素敵滅殺界

 エッセイなので時事ネタにノるのだが、某氏の発言の中の「素敵滅法界」が気になる。仏教用語としては「滅法」の方が先にあり、「法界」などの用例と結びついて「滅法界」が生まれたのではないかということ*1。日本国語大辞典の用例を見ると滑稽本などが並ぶので、江戸時代に生まれたか。「素敵滅法界」は用例を調べてみると、三好達治*2、夢野久作*3なんて名前も並ぶ。『明治大正落語集成』の第6巻にも検索で引っかかるので*4、江戸っ子っぽい使い方な気もするが、近代以降の用法なのではないか、とも推察する。少なくとも、全国的に広がるのは、近代のメディアの発達以降と考えてよいだろう。

 閑話休題それはさておき

 「素敵滅法界」は、私は今回浅学ながら初めて知ったが、「滅法界」はよく父が使っていた。父は九州の出であるが、東京の暮らしが長く、またそれに誇りをもっているような人間だった。

「イヤ、今日は滅法界さむいナ」

「コイツは滅法界な男だネ」

 べらんめえとまではいかないが、そういう端々に、彼の言葉へのこだわりを感じた。本と落語が好きで、書斎には壁のように物理的に書籍が積みあがっており、敬愛する五代目志ん生師匠のしわがれた声がよくラジカセから流れていた。

 そんな父は他人の指図を受けることが嫌いで、占いなんかもそのひとつだった。母はどちらかというと、そういう縁起のようなものを気にするタチだったので、彼女がそういう話を持ち出すと、露骨に嫌な顔をした。細木数子がブームになったとき、ご多分に漏れずうちにも彼女の本が置かれていたが、見るのも嫌だからとカバーをゴミ箱に捨ててしまったほどだった。

 ある日の夕餉、どうしてか話題が厄年の話になった。母は先述したようにそういう事柄が好きな人だったので、本厄がいつだとか、あそこの神社はちょっと安く厄払いしてくれるとか、そういう話をしていた。父はしばらく黙っていたが、「くだらん」と、話の切れ目に呟いた。

滅殺界、、、だかなんだか知らんが、そんなのは自分の生き方ひとつだろう」

 そしてまた黙り、ビールをぐいと飲み干した。滅殺界。私は母とちらりと顔を見合わせた。たぶん、「大殺界」のことと混同しているのだろうと想像がついたが、父はそういう指摘をすると不機嫌になることも知っていたので、私たちはとりあえず別の話題に変えた。父は食べ終わった後も、「オレは滅殺界なんて信じてないからな」と母に向かって言い、彼女はハイハイと適当に頷いた。

 それきり忘れていたが、正月の席で親戚が集まった折、また父の「滅殺界」が飛び出した。母の妹の旦那、つまり私の叔父にあたる人だが、彼は流行りものが好きで、酒の席で占いの話になった。叔父はずいぶん入れ込んでいるようで、私の生年月日を聞いては、本を片手に今年気をつけることや、結婚適齢期まで弾き出した。

 父はずっと渋い顔をしていたが、叔父は細やかな気遣いのできない人物なので、無遠慮に「お義兄さんも誕生日教えてくださいよ」と訊いた。さすがに父は場を弁えて、「オレは興味ないから」「いや大丈夫だから」と言っていたが、叔父は酒もあってか、しつこく話を続けた。我慢しきれなくなった父はついに、

「滅殺界なんてもの、オレは信じてないんだ!」

 と叫んだ。はらはらと経緯を見守っていた私たちは頭を抱えたが、叔父は笑い出した。

「違いますよお義兄さん、大殺界ですよ、大殺界」

 場が凍りつくというのはこういうときに使うのだと、私は実感した。父は顔を真っ赤にして、叔父は叔母に頭をはたかれた。そのまま席を立つんじゃないかと思ったが、面目の方が勝ったのだろう、お猪口を片手にむっつりと顔を逸らし黙った。たぶん、人生で一番気まずい正月だった。

 それから私は叔父が占った年齢とは全く関係のない時期に結婚し、厄払いも何もせずに人生を過ごした。不幸と幸福は適度に訪れ、それはたぶん父も一緒だった。まあ、万事そういうものだ。事象の総量はマクロでみれば平均化される。

 久しぶりに実家に帰った正月、父は孫と初詣に行った。帰ってくると、子供は開口一番「おじいちゃん大吉だったよ!」と私に教えてくれた。父は顔を隠しながら、本の壁が積まれる書斎へ引きこもった。私は、木の枝に丁寧におみくじを結びつける父を想像しながら、歳を重ねるのも悪くはないな、と思った。

 

 




*1 http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2010102600009.html

*2 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q116314576

*3 https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2093_28841.html

*4 https://www.google.co.jp/books/edition/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E8%90%BD%E8%AA%9E%E9%9B%86%E6%88%90/7CvUAAAAMAAJ?hl=ja&gbpv=1&bsq=%22%E7%B4%A0%E6%95%B5%E6%BB%85%E6%B3%95%E7%95%8C%22%E3%80%80%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3&dq=%22%E7%B4%A0%E6%95%B5%E6%BB%85%E6%B3%95%E7%95%8C%22%E3%80%80%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3&printsec=frontcover

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