第16話(第3章)
送られてきた腕時計型機器――〈
「そろそろか」
自室で一人、跡永賀は掛け時計を見上げる。短針と長針はいよいよ〝12〟で合流する。
…………重なった。
見届けた後、無意識にしたまばたき。
次にまぶたが上がった時、そこにあったのは闇だった。
さっきまでいた部屋に、自分はいなかった。
『〈テスタメント〉へようこそ』
振り向くと、そこにいたのは若い女性だった。格調高いエプロンドレスに身を包み、長い髪を左右に分け、前に流している。
『これより、キャラクタークリエイトに移ります』
無表情で機械的に、彼女は口を動かした。
「あ、あの」
跡永賀は暗闇の中、まるで宇宙空間に放り出された心地に落ち着かないものを覚えた。
『すでに説明すべき事柄はプレイヤーにインストールされています』
「え、あ……」
跡永賀はぺたんと自分の頭に触れた。見覚えがないはずなのに、いつの間にか〈テスタメント〉に関する知識が脳に入っていた。
いや、入れられていた。
『よろしいでしょうか』
「あ、はい。すいません」
キャラクタークリエイト。これから操作することになる自分の分身――アバターの作成。身長や体重はもちろん、声色や毛髪――性別まで自在である。悩むかと思ったが、そこまで迷わなかった。どうも深層心理まで知られているらしく、目の前のメイドの案に跡永賀は頷くだけでよかった。
『名前はどうされます?』
「あー、『アトエカ』でいいです」
いっそここで普通の名前を――とも思ったが、結局思いつかなかった。いざとなると、欲というものは案外主張をしないものだ。
『最後に確認しますが、当プレイは体感半年間、現実時間にして一日を予定しています。了承されますか』
「ええ、はい」
あっちの自分がどこまで忠実に日常生活を送れるかわからないが――向こうもわからないからこういったテストをしているのだろう――、今日は土曜で明日は日曜、貴重な休日ではあるが、一日くらい無駄になっても大した傷ではない。
「あ、あの。一つ聞いていいですか」
『なんでしょうか』
最初からずっとの無表情で、彼女は跡永賀を見る。
「なんでこういう……金にもならないことをするんです? あ、それとも追々儲けられるようになってるとか?」
そういった知識はインストールされていなかった。プレイに必要がないからであろうか。
『我々が〈テスタメント〉で経済的成功を収めることはありません』
「じゃあなんで」
『知りたいのです。このシステムの成果はもちろんですが、何より人が未知の世界で、どのような行動――適応をするのか』
「そのために無料で――赤字覚悟でこんなことを?」
『どんなに高性能なコンピューターでも、どんなに高精度なシミュレーターでも計れないもの――それがヒトですから。実際にやってみなければ、わかりようがない』
筋は通っている。完全無料で広く人を募る。基礎となるデータは無限――土台となる設備には限界があるが――、どれだけ人が増えても、手間はそこに比例しない。
『質問は以上でよろしいでしょうか。すでに通知した通り、我々とのコンタクトは、これより半年後、テストプレイ終了まで機会がありません』
「じゃあ、最後に。このゲーム、面白いんですか」
『それはあなた次第です』
そこで初めて、女性はクスリと笑った。
『それでは、〈テスタメント〉をお楽しみください』
まばたきをすると、視界はまた様変わり。八畳ほどのスペース。畳が敷かれた床、隅に畳まれた布団一式。簡素な台所……どうやら、プレハブ小屋らしい。事前の情報によると、ここはプレイヤーに与えられる住居のようだ。ここを拠点にしろ、ということらしい。腕にはめられたままの〈心つなぐ鍵〉を見ると、リアル同様に正午となっていた。それに加えて残り時間と日数が表示されている。
「ふむ」
置かれていた手鏡で、改めて自分の作ったキャラクターを見てみる。エメラルドの瞳に、アメジストの短い髪。中々イケてる。
部屋を出ると、同じようなプレハブ小屋が整然と並んでおり、まるで避難所のようであった。跡永賀と同様に、他のプレイヤーも周囲をキョロキョロしている。
ふと気になり、跡永賀はその場で地を蹴った。たしかな感覚と、力強さ。脚をどんどん回していくと、ぐんぐん速くなっていく。
いつもの動悸や、息切れはまったくなかった。
一〇〇メートルほど走った時、ようやく現れた疲労感に跡永賀は立ち止まり、やがて笑って天へ両の腕を突き出す。
健康だ。
健康そのものだ。
それが、嬉しくてたまらなかった。
その後、初めて得た健康な肉体を満喫した跡永賀であったが、その幸福――多幸感は、長続きしなかった。
始めは夜だった。
初めて迎えた〈テスタメント〉での夜に、跡永賀は不安を覚えた。思えば、自分は一人なのだ。家族やあかりはもちろん、鬱陶しい学校のオタク連中でさえ、そばにはいない。完全なる孤独。周囲の人間はすべて素性がしれない。
「まあいいさ」
そのうち見つかるだろう。粗末な裸電球が揺れるのを眺めながら、跡永賀は布団を被った。
初日は、それで眠れたのだ。
翌日から、ある種の違和感――焦燥や不安は容赦なく襲ってきた。健康な体さえ手に入ればよかった跡永賀にもはや目的はなく、気を紛らすことも思いつかない。ただ配給される食料と通貨を受け取る日々。
一週間経つと、布団の中で丸まっていても、眠れなくなっていた。
家に帰れば、大抵は兄がいた。しかしここでは、それさえ望めない。
純粋な、絶対の孤独。
家族という枠に囲まれてきた少年は、初めて独りになった。
このままではまずい。
プレイしてから十数日、ようやく跡永賀は思い立った。
「こいつはゲームなんだ。適当にやってもどうにかなるだろ」
自分に言い聞かせ、跡永賀は外へ出た。
「はい」
隣の部屋の戸を叩くと、中から十代そこそこといった風な女性が出てきた。桃色の髪に灰色の瞳をした彼女は、不思議そうな顔をする。「たしか隣の……何か?」
「あの」
「はい」
「いや、だからあの」
「ですから、はい?」
『…………?』
二人揃って、奇妙だと表情が言った。おかしい。話しかければ、ヒントやアイテムをくれるものではないのか。
もしかしたら、NPC(ノンプレイヤーキャラクター:プレイヤーの補助や応対を目的とした、プログラムによる非プレイヤーキャラクター)でないのかもしれない。そこで跡永賀ははっとなる。このゲームはリアルすぎて、NPCとPCの区別がつかないのだ。
「ええと、家族を探してるんです」
「はぁ……?」
「太った男と、髪の短い女性……あと声が綺麗で……」
「それって、リアルでの特徴ですか?」
「そうですけど……あ」
言われて初めて、跡永賀は再度はっとなる。事前に容姿の設定について考えていなかった自分でさえ、ここまでリアルと差異があるのだ。兄たちだってアバターは現実のそれとは違うものだろう。プレイすると言っていた両親だってそうだろう。
「事前に何か目印か合言葉でも用意してるなら話は別ですが……」
「いえ、そういうのは……どういうゲームかわからなかったものですから」
〈心つなぐ鍵〉と舞台設定しか情報がなかったのだ。これが不特定多数参加型のゲームだと察することはできても、ゲームスタートがどのような形式かはプレイしてからわかること。しかしまさかこんなランダムなスタートだとは……。仮に近くに配置されていても、通常のオンラインゲームのようにキャラの付近に名前が表示されていないので、ぱっと見では知り合いかどうかすらわからない。リアルすぎるというのも考えものだ。
「あの、どうにかなりませんか」
「それは手伝ってほしいということですか?」
「ええ……まぁ」
彼女は露骨に迷惑そうにして、「手掛かりや保証された手段があるなら、まだわかりますが、何もわからない、ただの手探りで捜索しろというのは……私達、そこまでの関係でもありませんし」
「う……」
たしかに。初対面の相手への頼み事にしては、厚かましすぎる。テンパっていたゆえの鈍感さに跡永賀は気づき、気まずさを覚えた。
「申し訳ありませんが……」
「あ、はい……すいません。…………!」
何かに気づいた跡永賀が、閉まる寸前の扉に手を差し込む。挟まった指が現実さながらの痛みを伝え、目が潤むが、構わずに、
「俺、跡永賀です。俺のこと知りませんか」
しかし彼女は、気まずそうに目をそらすだけ。
「いえ……」
それだけ残し、扉は閉じられた。
誰も知らない。誰にも知られていない。
その事実と再度の孤独が、跡永賀の収穫であった。
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