第12話(第2章)

 どうしてこうなったのか。

 深夜、自室のベッドで目が覚めた跡永賀は、まずそう思った。

 暗闇に慣れた目が、鼻先の影をじっと映す。


「…………」

 影の主は跡永賀の体に乗る形で彼を見下ろしている。夜の闇ゆえ、さすがにどういった顔をしているかまではわからない。

 けれど、その輪郭――正体ははっきりとしていた。


「姉さん、どうしたのさ」

 父と一緒に帰ってきて以来、彼女と会話はしていない。夕食も初無敵としょうもない掛け合いをして終わった。その間の姉は、ずっと食器に目を落としていただけだった。あれは、もしかしたら思い詰めていたのかもしれない。

 そんな考えに、今ようやくたどり着いた。


「今更、なのかもしれない」

 姉の声は、悔いや悲しみに溢れていた。

「彼女ができてからじゃなくて、彼女ができる前に、ちゃんとしておくべきだった。甘えていた……逃げていた。跡永賀も私と同じように思っていたって、都合のいいように考えていた」


 冷たい――けれど温かい――水が、ひとつ、ふたつ、顔に落ちてきた。

「跡永賀にとって今の私は、ただの姉でしかなかったんだね」

 外の道を、車が通りすぎたらしい。一瞬、窓から光が差し込んだ。

 姉――幼馴染みの顔は、涙で濡れていた。


「私は、いままで……ずっと」

 彼女は彼女なりに、悩んでいたのだろう。姉となった後の自身と、それまでの自分との間で。その叫びのようなものが、おそらくはあの小説。


 姉弟であることへの不満、疑問。一人の女性として接してほしい願い。けれど、彼女は面と向かって、堂々と文句をいえる性格――境遇ではない。いつも、心のどこかに抱えて、耐えてしまう。あの小説は、その掃き溜めなのだ。

 姉弟という建前を乗り越えて、彼女は跡永賀に愛してもらいたかったのだ。

 ただの女の子として。


「……そっか」

 上半身を起こすと、それに合わせて姉の体も持ち上がる。さっきも感じたが、彼女は小柄なのもあってか、存外軽い。枕元にあったリモコンをいじると、すぐに部屋の照明が作動した。

「ごめん。今まで気づけなくて」


 座った跡永賀に抱えられた形で、冬窓床は彼の脚の上、胸の中に身を収める。一時期は彼女の方が背は高かったのだが、今では影も形もない。

「一緒に暮らすようになって、最初はさ、結構どきどきしたんだけど、いつの間にか、そんなことはなくなって――そんなことは、いけないことなんだって思うようになった。だって、姉弟――家族なんだから」


「…………」

 冬窓床は黙って、頭を目の前の胸に預けている。

「家族がいなくなったおねえちゃんのためにも、そうすることが、家族でいることが正しいことのように思えたんだ。俺には、ほかにできることはなかったから……」


 あの日、彼女の両親を追いかけることはできなかった。できたことは、彼女の手を引いてここへ連れてくるだけ。だから、それを徹すればいい――徹することしかできない。そんな考えが芽生えた小さな自分は、ある種の使命感を覚えた。

 それゆえか、いつの間にか幼い恋心はどこかにいってしまった。

 初恋の幼馴染みが、気が付けば大切な家族の一員になっていた。


「でも、もう違う」

「そうだね」

 お互いの誤解は、もうない。

 だから、選ばなければならない。

 進まなければならない。

 跡永賀の選択は――――



 →

  『おねえちゃんの恋人になる』

  『俺にはもう彼女がいるから』



「いやいや、これはない」

「?」

 脳内に浮かんだ選択肢を跡永賀はあっさり否定する。兄じゃあるまいし、こういう思考パターンはありえない。

 自分はオタクじゃないのだから。


「どうかしたの?」

「あの馬鹿の悪影響でちょっと、ね」

 小さい頃、よく兄のギャルゲー攻略に付き合わされていた。普通のテレビゲーム感覚でやっていた無垢な自分が、今は不憫でしかたがない。皆の話題にしているゲームが自分のやっているそれとかなり違うことに、もっと疑問を持つべきだったのだ……


「おねえちゃん」

 呼ぶと、顔を上げてくれた。涙は止んでいたが、赤い目と頬の筋に心が痛む。

「俺も、おねえちゃんが好きだよ。今も昔も、ずっと」


 あかりの時のような動揺は、なかった。それは良いのか悪いのか。けれど、面と向かってきちんと言葉にしなければ伝わらないのだから、そういう意味ではいいことだろう。

「よかった」

 冬窓床の頬にほんのり、朱が広がった。跡永賀もまた、温かいものが胸を満たしていく。


「…………」

「…………」

 会話が止まった。基本、冬窓床との会話は跡永賀が話題を振って展開されるわけだから、彼が黙れば自然と流れは止まってしまう。


「あー……このまま寝ちゃう?」

 この時間、ほかにすることもないわけで。昔はよく一緒に昼寝していたわけだし。

 すると、姉の肌はあっという間に紅を浴びた。

「…………えっち」


 ぼすっと顔を胸にうずめられた跡永賀は、首を捻るばかり。「…………んぅ?」やがて何かに気づき、姉とは対照的に青くなる。これは、昼間と同じミスだ。

「いや、ちがっ」

「跡永賀になら、いいよ。私のはじめて、全部あげる」

「そ、それは光栄だけど……」


 

 →

  『このまま押し倒す』

  『謹んで辞退する』



 だから違うって!

 オタクじみた思考に、頭を振ってさよならした跡永賀は、かといって解決策を持っていないことに気づく。

「えっとね、俺が言いたいのはね、昔みたいに一緒に眠ろうということでね、やましいことを考えているわけじゃ」

「知ってる」

 まるでイタズラが成功した子どものような笑い声。「跡永賀が奥手で優しいことは、私が一番よく知ってるから」

「そりゃどうも」


 冬窓床はそっと跡永賀の胸に手を添える。

「でも、それが災いして変なのが寄ってくるのよね……」

 小さき声は服に消え、跡永賀まで届くことはなかった。

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