エッセ異聞

坂崎かおる

眠る

 「特技欄」を書くのが苦手だ。

 アルバイトで、就活で、異動願いで、履歴書の「特技欄」の項目までくると必ず立ち止まる。名前、生年月日、経歴。すらすら書いてきたボールペンが、ぴたりと動かなくなる。世間の人々はどんなことを書いているのか。私は他人の履歴書を覗いたことがないのでわからない。というより、他人の履歴書を定量的に覗けるのは人事部ぐらいではないだろうか。

 特技がないわけではない。エクセルではVLOOKUP関数が使える。『ソフィーの世界』を小学生の時に読破した。嫌味を言われても気づかないでやり過ごせる。だが、その程度は「パソコンの先生」ではないだろうし、読書は趣味の範疇だし、長期的視点に立てば嫌味にはきちんと反論すべきだ。「特技」とは、日本国語大辞典によれば「他の者に比べ特に上手で自信のある技芸・技術・能力」とある。他者と比べて秀でている技となるとなかなか難しい。

 その中でも私が自信をもてるのが、「眠る」ということについてだ。

 結婚をしてから実感したのだが、どうやら世の中には「眠る」という行為に困難を覚える人間が存在し、そしてそれなりの数にのぼるという事実があるということだ。非常に能天気で失礼な話を承知の上で、私は「眠る」という行為で苦労したことがなく、そしてそれはこの上なく幸運であるということが、他人と暮らすようになってようやくわかった。

 枕が変わろうが高速バスの中だろうがアフリカだろうがテントだろうが、私はどこでも眠ることができた。眠れぬ夜、というのは、せいぜい遠足前に経験したことがあるぐらいだ。どんなに嫌なことがあった日でも、理不尽なクライアントに会う前日でも、とにかく眠れないということはなかった。さすがに歳をとったので、のび太のようにとはいかないが、布団にさえ入ってしまえばどうにかなるという自信がある。だがもちろん、そんなことを「特技欄」には書けない。公的な社会の場で「眠る」技術は必要とされていない。

 いや、一度だけ、書いたことがあった。

 大学生のころだ。私はとにかく働きたくなかったのだが、親の手前、とあるバイトに応募をすることになった。たいへん投げやりな字で投げやりな名前と経歴を書き、やはり「特技欄」で手が止まった。とは言っても、面目だけで受けるようなものだからと、「すぐ眠れること」と書いた。若気の至りとはいえ、愚かな話だ。

 しかし、何が良かったのか、面接をすることになった。私はマシに見える暗めの色の服を着て、新宿だったか、そのあたりの町へ向かった。

 場所がないということで、面接は職場の近くの喫茶店で行われた。店には、きれいに禿げあがった初老の男性がやって来た。役職は忘れてしまったが、店長とか、そういう類の人だった。ただ、苗字は簡単な漢字ながらも特殊な読み方をする字で、それは今でもよく覚えている。

「このたびはご応募ありがとうございます」

 彼はまず私に頭を下げたことが印象に残っている。応募をするだけでお礼を言われる驚きと、自分のような人間に対しても丁寧な対応を心がけているという態度に好感をもったからだ。

 面接自体は型通りだった。学校でしていることや、所属しているサークル、勤務できるとしたらいつからでどれぐらいか。そう言ったことのやりとりが一通り続いた後で、彼は私の「特技欄」に目を落とした。

「すてきな特技ですね」彼は言った。「眠れないことほど辛いことはありませんから」

 はあと頷いたが、もちろん実感はなく、いつごろ解放されるか、私は時間を気にし始めていた。

「私も、睡眠については特技があるんですよ」

 私の表情に気付いていないのか、彼はそんなことを話し始めた。「人生で目覚ましをかけたことがないんです」

 へえと私は答えたが、「そら嘘やろ」と内心思った。私は眠るのは得意だが、起きるのが苦手なのもあったからかもしれない。彼はまじめな顔をして続けた。

「たとえば、仕事の日は6時に起きるのですが、その時間になるとぴったり目が覚めるのです。それだけではありません」彼はお冷やを一口飲んだ。「例えばいつもより早く起きなければいけないときもあるでしょう? 1時間とか、2時間早くとか。そういうときも、目覚まし時計はかけません。その時間に正確に起きれるからです」

 すごいですね、と私はお義理な感想を口にした。彼はそのまま黙ったので、微妙な空白の時間が訪れた。私は場をつなぐように、「なにかコツがあるんですか?」と訊ねた。そうなんです、と彼は勢いよく頷いた。

「数を数えるんです」

「数?」

「頭の中で、数を数えるんです。例えば10時に寝たとしたら、6時までは8時間。秒に直すと28800秒。それを正確に数えれば、ぴったり6時に起きられるというわけです」

 私はいまいち話の要点がつかめなかった。数を数える? 28800秒?

「試してみましょうか」彼は腕時計を外し、私に見せた。盤面はストップウォッチモードになっていた。「60秒、数えてみてください」

 私の賛同を待たず、彼は「ヨーイ」と言った。慌てて盤面を私は見た。「ドン」と彼はスイッチを押した。それからしばしの静かな時間が流れ、彼が「はい」と声をかけたとき、確かにストップウォッチは1分を示していた。記憶違いでなければ、コンマ00まで合っていた。

「え、毎晩数えてるんですか」

「まさか」彼は笑った。「秒単位はさすがに疲れるので、普段は分単位でやってます。30分までだったら、秒単位で数えなくてもわかるようになってきました」

 聞きたいことはいろいろあったが、私は好奇心よりも若干の不安を覚えた。バイトの面接とはこういうものだろうか、毎回自身の体内時計の完璧さについて力説されるのだろうかと、恐怖すら覚えた。「それでは」と自分から言い出し立ち上がると、彼も一緒に立ち上がり、「今日は御足労ありがとうございました」と、また丁寧に頭を下げた。

 もし合格しても辞退しようと思っていたが、後日の電話であっけなく不採用になった。電話をかけてきたのは女性で、「申し訳ありませんでした」と何度か口にし、私は恐縮した。

 それから経済的事情で別のバイトを始め、大学を卒業し、仕事に就いた。「特技欄」は相変わらず苦手で、「基本的なエクセル操作」などと書いてお茶を濁していた。

 あの男性とは二度と会うことがないと思ったのだが、社会人になってから、姿を見た。見た、というか、それはテレビの中の出来事で、交通事故のニュースだった。朝のローカルニュースで、90代の男性を軽自動車が撥ねた、とキャスターが言ったあと、被疑者の名前を口にした。それは「簡単な漢字ながらも特殊な読み方をする」苗字で、直後の顔にも見覚えがあった。ジャンパーを頭からかぶってうつむいており、禿げているかどうか、あのデジタル時計をまだ使っているかどうかまではわからなかったが。

 被害者は足の骨を折る重傷で、被疑者の父親でもあるとキャスターは告げたのち、こう続けた。「事故の原因について被疑者は、寝坊をしたために急いでいて前を見ていなかった、と供述しているとのことです」

 それからニュースは地域の商店街の特集に変わった。私はしばらくその画像をぼんやり眺めていた。寝坊をしたために、、、、、、、、。私はあの喫茶店での、空白の60秒について思い出し、そして忘れようとした。

 その日の夜、布団にもぐったとき、眠れない予感が初めて、恐らく人生で初めて、私の頭をよぎった。試みに私は数を数え始めた。1、2、3、4……。300数えたところで枕もとの時計を見たが、思った時間よりも1分ほどずれていた。ため息を吐き、仕方なくあれこれと楽しいことでも考えようとしていると、いつの間にか眠りに落ちていた。何か夢を見たような気もするが、覚えていない。

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