第15話
カラスがカーと鳴けば、帰りの知らせ。
夕暮れになり、いよいよ夜という時分。公園を出た二人は、四鹿家前で別れる。
「ごめん。本当はもっと色々なところ行きたいんだけど、体が着いてきてくれなくて」
体調を崩す危険や場合を考えると、どうしても自宅周辺に限られてしまう。
「いいよ。私も人目に触れると面倒な身の上だから」
「ああ……」
初無敵の話が脳裏をよぎる。
「だからさ、その〈テスタメント〉ってゲーム、私もやるよ。それなら、仕事中でも授業中でも跡永賀に会えるし、どんなに遠いところでも一緒に行けるんだよね?」
「うん」
「そういえばステージ……舞台ってどういうところなの?」
「未来の地球って設定だったはず。詳しいことはまだわかってない」
「じゃあ科学が発達した近未来ものかなー」
職業柄からか、そういうことに堪能らしい。ヘタしたらオタクである自分より――いや、自分はオタクじゃない。だから、オタク嫌いな彼女が自分を嫌う理由にはならない。
「かもね。……それじゃ」
「うん。またね」
オタクになると、ロクなことにならない。オタクだと思われると、皆途端に微妙な対応をする。腫れ物というか、触らぬ神に何とやらというやつだ。
オタクというのは、損するばかりだ。
「ただいま」
玄関に入ると、段ボール箱を脇に抱えた初無敵が迎えた。「おかえりんこ」
「…………」
「おかえりんこ」
「…………」
「おかえりんこ」
「姉さんは帰ってきてるか?」
「スルーですか。そうですか。長女はまだでござるが、こっちは到着したでござるよ」
段ボール箱をそっと差し出す。受け取ってみると、イグザム・エンタープライズからだ。
「申し込みした次の日とは速いな。着けるだけでいいのか?」
「説明書によると、指定された日時に装着していればOKだそうな」
「本当かよ」
「やってみればわかるでござい」
「そりゃそうだ」
言いつつ、踵を返す跡永賀。「どこへ行くでござい?」
「姉さんに聞いてくれ」
走りたいのに走れない体が恨めしい。まるで競歩のような体勢で冬窓床を探す。春先の日暮れは冬の寒さ程ではないが、やはり辛い。コートを着ていてもすり抜けていくような冷たさが肌を刺す。
姉を見つけたのは、寒さが増した夜になってからだった。灯台下暗しとはよくいったもので、彼女は意外と近所にいた。
あの、無人となったアパートの一室、その傷んだ扉の前である。
「風邪ひくよ」
体育座りで膝に顔を埋めた状態の彼女に、着ていた上着を掛ける。
「……これじゃ、跡永賀が風邪をひいちゃう。跡永賀の方が体弱いのに」
返そうとする彼女から受け取るわけにもいかず、しかし否定もできず……
結局、二人で扉を背にして座り、一緒にコートを被ることにした。
「面目ない。というか、帰ればいいよね、これ」
「帰りたくない」
「あかりはもう帰ったよ」
「それでも、跡永賀は別の人を構う。私を見てくれない」
「そんなこと……」
思い当たる点がありすぎた。
一緒に暮らした時点では、そうでもなかったのだ。四六時中、冬窓床――実夏のそばにいた。しかし最近はあかりとのメールや電話があるし、それとは別に男同士の話として、初無敵とも話す量は増えた気がする。自然、寡黙な姉との会話は減っていく。
「話をしてくれなくてもいい。ただ、そばにいてほしかった。私にはもう、跡永賀しかいないから……」
思えば、姉の書いた小説には、自分と彼女しか登場――存在していなかった。きっとそこでは、姉の中では、それで充分だったのだ。二人だけの世界。誰も邪魔をしない、誰もいなくならない、理想の環境。
動くことも叫ぶことも禁じられてきた彼女が、唯一できた自己表現。望みが叶うようにと願うしかできなかった彼女の苦悩。
「俺以外にも、父さんだって母さんだって、兄さんだっているじゃないか」
「違うよ。そうじゃない」
紅葉のような手が、跡永賀の手に乗る。「私の手を掴んで、私を助けてくれたのは――初めて家族になろうとしてくれたのは、この手だけ。跡永賀が、私のたった一人の家族なの」
小さく、冷たい手だった。昔は同じくらいだったのに、今はもう、こうやって包んでしまえる。
「本当は、あの時一緒におねえちゃんのお父さんとお母さんを探したかった。でもそんな勇気も力も、俺にはなかったから」
「ううん。あれでよかったの。また一緒に暮らすことになっても、あの人達にとって、私は邪魔でしかないから」
子は親を選べない。そして、子供は自分の環境で物事を判断するしかない。他に基準がないのだから。だから、子はどんな親であろうと尊いと感じるし、それを疑いもしない。疑うのは、子が別の親を――外の世界を知ってからだ。
「今ならそれが、よくわかる」
だからこそ、意図せず比較できるようになってしまった冬窓床だからこそ、そう判断できるのだろう。
「跡永賀は、私の――私だけの王子様だった。でももう、違うんだよね」
「姉さんには、もっと立派な人がふさわしいよ」
「どんなに優秀な人がいても、私は跡永賀を選び続ける」
「絶対に」姉らしくない、強い声だった。
「でも……」
跡永賀は顔を伏せた。自分にはもう、あかりという女性がいる。冬窓床とて、それはよく思い知ったはずだ。
「こういう時、こんな自分が嫌になる」
暗い顔をした姉に、跡永賀は心を痛めた。あかりと別れる気はない。しかし、姉をこのまま捨て置くのも嫌だった。あの時と――この扉の奥にいた時と一緒だ。
そこでやっと、跡永賀は持っていた箱を思い出した。
「姉さん――」
箱を渡し、〈テスタメント〉の説明をすると、冬窓床の表情は少し明るいものになった。
「だから、
ゲームのスタイルとして、ロールプレイというものがある。既存や独自の設定――キャラクターになりきってプレイすることだ。お気に入りのキャラの外見や口調を真似することで、まったく別の自分になれる。そこではリアルの事情や状況は関係しない。
「これ、私がもらっていいの?」
「うん。あ、でも中の時計は俺が選んだやつだから、それは後で別の……」
「ううん」冬窓床は箱を大事そうに抱える。「これで――これがいい。跡永賀が私にくれたものがいい」
「じゃあ俺は俺でまた頼んでおくよ」
「時計は同じもの?」
「そのつもりだけど……被るのは嫌?」
「逆。一緒がいい」
「そっか……そっか」
ペアウォッチになるわけか。変な恥ずかしさを隠すように、跡永賀は頭を掻いた。
「……そろそろ帰らない?」
すっかり暗くなり、電灯が活動を始めてもなお、姉は動こうとしない。
「帰りたくない」
「その言い方、誤解を招くよ」
「誤解じゃないとしたら?」
冬窓床の視線が夜の街へと向けられる。あっちには未成年ご法度のあれやこれやが……
「…………色々と洒落にならないからやめて」
あかりの影響か、姉もすっかりアグレッシブになってしまった。これは天秤だ。一方に傾けば、並行を保とうともう一方がそれを直そうとする。自然、両者のアプローチは比例することになるわけだ。これに他の人が手を加えれば、危ういことになる。
一方が諦めれば、そんなことにはならないのだが……
そんな気配は、まったくない。
「ラチがあかないからボクティンが颯爽介入」
「お前、いつからそこにいた」
そばの塀の影からぬっと現れた初無敵は「家を出たアットをつけていたのさ! 走れないアットをつけるのは簡単だったよ」
「そうだろうよ」
姉の手を引き、跡永賀は立ち上がる。
「口実できてよかったと思ってるでしょ」
「姉さん、帰ろう」
「スルーですか。そうですか」
跡永賀は冬窓床と帰路を歩く。その後ろで、初無敵が二人を見守る。
思えば、いつもこうしていた。はるか昔は父や母、兄の手を握り、そして姉の手を握って歩いていた。
そこには、確かなつながりがあった。
家族との絆があった。
それは、あって当たり前のことだった。
〈テスタメント〉を始めるまでは。
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