第11話

 両親の姿はなく、家財道具もほとんど持ちだされ、まるで空き巣か借金取りが通り過ぎた様相であった。醜く、貧しいながらも存在していた家庭は、影も形も失せていた。

 何か――こどもにはわからない、大人の事情があったのだろう。幼い自分達は、そう思うしか術はなかった。しかし、いつまで経っても、そこには誰も来なかった。最初は他愛のない話で時間を潰し、そのうち慰めや望みの応酬……。やがて、どちらも口を開くことはなくなった。


『…………』

『…………』

『おねえちゃん?』

『…………』


 夕暮れ、そろそろ帰らなければいけない時分、跡永賀は久しぶりに声を出した。ここに居続けるか、それとも自分だけ家族の元に帰るか、決めなければならない。

 彼女は、無表情だった。無表情で、いつまで待っても開かない扉を力ない目で眺めていた。まるで、心が現実を受け入れることを拒否したように。


『いっしょに、いこう?』

 そんな彼女を見ているのが嫌で、その手を掴んだ。

 好きな人をこんなところに置いていきたくなかった。




【現在】

 あの時から、彼女との共同生活が始まったのだ。古家夫妻が多額の負債を抱えていたことを知り、失踪の原因はそれだろうと周囲が納得する頃には、実夏は冬窓床と名を変え、四鹿家の一員になっていた。

 それから色々なゴタゴタを――大人たちの助力もあって――乗り越えて今に至るわけだが……


「跡永賀……? こんなところでどうした?」

 声に気づいてそちらを向けば、父の姿があった。くたびれた背広姿で、両手にはエコバッグ。買い物の帰りのようだ。

「ちょっと散歩」

「散歩、か」


 息子の視線の先にあったものを確かめた太郎は、意味深に頷く。

「冬窓床と何かあったのか」

「…………」

「そうか。だったら家で話を聞くわけにもいかんな」


 そう言われ、連れてこられたのは公園のベンチ。ここで夕方にあかりと……

「どうした? 顔が赤いぞ。風邪か?」

「別に」

「そうか」


 息子に缶ジュースを渡した太郎は、その隣に腰を下ろす。

「それで、どうしたんだいったい。珍しく喧嘩でもしたのか」

「逆だよ。姉さんは、昔の約束を守ろうとしてたみたいでさ」

「約束ってあれか。お前が冬窓床を嫁にするとかどうとか」

「……父さんも覚えてたんだ」

「そりゃ、まぁ。たしか冬窓床がうちで暮らすようになってからしばらくして、幼稚園で将来の夢って話題になって」

「姉さんが『すてきなおよめさん』って書いたんだよ」


 今思えば、あのクッキーもそういうこと――花嫁修業というか、予行演習みたいなものだったのかもしれない。

「そうそう。それでクラスの子に茶化されて……」


『おやにすてられたくせに、そんなのなれるわけない』


 ちょっとしたちょっかいのつもりだったのだろう。しかしその園児の言葉に、彼女は深く傷つき、涙を流した。それは家に帰っても止まらず、そばにいた跡永賀は意を決して、

「俺が『おねえちゃんとけっこんする』って言ったんだ」

 何も悪くない彼女が否定されるのは、悔しくて悲しくて、許せなかった。もちろん、彼女を憎からず想っていたというのもあるが。

『ほんとう?』

『う、うん』

『ほんとうにわたしなんかでいいの?』

『うん!』

『じゃ、やくそくして?』

 差し出された小指に、自身のそれを絡ませた。


 それだけ。


 それだけのことが、今も尚、続いているらしい。


「あれからもう、十年くらいか」

「うん」

 男二人、無人の公園を眺める。父親との会話。妙な気恥ずかしさはあったが、不思議と悪い気分ではなかった。

「父さんはいい女になると思うけどな。嫌なのか?」

「嫌じゃないけど、姉になったわけだし、今までそう考えてきたし……」

「姉だからダメなのか」

「そりゃ、普通に考えて……」

 気まずいものを感じて、それから逃避するようにジュースを口に含む。


「父さんは姉さんと結婚したぞ」

「ブーッ」

 跡永賀の口から噴射された飲料が、電灯の光を受けてキラキラ光る。

 キレイだが、キタナイ。


「げほっ、ごほっ、がはっ」

「そんなに驚くことか? ちょっとした洒落だぞ」

「洒落になってない……!」

「まあ、あれだ。結婚なんてな、必ずしも周りから祝福されるもんじゃないんだ。身分違いだの歳の差だの、駆け落ちだの、な。大事なのは、当人たちがちゃんと幸せになれるかどうかだ。最悪、世間体だの常識だのはほっとけばいい」

「むぅ」

 さすが年の功というべきか、正論のようであった。というか……


「まさか、経験則……?」

 振り返ると、父と母は、わがままな姉のいいなりになっている弟のように見えなくも……

「さぁ」

 すっとぼけるもんだから、息子はどんどん不安になっていく。


「それで、どうするんだ。このままつまらん固定観念にこだわって姉を泣かせるのか、それとも思うままに生きるのか。どっちかになると思うが。もっとも、娘を泣かせるのは許せんな、父として」

「でも俺にはさ、もう彼女がいてさ」

「ほほう。そいつは初耳だな」

「今日の昼だから」

「その後に冬窓床と――いや、彼女ができたから冬窓床と、ってわけか」

「そうなるね……」


 あかりと付き合うことになって冬窓床の好意に気づけたのだから、なんとも皮肉な話である。

「なんにせよ、相手とか偶然に期待するなよ?」

「?」

「自分では何もしないで、うまい方に事が進むと思うなってことだ」

「そろそろ帰ろう」立ち上がり、歩き出す父。「……わかってるよ」その背を追う跡永賀は、歯切れ悪く返事した。


 過去を振り返ればいいのか、未来へ突き進めばいいのか。

 跡永賀は悩むばかりだった。

 そして悩んでいる間も時というものは進み――――

 決断と結果を要求する。

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