第2話 世界は本当の魔女も魔術も知らない。




 翌朝の事だ。

 一軒家の車置きに、見慣れぬ高級車が停まった。高級車は、他に何台もの護衛を伴っていた。おそらく、護衛は覆面パトカーだと思われた。


 訊ねて来たのは外国人だった。

 僕はその顔に見覚えがあった。アメリカの、前、国務長官だったからだ。その男は良子の顔を見るなり玄関に平伏し、絞り出すような声で「我がMY ・Right」と、呟いた。彼は大量の脂汗を浮かべながら、良子の足の甲に口付けを繰り返す。良子が声をかけるまで、決して顔を上げようとはしなかった。

 それから二◯分程、良子は、客間でその客人と言葉を交わしていた。


 昼前に、客人は帰っていった。数台の覆面パトカーも姿を消し、住宅街は静寂に満たされる。


「もう。一介の信徒が尋ねて来るだなんて、前代未聞ね。直接来てはいけないと言っておいたのに。彼と彼の教師には、今度、お仕置きが必要ね」


 と、良子は僕にウインクをする。


「お姉ちゃんは、一体、何?」


 僕は疑問を口にする。


「あら。あの人達は、私をリリスの巫女と呼ぶの。困った人達だけど、彼らの信仰は中々の物よ。私の神も認めていらっしゃる」


 と、良子はまるでクリスチャンみたいな仕草で、逆さまに十字を切った。


 その夕方、テレビのニュースでは、僕の学校で発生した虐めについての報道がされた。

 クラスメイトが僕を暴行したり、金を巻き上げたり、嘲笑あざわらう場面が撮影されていたのだ。その動画がインターネットの動画サイトに投稿され、大炎上しているらしい。

 投稿された動画には、クラスメイト全員の名前に、その家族の名前、住所と電話番号、及び勤め先の情報までもが添付されていたそうだ。

 動画は、死んだ不良が所持するコンピュータから投稿されたらしい。どう考えても、何者かがハッキングをしてコンピュータを操ったのだと思われた。暴露動画をばら撒いたのが誰なのかはさておき、黒幕は、締尾良子以外にはあり得なかった。


「ねえ。楽しくなってきたわね」


 良子は学校から帰るなり、テレビを点けて微笑んだ。


「うん。ちょっとね。でも、まだ足りないよ」

「そう。じゃあ、もっと楽しくしましょう。でも、ここから先は覚悟が必要よ。本気で世界を終わらせたい?」


 と、良子は僕の眼を覗き込む。仄暗い微笑の影に、ヒリヒリするような悲しみの気配が漂っていた。


 覚悟を試されたのは、その夜のことだった。

 夕食の時、薄暗いテーブルには香炉が置かれており、部屋中に、妙に甘い香りが漂っていた。煙は、ただのお香の物ではなかった。

 やがて、意識が、朦朧としてくる。


「ねえ。貴方はこれから魔術師になるのよ。でも、それには揺るぎない信仰と儀式が必要なの。私達の神を心から信じ、決して裏切らず、その御言葉みことばに従う。誓えるかしら?」


 良子が無邪気に戯れつくように、僕の耳元で囁く。


「誓います。心から」

 僕は宣誓し、真剣な眼差しを返す。


「では、最初の儀式を行いましょう」


 どん、と、食卓に大皿が置かれた。お婆さんが運んで来たのだ。

 皿の上には、一◯歳にも満たない子供の生首が置かれていた。それは調だった。


「見て。これから起こるのは、とても素敵なことなのよ」


 言いながら、良子は肉を小皿に取り分ける。

 目の前に、小さな耳と眼球と舌先があった。僕はそれにフォークを突きさして、口に運ぶ。

 ぷちりと、丸い物を噛み砕く。


「ああ。素晴らしい。少しも躊躇しないなんて。こんな覚悟を見たのはいつ以来かしら。本当に素晴らしい。貴方はもう、誰にも引け目を感じる必要はないの。悪いのは、貴方を壊したこの世界なのだから」


 良子の肌が恍惚の色に染まる。彼女は大皿の料理にフォークを突き刺して、小さな肉片を取り出した。松果体しょうかたいというらしい。まるで、松ぼっくりみたいな形のそれを、そっと僕の口へと運ぶ。僕は迷わず噛み砕く。すると良子は泣きながら、僕の頬に口づけをしてくれた。


 彼女の背後には、いつの間にか大勢の大人がいた。どいつも面識がない連中だった。舞踏会で使うような仮面を付けている奴もいる。やがて彼らは次々と服を脱ぎ、誰彼構わず交わり始めた。

 幻覚か? 否、違う。

 酒と硫黄に似た匂い、気配、生々しい性交の音と喘ぎ声。どれも本物だ。

 やがて良子も眼の前に来て、僕の膝に跨った。細い指先が胸を這い、僕のシャツのボタンを一つずつ、外し始めた……。


 気が付いた時、僕は風呂場にいた。そこで一人、ぬるいシャワーを浴びていた。


 背後から、華奢な腕が絡みつく。

 良子だった。

 彼女は服のまま、僕を抱きしめてくれた。青白い掌が肌を伝い、僕の首筋へと昇る。

 僕は良子に目をやって、ぎょっとした。彼女の背後に、人ではないがいたからだ。

 それは一応、人の形をしていた。だが、明らかに人ではない何かだった。何かは二人組だった。

 一人は筋骨隆々の大男。もう一人は、少女のように美しい顔立ちの少年。二人とも、背中に純白の翼があったのだ。


「天使?」

 あまりに現実離れした後悔に、思わず笑いが込み上げる。


「そうだ。だけど、人間は僕等を指して、悪魔と呼ぶね」

 少年のような顔の天使が答える。


「あら。もう見えるようになったのね。やっぱり、貴方には素養があったのだわ。そう。見ての通り、私には二人の守護天使がいる。いつも悪い物から守ってくれているの。大きい方がヘレルアテン。可愛らしい方がイスライシュよ。二人とも挨拶なさい」


 良子が促すと、大柄な天使が、ズイ、と進み出る。


「俺様の名はヘレルアテン。ラハブの破壊者にして、星の運航を阻害する悪魔」


 見るからに屈強な天使はヘレルアテンと名乗り、厚い胸板を腕でどし、と打つ。

 続いて、小柄な天使も進み出た。


「僕の名はイスライシュ。一八八◯◯人の男を殺し、古代エジプトを震撼せしめた悪魔」


 イスライシュは穏やかに言う。藍色の綺麗な眼が、じっと僕を見据えていた。


「君はとても素敵な色の魂をしているね。なんて良い香りなんだろう。ねえ、僕と取引をしないか?」

 イスライシュは続けて言った。


 取引とはつまり、魂と引き換えの契約の事なのだろう。


「ううん。今は欲しい物が思いつかないな」


 僕は断った。


「ねえ。これからもっと楽しくなるわよ。貴方も、明日は学校にいらっしゃい」


 良子の瞳に、更なる悪意が宿る。彼女がこんな提案をするからには、余程のショーが待っているのだろう。

 思わず、僕の胸が高鳴った。


 ★ ★ ★


 翌日、学校では緊急保護者会が開かれる事になった。学校の周囲は、朝からマスコミが包囲していた。

 久しぶりに教室に入ると、突然、不良の一人から胸倉を掴まれた。


「やめとけ。どうせこれも撮影されてるぞ。一体、誰があんな物、撮ったんだろうなあ?」


 他の不良が厭味ったらしく言い、視線を泳がせる。

 その視線は、田辺たなべ伊織いおりに向けられていた。きっと、彼女が動画を投稿した犯人だと疑われているのだ。


 ★


 放課後の保護者会では、保護者等が教師に詰め寄って金切り声を上げていた。

 僕は虐めの被害者という立場である。だから証人として、保護者会に呼びつけられたのだ。


「動画を上げるなんてあんまりよ。こんな事をしてただで済む筈がない。動画を上げた人は、仕返しに人を傷つけるような醜い心を晒したのよ。その心も、永遠に残るの」

 そう言ったのは、クラスの不良グループの、リーダー格の母親だった。


「つまり、お前は人間ではないから黙って一方的に殴られておけ。そして死ね。そう言っている訳ですね」

 僕は言ってやった。


「やっぱり。じゃあ、貴方が仕返しに動画を上げたのね。どうしてくれるの? これで家の子の将来は真っ暗。私達も仕事を失ってしまった。この責任、どうやって取るの?」

 そのオバサンは顔を歪ませて責め立てる。


「やった事に対して責任を取るべきだというなら、まずは、僕の母を返してください」

「はあ?」

「僕の母は死にました。あんたが言ってる事は正しいんだろう。だったらすぐに、責任を取って生き返らせて下さい」

「……は?」

「何をボサッと突っ立ってるんだ。僕の母を返せえええ!」


 僕は絶叫して、目の前の机を蹴り飛ばし、椅子を窓に叩きつける。椅子は窓を突き破り、階下へと落下する。そして教室には、馬鹿な連中の悲鳴と怒鳴り声が満ちる。

 僕はたちまち、教師に取り押さえられた。でも、誰も僕を裁かなかった。僕はハッキングをしていないし、その証拠も出なかったからだ。


 ★


 良子の家に帰ると、テレビでは、先程の保護者会の様子がニュースで放送されていた。

 何者かが盗撮して、動画投稿サイトに投稿したのだ。その何者かが誰かについては、考えるまでもない。


「ほら。もっと楽しくなったでしょう?」

 良子は、ニュースを見ながら微笑する。


 ネットを覗くと、学校や関係者、保護者の叩かれ方は凄まじいものだった。数千の人々が情報を拡散しており、先程のおばさんの自宅写真も載っていた。


「みて。クズがクズに襲い掛かって馬鹿みたいに叩いているわよ。叩かれている人達も、豚みたいに言い訳ばかりして。滑稽ね」

「ああ。クソばっかりだね。どいつもこいつも、皆、死ねばいい」

「ねえ。こんな世界なのよ。浄化しなきゃ。それが、私達の崇高な使命なの」


 不意に、良子が真剣な顔をする。その眼差しの純粋な輝きが、寧ろ、彼女の闇を映し出しているようだ。

 僕は少しだけ、良子が解った気がした。


 ★


 僕はその夜、ベッドの中で気が付いた。

 教師も、保護者等も、僕を動画投稿をした犯人だと考えていた。何故か?

 彼らが、僕がどんな立場にあるか知っていたからだ。奴らは、僕が虐めに遭っていたことを知りながら、わざと見殺しにしていた。だから、僕が復讐の為に動画を投稿したと考えたのだろう。

 では、誰が虐めについて教師に告げ口をしたのか?

 脳裏に浮かんだのは、田辺伊織の姿だった。きっと、伊織さんは僕を救おうとしてくれたのだ。でも、その行為は意味を為さなかった。大人達は問題を握りつぶしたからだ。そして僕の母が死に、彼女は僕の為に泣いた。


 翌日から、僕はまた、家に引き籠った。


「ねえ。今度改めて、貴方の為に儀式を行うことにしたわ。次は正式な儀式よ。大規模なミサになるから、そのつもりでね」


 良子は穏やかに言った。


 ★


 翌月は、修学旅行だった。

 勿論、僕は行かなかった。あんな連中と旅行先で笑い合える筈がない。反吐が出る。

 意外な事に、良子も修学旅行には行かなかった。


「どうして?」

 僕は良子に問う。


「あら。行く必要がないからよ。今に解るわ」


 良子はそう言って、僕のベッドに潜り込む。彼女の指が胸を伝い、シャツの中へと潜り込んで来る。僕も、ゆっくりと良子のブラウスのボタンを外す。やがて、口づけを交わし、獣のように求め合う。僕等がこんな風に身体を重ねるのは、もう、いつもの事だった。

 暫くして、テレビからニュース速報が流れた。


『修学旅行に向かっていたバスが山中を走行中、カーブを曲がり切れず崖下に転落。学生の安否は不明』


 それが、速報の内容だった。

 事故を起こしたバスには、我が校の生徒等が乗っていたらしい。

 薄く、良子の口角が上がる。


「さて、世界を壊しに行くわよ」


 と、良子は軽やかに腰を上げる。その華奢な背を、僕はそっと抱きしめた。


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