?」


 やっぱり確信犯だったか。


「貴様、それをどこで知った!?」

「いやなに、貴殿はよほど部下に恵まれていたようだな。貴殿の元メイドとやらが、どこで情報を手に入れたのか、薬の材料に月桂の蜜を分けてほしいなどと言いおってな。いやはや、私の言う通りに貴殿が動くさまは実に愉快であったぞ? くっはっはっはっ!!」


 まずい、などと思う瞬間も、理由もなかった。


 ――バキ!!


 気づけば、俺の拳がナーシサスの顔面にめり込んでいた。

 そのまま全力で腕をスイングし、ナーシサスの体は地面で二、三度弾んだ。


「き、貴様、誰に手を上げたと……!!」

「もう一発入れられたくなかったら、いっぺん黙れ」


 ひっと小さく悲鳴を上げ、ナーシサスは地面に縮こまった。


「今すぐに、残りの月桂の蜜を出しやがれ。さもないと……!」


 そこまで言って、後ろから羽交い絞めにされた。


「くそっ、離しやがれ!!」

「落ち着いてください、ボタン様!!」


 三人がかりで地面に押し付けられ、指一本すら動かすことができなくなった。


「貴様! 貴様!! 平民の、分際で!! 貴様!!」

「ぐっ、うっ、うぐっ……!」

「ナーシサス様も落ち着いてくださいませ!!」


 腹を蹴られ、足を蹴られ、俺の意識は、だんだんと薄れていった――






 ちくしょう、まただ……!!

 一番助けたい人を助けられない……。

 ちくしょう……!


「ヘリコニア様……?」


 その時、突然後ろから声が響いた。


「カランテ!? 立ち上がって大丈夫なのか!?」

「はい。ヘリコニア様のお薬のおかげで、大分楽になってきました」

「そうか……」

「先ほど、ボタン様の声が聞こえたような気がしたのですが……」

「ああ、ついさっきまでいたよ。すぐに飛び出してしまったけどな」

「そうですか……」


 カランテは悲しそうな顔を浮かべて俯いた。

 そりゃ、そうか。

 ここにいる間に何度か話をしたが、カランテが本当にボタンのことが好きなんだってことがよく伝わってきた。

 せっかく来てたのに顔を合わせてもらえないのが、寂しいんだろうな。


「けほっ、けほっ!!」

「大丈夫か!?」

「は、はい。少し……むせただけですから」

「…………。病室で休んでいなさい。すぐに新しい薬を持ってくるから」

「はい。すみません……」


 小さなその背中を見ながら、再び自責の念に駆られる。


 ごめんな、カランテ。

 俺にもっと技術があれば、新薬を作り出して、助けることだってできたかもしれないのに。

 俺にもっと、力があれば……。


 ……もう、何度も願ってきたことだ。


 ボタンの時は特にそうだ。

 ボタンを助けられなかったのは、今回で初めてではない。

 あいつは元々、普通の家庭で暮らしていた。

 でも、当時流行っていた疫病のせいで、両親が……。

 俺の力で助けてやれたのは、ボタン一人だけだった。

 ボタンの両親が望んだこととはいえ、あの時も、自分の力の無さを何度も呪った。


 ……今回も、ボタンを苦しませてしまう。

 ……カランテを治してやりたい。

 心の底から願っても、救うことはできない。

 分かっていても、やはり願ってしまう。

 医者がやっていいのかはわからない。

 それでも、俺は何度も願う。


 ――神様、どうか、カランテを、ボタンを助けてやってください。


 その時、正面の扉が大きな音を立てて開かれた。


「国王陛下より、伝令です!」

「……どうなさいましたか?」


「ボタン・エーデルワイス殿が、ナーシサス殿への暴行、及び強盗未遂により、王城へ身柄を拘束されました!」


 …………やはり、この世界に神なんてものは存在しないようだ――






 全身がひりひりする。

 くそっ、ナーシサスの野郎、本気で蹴りやがって……。

 骨折こそしなかったものの、全身痣だらけだ。

 くそっ、くそっ……。




 留置所にぶち込まれてから一日ほど経過した。


 ……はあ、暇だな。

 孤独なのには慣れているはずなんだけどな。

 物心ついたときには、もう両親はいなかったし。


 ヘリコニアいわく、疫病で亡くなったそうだ。

 それから俺は、孤児院に預けられていた。

 だからこそ、誰よりも上へ行きたいという気持ちが強かった。

 なにくそ、なにくそ、と、必死に耐えてきた人生だった。

 なのに、いざ見返してみれば、どうだ?

 散々な目にばかり合ってるじゃないか。


 不幸で塗りたくられた様な人生。

 そう形容するべきなのかもしれないな。

 ……そんな感じの言葉でも銘打って、獄中記的な自伝でも書いてみるか。


 …………。


「カランテに会いたい」


 孤独にいくら慣れていようと、カランテと会えないのはやっぱり寂しい。

 これから、永遠に、カランテと会えない……。

 そう考えると、胸が締め付けられるような思いだ。

 それほどまでに、俺はカランテが大好きだ。

 それが、家族愛からくるものなのか、はたまた……。


 だが、もう諦めがついた。

 人間、死を覚悟すると達観するもんなんだな。


 貴族を殴ったんだし、死罪は免れない。

 そして俺は、カランテよりも先に死ぬことになるだろう。

 その時には、神の一人や二人殴って、カランテの寿命を無理矢理にでも引き延ばして見せる。

 ……絶対にだ。


 それに、あとはヘリコニアが何とかしてくれるだろう。

 俺では、最初から力不足だったのだ。

 もう策は打ってあるし、大丈夫なはずだ。

 ……策とは言っても、俺の全財産をあいつに渡したってだけだが。

 それで何とかなるかもしれないし、ならないかもしれない。

 いや、何とかしてくれるはずだ。

 ……だが、その辺も、神様の気分次第なのだろう。


「やあ、ボタン。独房での生活はどうだ?」


 そんなことを考えていると、もう二度と聞きたくなかった声が獄中にこだました。

 出やがったな、くそ野郎。


「……何の用だ、ナーシサス」

「いやなに、貴様の無様な姿を笑おうと思ってな。なかなかに似合っておるぞ? どうだ、家畜用に餌箱はいらんか?」

「死ね」

「……貴様、檻の中とはいえ、好き勝手いえるような立場と思うなよ? 次会うときには、国王陛下の前での裁判の時だからな?」

「だったら、その次に会うのは地獄でだ。あっちで何度でも殺してやるから、覚悟しとけ」


 ナーシサスの顔面に向かって、唾を飛ばす。


「貴様……!!」

「檻の外から手を出せるもんなら、出してみろよ、バーカ」


 恨めしそうな顔を浮かべながら、ナーシサスはようやく地下牢から出ていった。


 ……ふぅ、まさか、孤児院流の煽り術が使える日が来るとはな。

 俺の居たとこは、凄い治安が悪かった。

 何かあればすぐ喧嘩、何もなくてもすぐ喧嘩。

 そんな生活送っていれば、煽りも喧嘩も上達していく。

 ……とはいえ、俺は喧嘩に参加したことはないが。

 ずっと、図書室で本を読んでただけだし。

 要するに、あいつらの猿真似だ。


 ……さて、少しは溜飲も下がったし、少し寝るか。

 これ以上、辛い現実を見ていたくない。

 もしかしたら、夢の中なら、カランテと会えるかもしれない。

 ……そしたら、心の底の本心で語り合いたいな。

 身分も立場も関係なく、あいつと二人っきりで。




 重たい手錠を腕に下げ、両側についている騎士たちに無理矢理歩かされる。

 ……遂に、裁判の日が来たのだ。

 貴族を殴るなどと言う前代未聞のことをやらかしたためか、留置所に三日居るだけで裁判が始まった。


「静粛に! これより、ボタン・エーデルワイスの裁判を始める!」


 裁判官の宣言に、その場にいた者全員が立礼をする。

 その隣には、国王が堂々とした姿で座っている。


 ……相変わらず、怖いな。

 威厳や威圧感が、ここにいる誰よりもある。


「まずは、ナーシサス殿より状況説明の方をいただこうか」

「はい」


 ……くそじじいが。

 俺が殴ったのは顔だけだというのに、腕や足にまで包帯が巻いてある。

 あの感触だと、確実に折れていないってのに。


「私はただ、ボタン殿と公正公平に取引をしていただけにございます。しかしですね、ボタン殿が突然取引内容に文句を言いはじめまして、明らかに無理のある内容に変更しようとしてきたのです。私は、当然その内容を跳ねのけました。すると、逆上したボタン殿に殴る蹴るの暴行をされまして、このような痛ましい姿のまま、裁判に出廷せざるを得なくなってしまったのです」


 裁判所内に、少しのざわめきが広がる。

 大方、俺を非難するような内容だろう。


「それでは次に、ボタン殿にも状況説明を……」


「その必要はない」


 裁判官の言葉を遮るように、国王が言葉を発した。


「ボタンよ。ナーシサスの言ったことは誠か?」

「…………」


 ゴクリと喉を鳴らす。

 この返答次第で、俺の刑は決まってしまうだろう。


 本当のことを言うべきだろうか。

 だが、月桂の蜜の取引は、そもそも法律で禁止されている。

 どちらにせよ、俺はカランテの死に目に会うことはできない。

 ……だったら……。


 俯き、返答に悩んでいる俺を国王は一瞥し、


「沈黙か……。裁判官。私から、ボタンへの判決を言い渡してもいいか?」

「は、はい。もちろんでございますが……」


「それでは、判決を言い渡す。……ボタン殿。私は今般、貴殿の罪を一切問わないこととする!」


 ……え?


「以上で、裁判は閉廷だ。解散!」


 鮮やかな金髪をなびかせ、国王はそのまま裁判所を後にした。


「陛下、なぜこの者を死罪にしないのですか!?」


 いや、しようとした瞬間に、ナーシサスが大声で国王を止めた。


「……貴様、私の出した判決に文句があるのか?」

「い、いえ、そういうわけではございませんが……」

「貴様は逆に、自分の罪・・・・を問われなかったことに感謝すべきであるんだぞ? 分かったら、早くこの場から去れ!」


 その言葉に顔を青くしたナーシサスは、命令通りにすぐさま裁判所から出ていった。


 俺が、無罪になった……?

 なんで、どうして……。

 普通であれば、喜ばしい事なのかもしれない。

 だが、今の俺にとっては……。






 呆然と、ただ歩き続ける。

 何もすることなく、ただ、ひたすらに。


 このまま生きていたとして、俺はどうなるのだろうか。

 カランテがいなくなったとして、俺は今まで通りに生きていけるのだろうか。


 ……いいや、無理だ。


 もう俺の中では、それほどまでにカランテの存在が大きくなっている。

 これが家族愛なのか、恋慕なのか、それは分からない。

 分からないが、カランテは俺の命に代えてでも助けようと思えるほどに大切な相手だ。


 ……もう、どうすればいいかわからない。

 どうするべきだったのかもわからない。

 もう、なにもわからない。


「ボタン様。少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか」


 後ろから突然、声をかけられる。

 パッと振り返ると、そこにいたのはこの間俺を案内してくれた国王の執事だった。


「あ、はい。どうかされましたか?」

「国王陛下より、書状の方を承っております」

「……俺にですか?」

「はい」


 俺の言葉に首肯した執事は、胸元から一枚の封筒を取り出し、ゆっくりと俺に手渡した。


「……ボタン様。あなた方に・・・・・神の祝福が訪れることを、心よりお祈りいたします」


 それだけ告げて、執事は足早に来た道を引き返していった。


 書状か。

 受け取った手前、読まないわけにもいかないだろう。

 封を丁寧に開き、その手紙に目を通す。




『まずは、貴殿に対して何の援助も行えなかったこと、また、貴重な時間を奪ってしまったことを、心より謝罪したい。

 ナーシサスとの一件についての事の顛末は、ナーシサスの部下、そして貴殿の友人だという医者より聞いた。

 それと同時に、貴殿の抱えていた問題も。

 指輪を渡すだけで、なにが支援であっただろうか。

 遅くなってしまったが、貴殿との約束を果たさせてもらった。

 この件に関しては、貴殿と私のみの秘密としよう。

 貴殿へ、心からの祝福を』




 俺のために、ヘリコニアが……?

 それに、ナーシサスの部下も……。

 心の中に嬉しさが広がっていくが、それと同時に空虚感も広がっていく。

 それでも、とりあえずはヘリコニアのところへ行かないとだ。

 少なくとも、俺を助けようとしてくれたのだから。




 ゆっくりと、ゆっくりと道を歩く。

 ヘリコニアの病院までは、もうあと少し。

 この角を曲がって、少し進めば……。

 ……あれ?

 珍しく、今日は先客がいるようだ。

 病院の前に誰かが立っている。

 まあでも、礼を言いに行くだけだしな。

 忙しそうだったら、後にすればいいだけのはな、し……。




 ふわりとした風が甘い匂いをのせて、俺の横を通り抜ける。

 その匂いに誘われるようにして、俺の足はひとりでに動きはじめた。

 ゆっくりとした足取りは、次第に駆け足になり、そして……。


「カランテ……!!」

「……! お待ちしておりました、ボタン様」


 カランテは柔らかな笑みを浮かべ、こちらに会釈をした。

 その姿は、元気だった頃と何ら遜色ない。


「なんで、どうしてここに……? いや、早く病室に戻らないと……」

「いえ、それは……」


「その必要はないぜ、ボタン」


 カランテの言葉を遮るようにして、後ろから声をかけられる。


「ヘリコニア!? どういうことだ!?」

「治療は終わりましたよ、ボタン殿」


 治療が、終わった……!?


「え、でも、月桂の蜜は!?」

「あれ、お前が買ったんじゃないのか!?」

「……いや、俺は買ってない。……けど、心当たりならある」

「そうか……。まあ、なんにせよ、カランテを治せてよかった!」


 買い取ってはいないが、俺はその人物が一人だけ思い浮かんでいた。

 恐らく、この国の中で唯一法の外に存在するお方だ。


 ……俺は、俺の考えている以上の人に支えられえ、この場に立っているんだ。

 そう考えると、自然と涙が零れた。


「ヘリコニア、本当に、なんてお礼を言ったらいいか……!」

「礼なんざ要らねえよ。……それよりも」


 ヘリコニアに体を掴まれてぐるりと体を回され、


「俺はまだ仕事があるんだ。……積もる話もあるだろうし、しばらく二人で話しておきなさい」

「ああ。……ほんと、ありがとな」


 俺の言葉を背に、ヘリコニアは病院へと戻った。




「――ボタン様」

「なんだ?」

「……この一月の間、本当にご迷惑を……」

「迷惑なんて思ってねえよ。……逆に、俺の方が謝らなくちゃいけないんだ。もっと早く薬を買えていれば、お前を苦しませることもなかったのに……」

「…………一つ、尋ねてもよろしいでしょうか?」

「ん?」

「……どうして、私を見捨てなかったのですか? 私は一介のメイド、しかも元奴隷です。なのに、どうしてここまで……」

「理由なんて、そんなの……」


 俺たちは家族なんだから。


 その言葉を言おうとするが、なぜか俺は言い淀んでしまった。

 ……そう、実に簡単な話。

 俺がカランテを助けようとした理由なんて……。


 ……あれ?


 俺にとって、カランテはなんだ?

 家族として大切なのは当然。

 でも、俺にはどうもその結論がしっくりこない。


 ……いや、結論は出ていた。

 月桂の蜜を手に入れようとしていた間、留置所にいた間、今ここにいる間。

 その間、ずっと考えていたことだ。


「……カランテ」

「はい、どうされましたか?」

「今この瞬間だけ、身分、立場、何もかもを真っ新にして聞いてほしい」

「いえ、そんな畏れ多い……」

「いいから! ……少しの間、聞いててくれないか?」

「…………はい」




「俺は、カランテのことが大好きだ。俺のたった一人の家族として。友人として。……そして、一人の女性として。それが、お前を助けた理由だ」




 これが、俺の本心だ。

 誰に何と言われようとも、この思いは揺るがない。


「…………」

「……さ、ヘリコニアのところに戻ろう。治ったとはいっても、まだ病み上がりなんだから……」


 くるりと半回転し、ヘリコニアの病院へ向かおうとすると、後ろからキュッと袖を引っ張られた。


「……言い逃げはずるいですよ、ボタン様」


 ……えっ……。


「私は、あなた様のことを、ずっと……、ずっと、お慕いしておりました。あの日、助けていただいた瞬間から。……いいえ、目が合ったあの瞬間から。ずっと、ずっと……」


 震える声を抑えるように。

 スッと一呼吸おいて、カランテは言葉を紡いだ。




「ボタン様を愛しておりました」

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家族同然のメイドが難病を患ったので全財産はたいて薬を買う ランド @rand_novel

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