第17話
【〈テスタメント〉開始から一ヶ月後】
この頃になると、跡永賀は外へ出なくなった。悪あがきのように、人通りの多いところで知り合い探しを試みたが、キョロキョロするだけで見つかるわけもなく、無駄足であった。それどころか、方々から聞こえてくる笑い声や悪口が、まるで自分に対する嘲笑であるかのように感じてしまい、余計に憂鬱になった。無様な道化になるよりは、ひっそりと閉じ籠っていた方が傷は浅いのだ。
一日一回の配給にしても、現実のようにわざわざ配給所で並ぶ必要はない。各人が初期機能として持つアイテムボックス――アイテムを収容する異空間――に送られてくるのだ。
そうして支給された簡素な食料――ブロックタイプの栄養補助食品のようだ――を座ってかじり、布団を頭から被る。そしてじっと壁の掛け時計を見続けるのが、跡永賀の新しいライフスタイルであった。
惨めというのは跡永賀自身、よくわかっていた。普段なら、こういうことをしていた兄を怒る立場にいたのだから。
しかし、他に手がなかったのだ。ゲームらしく冒険に出かけるという考えも、なかったわけではない。なかったわけではないが……
跡永賀は自身の体を掻き抱く。その感触は、現実そのものなのだ。
受ける痛みは、リアルと同じ。
ただのゲームなら、無謀に未知へ突入できただろう。どんな目に遭おうが、文字通り痛くも痒くもないのだから。最悪死んでも、リトライかリセットで簡単にやり直せる。後には引きずらない。
だが、ここでは……
予想される惨状に跡永賀は身震いする。通常の人間なら、それでも挑戦したかもしれない。しかしこの病弱な少年は、そうはならなかった。生まれてこの方、運動という運動――肉体的な経験をしてこなかったのだ。すぐに悲鳴を上げる体を労るあまり、疲れや痛みから遠のいてしまっているのだ。体を使って学ぶあれやこれやが、彼にはあまりに乏しかった。常人に比べれば、皆無に近い。そんな脆さで今までやってこられたのは、家族の支えがあったからだと、ようやくになって跡永賀は思い知った。
虚弱でも快適な環境を用意・維持してくれた両親、家にいても飽きないよう娯楽を提供してくれた兄と姉。
自分は、家族皆に守られていたのだ。
「会いたい」
皆に。
「帰りたい」
あの家に。
食べ物が口から滑り落ち、畳の上を転がる。遅れて、水の点が散っていく。
涙が溢れるのを止める気にはなれなかった。それを咎める者も慰める者もいないのだから。
自分がどうなろうと、ここでは誰も気にかけてくれないのだから。
「もう嫌だ、こんなの」
一ヶ月でこれだ。半年など、とても耐えられるはずがない。しかし、どうしようもなかった。自分の意思では、やめられないのだから。
「…………いや」
ある。
たった一つ、この地獄を終わらせる方法が。
布団を抜け、ふらふらと立ち上がった跡永賀は、戸棚を開けた。そこにあった軽作業用の紐の束をほどく。何度か強く引っ張り、その丈夫さにズレた安堵をしながら天井の梁に括りつける。後は頭より上のところで輪を作ればいい。
痛いのは嫌だ。かといって、こんな怖いのも嫌だ。だったら、痛みのない死を……
ここでの死が、強制ログアウトなのか、期間終了まで意識不明になるのかはわからない。ただ、どちらにしてもここでの生活は終わる。さっさとリアルに帰られるか、終わるまで眠っているかの違いだ。
戸惑いがなかったわけではない。しかし、この孤独に比べれば……
怖くはなかった。
輪に首を引っ掛けるように地を跳ぶと、勢い良く首は締まる。何かの本で読んだ通り、痛みはない。最初に息苦しさがあるだけで、後は意識が遠のいていき……
視界は黒く染まる。
やがて振り子のごとく揺れていた身は、その命とともに止まった。
…………。
…………。
…………。
結論を言ってしまえば、現実への帰還も、永劫なる沈黙もなかった。
二四時間の行動不能。
それだけだった。
さらに言えば、それも意識不明だったわけではない。二四時間経過した瞬間、それまでのことを追体験するので、時間潰しにもならない。感覚的には今までと同じなのだ。
いや、むしろ悪い。二四時間後のリスポーン(ゲームの再開始)で、本来味わうはずのない、死んだあとの感覚が襲ってきた。手や足が痺れ、体が冷たく固まっていく。後半にいたっては、体中の壊死だけでなく、腐敗さえも体験することになり……
正直、二度とごめんであった。
どうにか自分で作った絞首の輪から抜け出し、跡永賀はゴホゴホ息を吐く。体は健康なものに戻っている。どうやら、二四時間経つとステータスは元に戻るらしい。
「結局、このままなのかよ」
振り上げた拳が畳を叩く。
それから二ヶ月が――プレイ開始から三ヶ月が過ぎた。
跡永賀の心は、もう死んでいた。
喰い散らかされた食料の中心に横たわり、光の消えた瞳が何を映すでもなく宙を眺める。この状態は、跡永賀がたどり着いた最善の策であった。苦しみを心ごと消して、時が過ぎるのを待つ。喜怒哀楽の一切がない、無心の状態。食事も、もうほとんどしていない。頬は痩せこけ、体力は初期ステータス以下となっていた。しかし、そんなことは跡永賀にとってはどうでもよかった。自らを苦しめる冒険や戦闘など、彼の選択肢にはないのだから。
残りおよそ三ヶ月、最も苦しみのない生き方ができれば、それでいいのだから。
もう変化を求める気はない。
ただ、流れに身を任せるだけ。
『オラ、さっさと出てこい!』
沈殿していた跡永賀の意識が、外からの怒号で引き上げられる。
「あ……?」
無意識に、声が出た。そこで跡永賀は、自分の声を久しぶりに聞いた。
「あ、あ……」
声の出し方を忘れ、まるで意味のない言葉を吐き出しながら跡永賀は立ち上がろうとする。しかし、ダメだった。衰弱した肉体が、もう自重さえ支えられない。なんとか壁を頼りに立ち上がった跡永賀は、そのまま窓を見る。
どうやら、隣の家の前にいる男が、声の主らしかった。
『このアーサーキング様の言うことが聞けないってのか!』
金色の長髪で碧眼の、青年の容姿であった。その男は、持っていた剣で扉を壊し、中へズカズカ入っていく。数秒の後、悲鳴とともに女が一人引きずり出された。数ヶ月前に一度話したことのある、あの女性だ。
『やめてください。私が何をしたっていうんですか』
『そうだな。強いて言えば、俺様への敬意と献身が足らんな。お前もそう思うよな? わかったら速く有り金とアイテムすべて渡せ』
『そんな……』
女性は、助けを乞うように周りに目をやる。しかし、通行人はもちろん、周辺住民でさえ見て見ぬふりであった。
所詮は他人。
救う義理などないのだ。
あの女性だって、自分に対してそうであったではないか。
「あ、あ……」
跡永賀が助けなきゃと思ったのは一瞬だった。すぐに心は恐れで折れ、よろよろと反対の窓から身を投げ出す。着地に失敗し、無様な姿とうめきを晒しつつも、どうにか壁を伝って歩き出す。
それから十数分後、遅れて自分の部屋が荒らされるのを、跡永賀は物陰から確認した。
少年は、とうとう帰る場所さえ失ってしまった。
風の便りによれば、最近、ああいった悪質なプレイヤーが急増しているらしい。プレイ開始時の手探り状態から一応の安定を得て、次第に世界は無法状態のそれへと変化しているそうな。リアルでのフラストレーションや抑圧された願望もあってか、その暴虐な行為はどんどんエスカレートしているらしい。
普通なら義憤に駆られるようなシチュエーションであろうが、あいにく自分にはそこまでの気概もないし、それを成す力もない。跡永賀は沈んだ心でそう納得し、人通りのない路地裏を仮の住まいにした。
「ああ……」
何日ぶりかもわからぬ食事をする手は、もはや骨と皮しかない。支給品には対象のステータスが影響するのか、配給された食料には固形物はなく、チューブタイプのゼリーに替わっていた。
ギリギリ残っていた吸う力で、どうにか胃に流し込む。味はよくわからなかったし、わかる気もなかった。
とりあえず生きている。
死にたくないから生きている。
それだけだった。
薄汚れた塀を背に座り、跡永賀は頭を垂れる。ふと、家族や恋人はどうしているのか気になったが、それを考える気力もないことに気づいた。そして、彼らの声や顔もぼんやりとしか思い出せないことにも気づいた。
せっかく手に入れた健康な体も無駄になってしまった。
健康な体なら、皆と一緒に遊べると思ったのに。普通の人間として、一緒に行動できると期待したのに。
跡永賀は自身を嘲笑しようとしたが、頬が動かなかったので諦めた。
落ち込んでいた視界に、自分の手が映る。皆とのつながりを感じていたそこには、もう何もない。繋ぐ手が、繋がっている相手がいない。
これが独りということなんだ。
跡永賀は悟り、手を握り締める。骨と皮の冷たく硬い感触しかなかった。血や肉の暖かさや柔らかさなど、どこにもない。
悲しみがあるだけだった。
それを最後に、跡永賀の心は再び消えていく。
「ぷるる」
それを阻止するように、服の袖が引っ張られる。跡永賀はそちらを向く。
「ぷるる」
丸いピンク。大きさはバスケットボール程か。まるで生首が一個の生命になったようなそれ。触ってみると、ゼリー質のようである。
ああ、そうか。
跡永賀はすっかり鈍くなった頭で理解する。
これはきっと、モンスターなのだ。
ここにおいて、プレイヤーと対峙する存在。
自分は襲われているのだ。
かといって抵抗する術はない。もとよりそんな気はないが、改めて跡永賀は観念した。
好きにするといい。
「ぷるる~」
しかし来るであろう攻撃はまったくなく、このモンスターは自分に擦り寄るだけだ。
「ぷるる~」
何かをせがむように服を引いている。その挙動を観察していた跡永賀は、ひとつの可能性に行き着いた。
「…………」
「ぷるる!」
懐から取り出した食料に、桃色のそれはつぶらな瞳を輝かせた。
「…………」
キャップを外して口に運んでやると、それは喜々として食べ始めた。「ぷるる~」
空になったパックから離れ、頬を膨らませたそれは嬉しそうに跳ねた。満足したらしい。
「ぷるる」
そのまま跡永賀の膝に乗った桃色のゼリーは、そこでまぶたを閉じた。
「…………」
やがて聞こえる寝息に、跡永賀は呆気にとられた。襲われるかと思ったら、すっかり懐かれたらしい。それとも、いつでも襲えると判断し、見逃しているのだろうか。
恐る恐る、その体を撫でる。気持ちよさそうな声を出すばかりで、何も起こらない。
跡永賀は、わずかな希望でもって、それを抱きしめた。
もしかしたらこれからは、少なくとも今だけは、
自分は孤独じゃない。
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