カッカッカッカッ
爪木庸平
カッカッカッカッ
何の音かはわからない。どこから聞こえてくるのかも判然としない。頭の中で鳴っている気もするし、身体の外、遠いどこかから響いてくる感じもする。わからない何も。何もわからないことは問題ではない。
BPM、ビーツパーミニットゥという単語をたまたま知っていた。吹奏楽部に入ったのは偶然であったと思う。BPMを計ると百十ぐらいだ。テンポ百十ぐらいの曲をいくつか思い浮かべる。あるいはテンポ百から百二十ぐらいの曲のテンポを少し歪めて、百十の刻みに合わせて脳内で鳴らしてみる。
色々な音を聞いてきたと思う。多くの音のことを忘れた。これは忘れられない音だ、と思ったものも忘れた。感動した演奏会、亡くなった母の呼吸音、職場からの呼び出し音。これは忘れられない音だ、と思ったのに。
和歌を読む時にその情景で鳴っている音が聞こえてくることがある。海の音は特にそうだ。山の音も少しはわかると思う。私は都市で育ったが、奈良時代や平安時代に現代的な都市はなかったから、私が今聞いている音は和歌集にない。
心拍数としても考えられる。百十というのは少し速い気もするが、驚くほどではない。
苛立ってテーブルの脚に自分の足をぶつけることがある。俗に貧乏ゆすりと呼ばれるものだ。その音が耳にこびりついて、今も聞こえているのかもしれない。
体内について考え過ぎているかもしれない。私は私の身体についてあまり詳しいとは言えないが、私の身体以外についてはほとんど何も知らないようなものだから、必然、自分の身体に聞こえそうな音ばかり考えることになる。音を忘れたように、見たものや触ったものを逐一忘れてきた。和歌を読んでいるが、読んだ端から忘れていくので暗唱できるものはない。
バイト先のドアがキイキイと鳴る音が百十ぐらいだったかもしれない。あのドアのことはよく覚えている。ドアの重さが時給の重さであり、その手応えが労働の手応えだった。バイトの前後にはよく人に通話をかけた。寂しかったから。LINEの呼び出し音はよく覚えている。テテテテテテテテテテ。嫌な音。
とりあえず四拍子で聞こえてくるからカッカッカッカッと表記したが、区切りはどこで付けてもいい。表情のないただのパルスだ。
音のせいで眠れないということはない。夜はよく眠れる。枕を裏返しにする。なんとなく。パジャマは嫌いだ。ジャージで眠る。起きて、水を飲む。
主従を逆転させて考えてみよう。私が音を聞いているのではなく、音が私を鳴っている。宇宙には音が満ち満ちている。俺の宇宙では。
意味のないことを考えるのは意味のない音が聞こえてくるからだ。
私は無神経な人間だが、神経質な人が音が聞こえてきてうるさいと相談してきたらどうしようか。医者に行くことを勧めるだろう。医者はどう対処するのだろうか? 今度医者に会うことがあれば聞いてみようと思う。
音が聞こえてくることを誰かに相談したことはない。この文章が初めてだ。秘密にしておくほどでもないがわざわざ人に喋るほどでもないことがたくさんある。
音が聞こえなくなったら、音が聞こえていた時期に考えていたことも忘れてしまうだろうと思う。きっとそんな予感がする。音を忘れたように。
そして、それはそこまで悪いことではないと思う。
カッカッカッカッ 爪木庸平 @tumaki_yohei
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