6

 白い光が重なった手から放たれる。辺りの物音が遠のき、静まり返る。耕太はめまいを覚えた。身体が浮かび、ばらばらになるような気持ちがする。混乱が訪れ、そして、意識が遠のき、何も考えられなくなった。




――――




 気がつけば、どこかに立っていた。屋外だ。暗い。どうやら夜のようだ。


 耕太は辺りを見まわした。ジンがいる。芽衣もいる。さっき、離れにいたときと同じ格好のまま。けれどもここは離れではない。


 多くの建物が見えた。丸屋根と平たい屋根。背の高いやしの木。ここは――おそらく、アラビアンナイトの世界だ。


 夜ではあるが、真っ暗ではなかった。けれども空には細い月しか出ていない。星がうるさいくらいに散っている。ほのかに明るいが、何故明るいのかわからなかった。夢の世界だからかもしれない。


「ジン――」


 耕太がそっと、ジンに声をかけた。ジンが得意そうな顔をしている。


「どうだ。望む世界に連れてきたやったぞ」

「……うん、すごいよ! ほんとにアラビアンナイトの世界!」


 耕太ははしゃいだ。芽衣が覚めた声で言う。


「よかったわね。ところで、私はだしなんだけど……。靴はいてくればよかった」

「靴を出してやろう。耕太、頭の中で、靴が欲しいと強く念じてごらん」


 ジンに言われ、耕太は実践した。靴。夏に、芽衣と自分が履いてるサンダルを思い浮かべる。と、たちまちそれが目の前に現れた。


「すごい! 頭の中で欲しいものを思い浮かべれば、それが全部出てくるの?」


 サンダルをはきながら、耕太がジンに尋ねた。ジンは少し苦笑する。


「そうでもないさ。ただこれは君の夢だから――君の願いが通りやすいというところがある。いつも上手くいくとは限らないが」


 耕太は辺りを見まわした。そして、何か大きなものが、こちらに近づいてくることに気づいた。耕太は注意してそれを見て、そして、驚きのあまり目を丸くした。


 トラだ。大きなトラが、足音も立てず、ゆっくりと優雅に歩いてくるのだ。


「大きな猫!」


 ジンが悲鳴を上げた。そしてどうやったのか、近くにあったヤシの木に、たちまち登ってしまった。ヤシのてっぺんから、ジンの声が降ってくる。


「その猫がいなくならない限り、私はここから降りないからな!」

「ただの幻なのに……」


 芽衣が言う。


「幻でも怖いものはあるよ」


 そう言って、耕太はトラに近づいた。実際のトラを間近で見たことがないので、その大きさがどれくらいかは知らない。けれどもここにいるトラはとても大きかった。


 琥珀のような色をした目が、じっと耕太を見ていた。怖くはなかった。夢の世界の生き物であることがわかっているからだろうか。また、トラはとても穏やかな表情をしていた。


 手を伸ばして、トラの毛に触れる。そっと頬の横を撫で、両手を首に回した。トラはじっとしている。嫌ではないらしい。毛は、柔らかいとは言い難かったが、肌に触れても不快ではなかった。身を寄せるとトラの体温が伝わってくる。


 たぶん、僕が乗れるんじゃないかなあと、耕太は思った。とても大きいもの、このトラ。そこで、トラから身を離し、芽衣に声をかけた。


「ねえ、このトラに乗ってみようよ」

「乗れるの?」


 芽衣が驚いて近づく。


「乗れるよ。たぶんね。大きいし、大人しくていい子だし」


 耕太はトラを見て言った。「背中に乗っていい?」


 トラが頷いたような気がした。錯覚だったかもしれない。けれども耕太はトラが了承したものだと受け取って、背中へと回った。


 腕に力を込めてよじのぼる。案外と上手くいった。夢だから、いつもとは身体能力が違うのかもしれない。トラの背にまたがり、笑って、芽衣に声をかけた。


「おいでよ。一緒に空の旅に行こうよ」


「空の旅って」芽衣もまた笑いながら、耕太の後ろに乗った。「このトラ、飛べるの?」

「飛べるよ」


 そんな気がしたのだ。そして、強くそう思えばいいのだと気づいた。サンダルが出てきたときみたいに。これは夢の世界なのだ。強く望めば、それが叶う。


 トラが動いた。最初はゆっくりと。二歩、三歩と歩き出す。次第にそれが早くなり、駆け足になった。芽衣が声を立てて笑い、耕太にしがみついた。


 耕太もぎゅっとトラの毛を握った。トラが走っていく。そしてついに――ふわりとその身体が浮いたのだ。




――――




「素敵!」


 芽衣が声をあげた。耕太も何か言いたかった。けれども何も言えなかった。言葉が出てこないのだ。


 トラが飛んでいる。子どもたちを背中に乗せて。心なしか、空の星々が近くなったような気がする。


 下を見れば、やはりほのかに明るくて、町の様子がよく見えた。高いところはあまり得意ではないはずだったが、耕太はなぜか怖くなかった。やはり夢だからかもしれない。


 平屋根の建物から人々が出てくる。その上をトラが駆けていく。「あれは市場?」と芽衣が訊いた。向かう先に、明るく賑やかな場所が見える。


 人がたくさん群れていた。店が軒を連ねている。提灯のようなものがぶらさがり、ひときわ明るかった。金属細工の店があり、あまたの装飾品が光の中できらめいている。その隣は美しい布を売るお店。その隣はなめらかな肌の什器がいくつも並べられている。


 香辛料を売るお店、鍋などの生活用品のお店、美味しそうな匂いが漂ってくるお店。その中を人びとが歩いている。すっぽりとベールに覆われた女性たち。そぞろ歩く男性たち。ロバを連れた人、籠をしょった人。急ぎ足の人、特に目的もなさそうな人――。

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