第10話
「ま、待って」
離れていく袖に冬窓床の指が絡む。
「私達、姉弟のままなの?」
「…………」
「私は、跡永賀が別の人と幸せになっていくのを、見ているしかないの?」
「…………」
「このまま、ずっと……」
「俺は、『おねえちゃん』が『姉さん』になってから、そうなると……おねえちゃんもそうすると思ってたよ」
振りほどくように腕を振って、跡永賀は階下へ降りた。
軽くジャンパーを羽織って外に出ると、予想以上の寒さが肌に刺さった。ぶるりと震え、帰宅を強く推奨する体を無視するように、跡永賀は街灯でまばらに照らされた道を歩く。
無闇な外出ではない。目的地はあった。
そこは、近所のアパート。決して綺麗でもなく、立派でもない。生活に困っていなければ住む気も起きないような、お粗末な物件。
跡永賀の興味の対象は、その一室にあった。
『空室』
その扉には、乱雑な一筆による紙が張ってあった。それを確認した跡永賀は、仰ぎ白い息を吐く。
「昔のまま、か」
どうせそうだろうと思ってはいたが、心のどこかで望みは持っていた。ここに戻っているかもしれないと。
姉の本当の両親が、帰っているかもしれないと。
【約十年前】
初めて彼女と出会った時、それが彼女の名前であった。
お互い幼稚園児で、同じクラス。住んでいるところが近い――仲良くなるのは、当然のような流れだった。
その頃の彼女というのは、今以上におとなしく、ひかえめだった。振り返れば、それは家庭の事情によって形成された性格……適応だったのだろう。
彼女は、あのアパートの一室――狭く汚い家で育った。防音性など皆無なので、騒ぐことは許されず、スペースのなさゆえ満足に体を動かすこともできない。彼女の行き着いた行動は、自然と読書に絞られた。さらに、子供特有の喧騒に嫌悪していた父母の存在が、それを促進させた。あの無理解と不条理に満ちた叱責は、今でも跡永賀の耳に残っている。家庭内において、彼女の自由はほとんど死んでいた。
そのせいか、当時の彼女は他人に迷惑をかけることを極端に恐怖し、他人との会話を極端に回避した。現在でもその名残は充分ある。
それでも――――それでも彼女は、そんな両親に、そんな環境に満足していた。
『おねえちゃんは、たいへんだよね。いつも怒られてばっかで。何も悪いことしてないのに』
あの頃、どうして『おねえちゃん』と呼んでいたのかというと、誕生日の話題になった時に、彼女の方が早く生まれていて、『じゃあ、みかちゃんがおねえちゃんだね』といった話をしたからである。
『そんなことないよ。お父さんとお母さんが怒るのは、私がいけない子だから。いい子になってほしいから、怒ってくれてるんだよ』
純粋にそう言って笑う彼女に、異を唱える気にはなれなかった。
『ふーん、そうなんだ』
しかし結局、彼女の両親は彼女の思ったとおりの人間ではなかった。
ある日の幼稚園の帰り、いつも通り――通り道なのもあって――彼女を家に送ると、そこには何もなかった。
誰も、いなかった。
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