白髪の愛人

雨玉すもも

白髪の愛人

 ――愛の人なんだなって思いました。

九十半ばの歳なのに、少女のように見えたんです。

黒い髪が一本もない綺麗な白髪はくはつの小柄のお婆ちゃんを――


「ボンジュール」


 初めて交わした言葉はフランス語でした。

まさか外国人だったとは、と思った私にしてやったり顏でにやりと笑った婆ちゃんは緑色の目をしていました。


「うふふっ、これね、カラコンなの」


 お洒落のつもりか、私が来るとわかっていてのおふざけ、お茶目だったようです。


「……純粋な日本人、ですよね?」


 戸惑う私は確認のために聞いたけれど、婆ちゃんは、うふふ、と笑って、上がんなさいよ、と広い玄関から奥へと行ってしまうので慌てて、お邪魔します、と呟きながら婆ちゃんの後を追いました。

婆ちゃんの家は旧家のような大きな日本家屋で、部屋数も多く広く、縁側には素敵な庭がありました。

その突き当たりは離れのようで私はその一室に荷物を置き、また婆ちゃんに手招きされて茶の間へと移動しました。

掘りごたつが気持ち良いです。

冷たい麦茶と水羊羹を出してくれてそこでようやく、私は自己紹介を始めました。

婆ちゃんと会うのは実は初めてなのです。

かいつまんで言うと婆ちゃんは私の曾祖母くらいにあたる人で、詳しく言うと父方の叔父の嫁のとまだ続くので以下省略。

都会の雑踏に疲れた私は大学の夏休みを利用して、田舎に住む親戚でもいないかと母に尋ねたのが始まりです。


「あたしは清子きよこ。ねぇ、ここに来たのは傷心旅行?」


 ずずず、と婆ちゃんは麦茶を飲みながら聞きます。

清子って名前なのだと初めて知りました。


「ち、違いますけど」


 本当にただ静かなところに行きたくてここを選んだのだけれど、婆ちゃんは何を思ったのかこんな事を言いだしまして。


「ふぅん、処女?」


 さすがに麦茶をふき出しそうになりました。

なんて事を聞くの、と。


「なるほどなるほど。じゃあ、あたしは畑に行ってくるからゆっくりしてなさいな」


 どちらの納得か、婆ちゃんはささっと用意すると足早に畑へ出かけてしまい、一人残された広い家は、しん、としていて、最後の水羊羹を口の中に放り込んだ私は咀嚼そしゃくしながら携帯電話を取りに離れへ向かいました。

その道中、と言っても縁側だけれど、その外を見て私は足を止めました。

網戸も何もない開け放たれた縁側の外は明るく、庭には多くの花が植えられていて、小さな風鈴が頭上で鳴っていました。

何だろう、懐かしい感じと心地良い感じは、と思いました。

置かれていたつっかけに足を通し、縁側に座り私はそれらを眺めました。

りんりん、となる風鈴と草や土の匂いを運んでくる風が気持ち良くて、そのまま体を後ろに倒した私は夜、婆ちゃんに起こされるまで寝てしまっていたのでした。


 ※


「──ここよ、あの愛人のお宅」


「大きなお宅よねー、いくら貢いでもらったのかしら」


 庭の垣根越しに嘲笑する井戸端会議が聞こえてきたのは私が婆ちゃんの家に来てから四日経った頃でした。

すっかりお気に入りの場所となった庭で煙草を吸いながら花壇の草取りをしていた私は聞き耳を立てます。

愛人、金、元伯爵家。

そんな単語が和気藹々わきあいあいとした会話にありました。

婆ちゃんの事だよね、とホースを手に取り蛇口を捻って水を出したのを垣根の向こうの人らにも聞こえていたようで。


「あら、聞いてたなんていやらしい人ね、さすが愛人だけあるわ」


 イラッとしたので水をかけてやろうかとした時、男の声が聞こえてきました。


「厭らしいのはどっちだよ、聞えよがしに毎度同じ話題で飽きねぇの? みっともね」


 痛い所を突かれたおばさん達はそそくさと退散したようで静かになりました。

私はすっとしていました。

よく言ってくれた、と。

男の人は誰だろう、と少しばかり気になったけれど、私は気にせず水やりを続けました。

すると庭の垣根の間にある裏口のような戸が勝手に開いたのです。


「ちわーっす、米持ってきたぜー。んぉ? 清子さんが若返ってる」


「……婆ちゃんなら再放送のドラマ見てる」


 私と同い年くらいの男が米袋を肩に担いで入ってきました。

さっきの人でしょう。

少し離れた商店の人か何かかと横目で見ていると、男は私をじろじろと見てくるではないですか。


「あんた、誰?」


「……あんたこそ。私は婆ちゃんの……ひ孫の、ような」


  鈴木すずきと名乗った男はやはり商店の人で縁側に米袋を置いて勝手に座りました。


「さっきの話、聞いた?」


「……婆ちゃん、愛人なの?」


 私は婆ちゃんが愛人だったなんて知りませんでした。


「うん。清子さんは昔からここに住んでて、ああいう陰口ばっか言われてる。愛人ってだけでき下ろされてんだ」


 仕方ないのかな、と私は煙草の煙を吐きました。

こんな片田舎で醜聞しゅうぶんが立てばすぐに広がり、み嫌われてしまいます。

愛人はそんなイメージです。


「何も知らない癖によ……腹立つ。だから俺、清子さん守ってんだ。大好きだし」


 よっ、と立ち上がった鈴木は縁側から家に上がり、清子さん麦茶―、と行ってしまいました。

何も知らないって何だろう、と私はホースから出る水で短くなった煙草をじゅっ、と消したのでした。


 ※


 鈴木は婆ちゃんの友達みたいな人でした。

配達だけではなく、今のように晩御飯を食べに来たりだとか。


「すき焼き美味ぇ」


 確かに美味しいけれど、と私は肉ばかり食べてる婆ちゃんをちらちら見ていました。


 婆ちゃんは愛人。


 それがひっかかって、でも聞く事も出来ず、この家に来てからもう十日が過ぎようとしています。


 晩御飯を食べ終え、私は夜風が涼しい縁側で煙草を吸っていました。

渦巻いている蚊取り線香からも煙が出ています。


「ビール。飲めないとか言わねぇよな?」


 鈴木は最初と変わらず馴れ馴れしく、俺も煙草、と隣に腰掛け、かしゅん、と私はビールのプルタブを開けました。

冷たく苦い炭酸が喉を刺激します。


「気になってるのに聞かないんだな」


 あー、と言葉を濁す私に鈴木は、聞けばいいのに、と煙草に火を点けます。


「じゃあ、教えてよ。知ってるんでしょ?」


 婆ちゃんが愛人になった理由です。

鈴木は、清子さんが好きになった人が結婚しててその人も清子さんを好きになっただけだ、と不足過ぎる説明をしました。


「この家の垣根かきね、凄いだろ? の自分を守るために作ってくれたんだって」


 垣根のノウゼンカズラが夜風になびいています。


「貢がせたわけじゃないって、終わりにしようって言った事もあるって。だけど無理だったんだと。お互いにな。だから清子さんはここに居るんだって。今でも、その人を待ってるんだって」


 お互いにそうなら一緒になる方法が他にもあったはずだ、と私は思いました。

けれど相手が元伯爵家という噂が本当なら、それは叶わなかったのかもしれません。


「……何て言うか、強いね、婆ちゃん」


「ふっ、いい女だよ」


 、と鈴木は付け加え、ごろん、と縁側に寝そべりました。

私は煙草の灰が膝の上に落ちるのもお構いなしに固まっていました。

約束をしたのかはわからないけれど、婆ちゃんは二人の居場所となるはずだったこの広い家を離れる事なく待っていたのです。

いつか来ると信じて、ずっと、一人きりで。


「俺は、何て女だ、って思ったよ。七十も年上の婆さんだけど、どんな美人よりも惹かれちまった」


 それから友達になったんだ、と鈴木は灰皿に煙草を押し消しました。


「……なんだ、あんたが婆ちゃん好きって、そういう事」


 てっきり婆ちゃんを恋として好きなのかと思っていたけれど、杞憂きゆうでした。


「ああ、俺、ゲイだから無理だぜ。何お前、俺に惚れ気味だった? 悪いな」


「酷い勘違い。それに私……私、男の人好きじゃないから」


 あっそう、と鈴木はそれ以上何も聞かずに微笑むので、私も、ふっ、と笑ってしまったのでした。


 ※


 人に髪をいてもらうと気持ち良いのはどうしてでしょうか。

私が全く髪に気を使わないので、私の後ろに回った婆ちゃんが私のショートボブの髪にくしを通してくれています。


「良い匂いねぇ、艶も出るし。うん、綺麗」


 婆ちゃん愛用の椿油のおかげです。

じゃあ交代ね、と婆ちゃんが言うので私は婆ちゃんの後ろに回りました。

小さく華奢な肩に真っ白の髪が下りています。

いつもお団子に結っているのでわからなかったけれど、結構長いんだ、と思いました。おずおずと私は婆ちゃんの白い髪に櫛を通します。


「……ねぇ、婆ちゃん」


「うん?」


 婆ちゃんの顏が前に置いた鏡に映っています。


「婆ちゃんさ……一人で、さびしくない?」


 婆ちゃんの白い髪は細く、猫っ毛なのか、ふわふわと柔らかいです。


「うふふっ、なぁに? 寂しい事なんてないよ。鈴木ちゃんが遊びに来てくれるし、今はあんたもいるじゃない」


 そうじゃなくて、と叫びそうになった私は、ぐっとこらえました。

来ないなんてもうわかっているはずなのに、どうしてこんな不毛な事を続けるのかわからなかったからです。

すると婆ちゃんは、もういいよ、と言い、ちゃちゃっと慣れた手付きで結髪けっぱつし、こう言いました。


「わかってるよ」


 振り向いた婆ちゃんの目は微笑んでいました。


「あたしの中にあの人がいるの。だから平気さ。あたしは幸せだよぉ」


 私の髪をさらりと撫でる婆ちゃんは、ただ、その人を一途に想っていたのです。

噂や評判なんかを物ともせずに、何十年もです。

婆ちゃんは強いよ、強過ぎだよと私は俯きました。


「あんたも色々あるんだろうねぇ……でもそれは皆、経験がまずしいから知ろうとしてるだけなの。あんたを茶化すのは興味津々だからなの。あたしのようにね」


 もしかして、処女、と聞かれた時にはもう婆ちゃんは見抜いていたのかもしれません。

私が男の人を愛せない事をです。

婆ちゃんは、言いたい奴には言わせておけばいい、わからない奴はほっとけばいい、と言いました。


「わかってくれる人は必ずいるよ。あんたを好きだと言ってくれる人が必ずいるよ──」


「──俺とか?」


 いつの間にか鈴木が家に上がっていました。

美味い日本酒持ってきたぜ、と掘りごたつに座ります。


「俺はまぁ、お前の気持ちは大体わかる。怖ぇ、とかな」


「……うん」


 そう、怖いんです。

嫌われるのが恐ろしいのです。


「お前だけじゃねぇ。皆、何かしらあるし抱えてるさ。それでも俺は清子さんが大好きだし。お前の事も多分……好きになる、かも……まぁ、俺に酒で勝てる奴は早々いねぇしよ」


 鈴木は歯を見せ笑います。

照れているのでしょうか。

私も釣られてはにかんでしまいました。


「曖昧。でも、そうだね。私もあんたは男だけど、別に嫌いじゃない。うん……皆を嫌いなわけじゃないよ」


 続けて婆ちゃんも、あのやかましい人らも万年生理不順でストレス抱えてると思えば可愛いもんだよ、ブスにブスの磨きかけちゃってあれらも年だしもう治らないよねぇ、と辛口を叩くのでのでまた私達は笑ってしまいました。


「婆ちゃん……またさ、ここに来てもいいかな?」


「今度はいい人も一緒に連れておいでなぁ」


 よいせ、と立ち上がる婆ちゃんは、お酒お酒ー、とはしゃぎながら台所に行ってしまいました。


 開け放たれた縁側から涼しい夜風が入ってきます。

りんりん、と風鈴が鳴り、ノウゼンカズラが揺れています。 


「……飲もっか」


 おう、と鈴木は一升瓶の蓋をぽんっ、と開けました。

用意を手伝おうと台所に行くと、食器棚からぐい飲みを出している後ろ姿がありました。

結われた白髪がとても、綺麗でした。

私は後ろから婆ちゃんを抱き締めました。

小さくて、華奢で、椿油の良い匂いがしました。


「私、絶対また会いに来るからね」


「うふふっ、あたしはいつまでも待ってるよぉ」


 愛の、人でした。

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