#03 * 自分勝手な女



「ど、どうした? 今日は忙しいんじゃなかったのか?」

「ううん、会いたくなっちゃったからさ」

「そう」



どういう気持ちで来たんだろうな。隆介りゅうすけ逢瀬おうせして別れたあとに戻ってきてうちに来るとか。俺が何も知らないと思って会いに来たんだろうけど。会いたいなんて本当にそれだけが理由なのかなんて疑っちゃうよ。



「うわあ、散らかっているね」

「ああ、ごめん。なんだか疲れてやる気が起きなくて」

「片付けるね」

「いや、いいよ。俺がやる」



ゴミを拾い始める萌々香ももかはいつもと何も変わらない様子。むしろ上機嫌だし、隆介ときっと上手くいっているからか、なんて邪推じゃすいしちまうぜ。

ラブホで何をしてきたんだろう。

考えれば考えるほど、胸の奥にどす黒いヘドロのような感情がまっていく。



「なあ、俺がちゃんと就職したら向き合ってくれる?」

「……え? どういうこと?」

「ちゃんとしたいって思っているのに、全部うまくいかなくて。高望みしすぎたのかな。どうしてもあの業界にいきたいって思っていたけど、それもやめる。正社員で働けるところならどこでも応募して、今みたいな生活やめてちゃんと働く。そしたら——」

「夢……諦めないで。あたしはハル君を支えたい。だから、今のままでもいいと思う。もしここで諦めたら、一生後悔するよ? だって、まだ二三でしょ。また来年挑戦すればいいじゃない。あたしは応援するよ?」



もしも、だ。もし、これが何も知らない俺が聞いていたとしたらば泣いていたかもしれない。そして、もっと勉強してがんばって、来年に向けてスキルアップを図ったかもしれない。



けれどさ。どうしても、萌々香と隆介が肩を寄せ合って歩いていたシーンがフラッシュバックして素直に受け取れない。どうせ、俺のことなんてどうでもいいと思っている、なんて卑屈ひくつになっちゃう。

もし、隆介と出会っていない萌々香だったら、本当に同じ言葉を吐くのかな?

安定を求めて、「ちゃんと仕事してよ」なんて口うるさく言うんじゃないの?



「ごめん。やっぱり今日は帰ってくれないかな。俺、少し調子悪い気がするからさ」

「え? 風邪引いた? なら栄養付けなきゃじゃん。何か作るよ」

「いいって。夕飯は食べたし」



食べてないけどな。

本当は、バイトが早く終わったから帰って洗い物して自炊じすいしようと思っていたんだ。それなのにヴェロニカといい、萌々香といい、次から次へと俺を振り回しやがって。



「ほんと? 本当は何も食べてないんでしょ?」

「食べたって。だから、大丈夫」

「なんで強がるのよ。作ってあげるって言ってるのに。あれ、この本は……嘘ッ!? 読んでくれたの?」



ヴェロニカが置いていった隆介の本——『移りゆく季節に車輪をいで』を手に取った萌々香はパラパラとページをめくった。

ハラハラと名刺が舞って、萌々香はそれに気づいた模様。



「え? ま、待って。え、えぇ!? な、なんでヴェロニーの名刺があるのッ!?」

「ああ、いや。ほら、たまたまフリマサイトで売っていたんだ。それでつい買っちゃったんだよな」

「うそッ!? 名刺なんて存在するの? すごい、すごいッ!! いいなぁぁ」



萌々香はキラキラした目で名刺に視線を落とした。萌々香はシナモン・エンデューロ推しだったけれど、キャラメル・ヴェロニカもチョコレート・ヴァーミリオンも好きなはず。



「ちょうだい?」

「ダメ」

「ケチ」

「ケチってなんだよ」

「嘘だよ。ハル君」



抱きついてくる萌々香からふわりと感じるシャンプーのかおり。

それがいつもの柑橘系かんきつけいのそれとは違うことくらい、鈍感な俺でも分かる。

ラブホの備え付けのシャンプーでも使ったんだろうな。



「ごめん、風邪うつるから」

「大丈夫だよ。だって、咳とかしてないじゃん」

「声優だろ? 喉とか痛くなったら大変だから」

「ハル君ってやっぱり優しいね」



萌々香の肩に手を置いて、そっと引きがした。今すぐにでも抱きしめて、コイツが自分の物だと証明するように押し倒して、獣のように襲いたい。

けれど、どうしても脳裏に焼き付くあのシーン。

純白のあの子——特急列車で俺の隣の席に座った、ふかふかのベレー帽を被った萌々香は、汚されてしまって、その汚れは次第に侵食していくように俺に移って。



「優しくなんか、ない……萌々香、別れよう」

「……え? 今なんて?」

「その方がお互いのためだし、もう無理だ」

「ま、待って突然なに? なんなの」

「悲しいよ。切ないよ。悔しいよ……みじめだよ」

「どうしたのよ」



涙が落ちてくるから、顔を上げていられないよ。それなのに、萌々香は俺の肩に手を置いて顔を覗き込んでくるんだ。萌々香の優しい顔なんて見たくもないのに。



——こんな顔、見られたくないのに。



「ねえ、ハル君どうしたの?」

「見たんだ」

「……見たって何を?」



ごくりとつばを飲み込んだ。これを言えば決定的に終わってしまう。それでもいいのか。

いや、終わってしまうとなげくのではなく、ここで終わりにしよう。

こんな辛いことはもう経験したくない。



「隆介と萌々香がラブホから出てきて歩いていたとこを偶然に」

「……そっか。そうなんだ」



一歩後ろに下がった萌々香は、俺から顔を背けるようにうつむいた。



「分かんないよ。ハル君には分かんない。この世界ってさ。いろいろな事があるの。それこそ理不尽なことも、不可抗力なことも。うん、そう。あたし浮気しちゃった。どうしようもないよね。別れよう。それしかないよね」

「な、なんだよそれ。開き直る気かよ。俺がどんな思いで——」

「ごまかしてない。ただ、これだけは覚えておいて」




——今でも、ハル君のこと。好き。大好き。




「ズルいよ。俺だって、俺だって」

「……ごめんね」




萌々香はきびすを返して駆け出した。玄関のドアを開けっ放しにしたまま。

俺は‥…しばらくその開いたままのドアを閉めることができずに呆然ぼうぜんながめた。



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