齢十年の木

天方セキト

齢十年の木

もう低かった空も徐々に高くなっていき、油断をすると体が震えてしまうほどの涼しい風が時たま吹くようになれば思い出すことがある。僕の誕生日は八月に入ったばかりの八月四日、僕を産んだ母と仕事に出ていた父は都会と呼ばれるような場所に住んでいた。だがある時、家を建てようという話になったそうである。当然、生まれたばかりの僕には両親が家の計画を立てていることなんぞ知ることもなかった。


 それから約二年の月日が経ち、我が家でもある一軒家は無事に完成した。不思議なことでもあるが私が記憶している光景の中で一番古いのがその家が建って母親が押す乳母車の中の映像であり、形は分からないほどのぼんやりとした景色だけが脳裏に染み付いていたのだ。ぼんやりとした記憶、正直持っていても意味のないものであるがそのぼんやりさの中で一際澄んだ映像として残っているものがあった。


 それは誰が始めようと言ったのかは分からない。文化的な思考ではないはずの両親が始めようと言ったのなら僕は驚いて目を見開くことである。成長する度に柱に背中をつけ、てっぺんを鉛筆か何かで線を引いて身長を記録するという行為を映画で見たことがあるがそれと似たような行為を始めたのだった。広い花壇のようなスペースに木を植えたのである。それは僕と年齢が一緒の木であった。


 まだ幼い僕はその木がなんなのかも分からず、一年が経ち幼稚園に入園してその木の隣で遊んでいた。木の影にはダンゴムシや蝶々といった虫が沢山いる。今では考えられないがそんな両手で抱え込むようにして大切にしていたのが幼い私だ。木は強い日差しから僕を守るようにして覆い被さっていた。僕と年齢は一緒のはずだが木はほぼ完成されたような大きさだったのである。


 僕が幼稚園を卒園する時になると木は僕の家にやってきた時よりも大きくなっており、身長が伸びて後ろの列に並ぶことが多くなったはずなのに越えることはできなかった。日差しを隠してくれているということは木に身長が負けているということである。勝負心は薄いはずの僕だがそれだけは悔しかった。この頃になっているとこの木は僕であり、木は僕なんだという一種の哲学じみた考えで木を見るようになっていた。


 難しいことを思っていれば博士みたいでカッコいいと思っていたのだろうか。幼児の頃から比べて僕の考え方は大きく変わってしまったので詳しいことまでは分からない。家の花壇スペースに木がいることは当たり前であり、初めて家に呼ぶ友達にはその木が目印にもなり、そしていつになっても身長は木に負けたままだった。このまま身長だけ、木に負けられる時が来るのだろうか、学校ではみんなよりも身長が高いのに、小学校四年生の自分は少しだけ不満に思っていた。


 だがその不満を天が聞いてしまったのだろうか。全くの予想外の方向で不満は消えてしまうことになったのだ。もう僕と木が十歳を越えていた頃。秋空の下で下校をしていた僕はだんだん近づいてくる家を見てとてつもない違和感を感じたのだ。目印となる木がなかったのである。


 僕は走るようにして花壇を見るがそこに木はなく、細い切り株だけが残っていた。すぐ家に入って母親に聞く。「木はどうしたの?」って。母は「もう大きくなりすぎたから切ってもらったのよ」、そう言った。拍子抜けした後に僕は自分の部屋に戻ったのだが幼き心にも分かっていたのだろう。僕の分身が切られたという事実を。ベランダから見えていた木はもういない。代わりにと母が植えたシロツメクサによって切り株さえ見えやしない。僕と木の背比べは中途半端なところで終わってしまったのだ。


 どうせ終わるなら「もう越えられないよ!」ってほど大きくなって欲しかった。もしくは僕が大きくなってやりたかった。いくら背が高くなったっていつも越えられない程度じゃあ幼い頃の僕だって期待をしてしまうじゃないか。「いつか越えれるんだ」って。それから僕は木のことを忘れることにして忙しくなる毎日に身を投げたのだった。


 十歳のあの出来事からもうすぐ八年目となる今日、僕は十八歳となっていた。もう子供って言えないような年齢だ。昔のような無邪気な考えはもうできない。色々と知ってしまったところはあるから。そんな僕がふと花壇を見ると最近は手入れができていないのかシロツメクサのツタの数が減っている気がした。そのツタをどかすようにしてあの細い切り株は君臨している。


 ここで僕は浮かべてみたのだ。ずっと完成されたような大きさで、日陰を作ってくれて、足元に虫をいっぱい抱えたあの木の姿を。一番澄んだ映像で再生できる記憶だ、今の花壇に再現するのは容易いことであった。だが時の流れというのは残酷で再生はできたのだがその木さえもぼんやりとしてしまっている。だがそのぼんやりとした木の天辺から僕は拝めるはずのなかった夕日を見た。


 本来、ここに木があれば僕はスッと差し込む夕日に目をやられてグシグシと擦っているだろうが今は違う。木は僕に日陰を作ることが出来なくなっていたのだ。木は十歳、そして伸び続けた僕はもう十八歳なのだから。僕は記憶の中に生きる木よりも大きくなっていたのだ。


 それを知った時、僕の中であの幼き頃のような無邪気な気持ちが一瞬出てきてくれた気がしてとても嬉しかった。やっと勝てたのだ。やっと木よりも高くなったのだ。それはもう「日陰なんて作ってくれなくても自分で涼んでいられるさ」とあの時の木に伝えれたような……そんな気がした。


 齢十年の木は今もそこに眠っている。僕の中だけの僕と僕の背比べはここで終わったように思えた。もう必要ない気がしたのだ。子供とは言えないと思うが僕を子供の心に一瞬だけでもしてくれた木は役割を果たしたかのように。


 もし僕に将来子供が出来たのなら生まれたその日に木を植えてやろう。そうすれば記憶の中の僕の木だって親父になれる。もう背が伸びない、切り株になった僕と元々木だった切り株。その日の夕日はとても優しく、どこか暖かった。あの時、木がいつも覆い被さって日差しから守ってくれていたように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

齢十年の木 天方セキト @sekito_amagata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ