玉手箱
お節を作るのがいいかげん面倒になってきた。昔の私は結構がんばってやってた。昆布巻き伊達巻車海老、まめまめしくよろこぶ金銀財宝栗きんとん。お雑煮にはきれいなお麩を浮かべて、昆布と花かつおでしっかり出汁をとって。しかしどんなにがんばってつくったところで、それらはあっという間に消費される。おいしいおいしいと言われたって、何日も食べれば飽きるし、残るのは虚無だけだ。虚無への供物。というわけで最近はもっぱらスーパーで買っている。資本主義ばんざい。
母もお節にはこだわりの薄い人だった。黒豆やなますなんかは手製でつくっていたようだが、大皿にウインナーとかサラダとか適当にのっけて出していた。几帳面であったが合理的で、お節らしいものは行きつけの総菜屋で買い、他に子供が食べそうなものは洗いやすい皿でどんどん出す、という感じだった。
そんな中でも、こだわりがひとつあるとしたら、おにぎりだった。赤飯と白いご飯を三角に結んで交互に並べる。その紅白は正月の風景として普通なのかと思ったが、どうやらそうでもないらしいことは結婚してから知った。私は母のあまじょっぱい赤飯のおむすびが好きだった。そして、おにぎりは「玉手箱」に詰められていた。
そう、うちには「玉手箱」があった。
無論、本物ではない。というか、本物が存在するのかどうかはわからない。ただの黒い漆塗りの重箱だ。一重だけのそれに、紅白のおにぎりがずらりと並ぶ。正月のときしか出番がなく、それ以外は私と姉のおままごとに使われていた。いっとき、浦島太郎ごっこが流行り、その重箱は「玉手箱」として扱われた。箱には切れ端の白いリボンがちょうちょ結びで留められ、姉は乙姫様として「絶対に開けないでください」と渡し、私はいそいそと隣の部屋に持ち帰って蓋をとって「うぎゃああ」と叫ぶという寸劇が繰り広げられた。
今思えば大したごっこ遊びでもないのだが、なぜか私たちはその劇にのめりこんだ。スズランテープで腰蓑をつくり、乙姫様の後ろのふにゃふにゃした昆布みたいな謎の布をマフラーで見立て(
私たちの浦島太郎に対する情熱とリアルさは日を追うごとに増していき、最終的には玉手箱のモクモクの煙をどうにかして出せないかということになった。姉はドライアイスがいいと言った。今のようにおいそれとスーパーにあるわけでもなく、私たちはアイスクリームが買われる日を待った。当時、近くにあった駄菓子屋がアイスクリームも売っていて、持ち帰りを買うとついてきたのだ。
その日はついにやってきて、私たちは急いでアイスを食べきると、母にドライアイスをもらった。「玉手箱」に水を入れ、危ないからとゴム手袋でドライアイスをつかんだ。果たして水に浮かべると、煙のモクモクが出た。私たちは急いで下手と上手に分かれ、姉は「決して開けてはいけません」と言い、私は畏みて受けとった。いつも通り隣の部屋に行ったが、姉もやって来たので、乙姫と太郎が「玉手箱」を覗くという奇妙な光景になった。
蓋を開けたとき、私たちは歓声を上げた。だが同時に、意外にしょぼい感じになってしまったことにも気がついていた。互いにその微妙なモクモクに目配せしながらも、そのことには触れず、私は「うぎゃああ」と叫んで口のまわりに綿を貼りつけ、姉は鶴になって飛んでいった。
しかし、それが浦島太郎ごっこの最後の日となった。ドライアイスのせいなのか、重箱の底の漆が剥げてしまい、滅法界母に怒られたのだ。「玉手箱」のみならず、我が家では浦島太郎そのものが上演禁止となった。フィガロの結婚もかくやという厳しさであった。
時を経て、その「玉手箱」はいま我が家にある。もう使わないからと母が譲ったのだ。その重箱をもらった年、私はお赤飯と白いご飯の紅白おにぎりをつくった。母によればお赤飯には砂糖を隠し味で入れていたそうで、私も倣って同じようにつくった。「玉手箱」に詰め、いつかの夕飯に出した。重箱など見たことがなかったせいか、子供たちは蓋を開けると予想以上に驚き、おいしいおいしいと食べてくれた。つくりすぎたかと思ったが、あっという間になくなった。
私もひとつ食べたが、母の味ではなかった。時をどんなに重ねても戻らないものがある。私は剥がれたざりざりを指で撫ぜ、空っぽの玉手箱の蓋を閉じた。
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