4.5次元

 「こだわり」という言葉がずいぶん氾濫している。昔は「こだわり」はネガティブなイメージだった。頑固で、融通がきかない。「シェフのこだわり!」のように使われ始めたのはいつごろからだったろうか。

 私はこだわりがあまりない。

 お米もコシヒカリだろうがササニシキだろうが気にしないし、鞄を床に置いてもあとでぱっぱと払えばいいぐらいに思ってる。賞味期限がちょっと過ぎた牛乳も煮沸して飲むし、電車の乗る位置なんてのも毎日変わっている。ただ、こだわらない「サバサバ系」に見られるのは少し嫌だ。私はサバサバしているのではなく、多くの事物と事象にあまり関心の払わない、非常に独善的な人間なのだ。反省はしている。

 こだわりという言葉を聞くと、小学校の頃に同級生だった袴田くんを思い出す。友達でもなんでもない。3年生の頃、クラスが一緒になった、それだけだ。袴田くんは長時間椅子に座っていることが上手ではなく、よく教室の後ろでふらふらしていた。先生も止めないし、友達もすっかり慣れて気にかけない。何か対応方針は大人の中では決まっていたのかもしれないが、私たちは知る由もない。ちょっかいをかけることもなかったが、関わりをもつこともなかった。同じ教室にいながら違う次元の宇宙で暮らしているような感じだった。

 その程度の関わりだったから、あの出来事は記憶に残っているのかもしれない。放課後の帰り道に、袴田くんと会ったことがある。彼は道路にうずくまっていた。顔は見えなかったが、彼のランドセルにはいつも恐竜の絵が描かれたカバーがしてあったので、すぐにわかった。私は驚いたものの、こわごわと、声をかけずに初めは見守っていた。すると、どうやら彼は地面にかがみ、一生懸命なにかを描いているのがわかった。独善的だが好奇心の強い私は、意を決して「何してるの」と声をかけた。

 袴田くんはちらりと私を見たが、特に返事はなかった。まあるい眼鏡をアスファルトにくっつけるようにしている。覗きこむと、模造紙を半分ぐらいのサイズにした白い紙を敷いて、何やら鉛筆で延々とこすっている。それがマンホールだとわかるのに少し時間がかかった。

「すごいね」

 思わず私がそう声をあげると、「だろ」とこすりながら袴田くんは言った。「このマンホール、先月デザインが変わったばっかなんだ」

 私は変わる前のデザインすら知らなかったので、素直に感心した。フロッタージュと言うのだろう。紙にはマンホールの意匠が半分ほど写しとられていた。今なら「幾何学模様」という表現を使うところだが、小学3年生の私は、その騙し絵のような不思議な模様について、あまり説明する表現を持っておらず、「ヘンな形だね」と、失言めいた言葉で感想を口にした。袴田くんはそれに気を悪くする様子もなく、ひたすら鉛筆をこすり続けていた。できれば私は最後までいたかったが、時間の果てが見えなかったので、「じゃあね」とひと声かけてその場を去った。

 かといって翌日から仲良くなるわけでもなく、4次元と5次元ぐらいの違いのある教室で変わりなく私たちは過ごした。小学生はそういうものだ。無邪気で無思慮で無分別。ただ、マンホールはよく見るようになった。なるほど、意識して見てみると、実に様々なデザインがあった。私は袴田くんの眼鏡を借りて、ちょっと先の次元(4.5次元ぐらい)を眺めた気分になった。

 袴田くんは、4年生になる前に転校した。転校はこれで3回目ということだった。さよならの会が開かれ、学級委員の佐倉さんがお手紙を読んだ。フルーツバスケットとジャンケン大会が開かれ、先生側の不正により袴田くんがどちらも優勝した。クラスのみんなも、最後ぐらいはと寛大な心で遊び、のほほんとした時間が流れた。

「プレゼントがあります」

 先生が会の終わりに声をかけた。袴田くんのお母さんが廊下からやって来て、紙袋から何か小さな画用紙の束のようなものを取り出した。袴田くんの好きな恐竜の絵が描かれていた。お母さんは袴田くんがそれを一枚一枚描いたことを私たちに告げ、もらってくれたらうれしいと言った。お世辞にも上手とは言えなかったが、もちろんおくびにも出さなかった。

「あなたにはこれを」

 お母さんは、ひとりひとりの机に赴いて画用紙を渡していたのだが、私の席に来たとき、明らかに大きさの違う、筒状に丸められた紙を渡してきた。私が戸惑っていると、「あなたにはお世話になったと言っていたので」と、彼女は口にした。

 広げてみると、それはマンホールのイラストだった。見たことのないデザインで、大きな鳥の絵が描かれている。鳥は今にも飛び立ちそうに羽を広げていて、胴体の割に頭が大きかった。下部には「はかま市」という文字が几帳面に書かれていた。フロッタージュではなく、またその「はかま市」という名前から、袴田オリジナルのものではないかと私は推測した。私はお礼を言ったが、嬉しさよりも厄介さの気持ちの方が上回った。

 果たして、放課後、いつも帰る友達から、なんでお前だけそれなんだよ、というやっかみとも冷やかしともとれる発言を受けた。私は迷惑そうな様子を前面に押し出し、なんとかその場をやり過ごした。家に帰るとすぐにその紙を丸めたまま放り投げ、それきり、どこかにいってしまった。

 新聞で「はかま市」を目にしたのは大人になってからで、記事には、ある県の小さな町同士が合併し新しく生まれた市で、これで基幹産業であるキャベツ栽培だけでなく、観光資源も期待できるだろうとポジティブな論調で書かれていた。私は何度かその記事を読み返し、「はかま市 マンホール」と検索しかけて、やめた。だから、その町に、アンバランスな頭をもつ大きな鳥がいるのかどうか、私はまだ知らない。

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