6

 人間界に滞在するのは少しの間だけだと、ジンは言っていた。ということは、次に自分たちが来るときにはジンはいないだろう。また……人間界に来ることはないのかな、と思う。でも、ひいおじいちゃんと仲良かった魔界の王子は、その後こちらを訪れることはなかったみたいだから……。


 というか、おばあちゃんの言ってたあの話、本当なのだろうか。


「……夏が終わっちゃうね」


 ぽつりと、耕太は言った。特別な夏。今までになかった夏休み。それがあと、残りわずかになっている。


「そうね。夏休みが終わっちゃう」

「学校が始まるよ」


 翔は足を投げ出して、ため息をついた。「まあ、学校は学校で楽しいけどな」


 うん、たしかにそうだな、と耕太は思う。いつも、夏休みの終わりは憂鬱だけど、二学期が始まれば、それはそれで楽しくなってしまう。


 そういえば、芽衣から学校の話を聞いたことがないな、と耕太は思った。小学校のときは話してくれたけど、ここ最近は。中学になってから? まあでも、芽衣も僕に逐一私生活を報告しなければならない、なんてことはないから。


 大きくなるにつれて、こちらに話さなくなることも増えるのだろう。例えば――恋の話とかさ。それを考えて、耕太は少し赤くなった。彼氏ができたとかも……まあ報告する義務はないよな。


 なんだか寂しくなってしまう。耕太はちらりと芽衣を見た。芽衣は黙っていた。その目が、どこを見ているのかわからない。何かを考えているようだが、明るい表情ではなかった。


 ふいに、芽衣が遠くなったような気がした。


 ピアノの音がいつの間にか止んでいる。ジンはどこに行ったのだろう。




――――




 ジンは居間にいた。居間のソファに座っていたのだ。


 居間にいるのは、ジンと祐希だけだ。祐希が一人でピアノを弾いていたところ、ジンが入ってきたのだ。続けてほしいと言われたので、弾くのを続けた。一曲弾き終えたところで、祐希は椅子に座ったまま身体ごと振り返ってジンを見た。


 ソファはピアノに対して直角に置かれている。ジンの綺麗な横顔が見える。ソファに沈むように座り、ひじをついて頬に指を置き、一心に考え事をしているようだ。その表情がやや険しいものになっている。


 ジンがはっとして、祐希のほうを見た。音楽が止まったことに、ようやく気づいたようだった。


「浮かない顔してる」


 祐希がジンに言った。「どうしたの? 悩み事?」


「いや……うん、そうではないが……」


 ジンは言葉を濁した。


「訊きたいことがあるんだ」


 率直に、祐希は言った。ジンについて気になっていたこと。


 耕太たちから魔物だという青年を紹介されて驚いた。つい昨日のことだ。そして彼の起こす不思議な出来事を体験した。いつの間にか自分はそれを受け入れている。


 祐希はジンを見た。この美しい顔をした謎めいた青年に、自分は惹きつけられている。よいやつなのだと思う。昨日は一緒にゲームをして遊んだ。屈託なく、楽しんでいた。無邪気に笑って、心の底から喜んだり驚いたり悔しがったりしているようだった。


 けれども――わからないことがたくさんある。


「君は何をしにここに来たの?」


 祐希は尋ねた。ジンが意外そうな顔をする。


「言ったじゃないか。修行のためだって。私は魔界の王にならなければいけないから――」

「そうだね。でもそれだけじゃないよね」

「それだけだ」


 ジンがわずかに不快そうな顔をした。気にせずに、祐希は続ける。


「僕は――なんていうのかな、人よりちょっと勘が鋭いんだ。君は何か隠し事をしている。僕らに対して」

「そんなことはない」


 ジンが立ち上がり、祐希のほうに近寄った。ピアノのそばに立ち、祐希を見下ろす。


 居間は静かだ。夕暮れ時ではあるが暑さは相変わらずで、熱を持った空気が淀んでいる。みなこの暑さにうんざりして、どこかでまどろんでいるのかもしれない。この家の人びとも、その外に暮らす人びとも。人間たちだけでなく、他の生き物たちもまた。


 祐希はジンを見上げた。


「君はたぶん――何かを探しに来たんだ。何かを求めてる」


 ジンが動揺し、顔をそむけた。ピアノの上に並べられた小物を見ている。ガラスでできた小さな犬たちだ。そしてそれを一つ掴み、苛立たし気にいじった。


 ジンが何も言わないので、祐希は話を続けた。


「君が何を欲しがっているのか、僕にはわからないけれど。でももし僕がそれを提供できるなら、そうしたい。僕は君の力になりたいんだ。僕は――君が好きだからね」


 これは本当の気持ちだった。自分はこの魔物に好感を抱いているのだ。


 ジンはさらに動揺したようだった。ガラスの犬をまた元の位置に戻す。そして祐希のほうを見た。その表情は、うろたえ混乱し、泣き出しそうにも見えた。


「もう、もらったんだよ」ジンは言った。まるで小さな子どものような声だった。「それはもう、もらったんだ」

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