第19話

 着替えを済ませ、更衣室から廊下へ出ると、職員用通用口で先輩が待っていました。


「初勤務と初担当を祝って、記念におごってあげる」


 その誘いを断る理由はありませんでした。ありがたいことです。


「[のざわな]でいい?」


「うわーいいですね」


 [のざわな]をご存知でしょうか。今でもイガウコでは根強い人気のある定食屋さんですが、評判になったのはこの頃なんです。それまでは夫を亡くされて、ご主人が一人で切り盛りすることになるもうまくいかず、閉店するのは秒読みといった有様でした。それがある日突然料理が抜群に美味しくなり、今ではイガウコのグルメを牽引する名店にまで成長しました。




「いらっしゃいませ」


 入店すると、エプロン姿の女の子が迎えてくれました。繁盛したためか、ウェイトレスを雇ったようです。


「二人、空いてる?」


「はい、どうぞこちらへ」


 そう促されて席につき、メニューを渡されます。


「しかし変わるもんですね」


 私は周りを見ました。少し前までは閑古鳥が鳴いていて、店も女主人もやつれていました。そのままどちらも朽ちていくのでは、と皆で心配していたものです。それがこの通り、旦那さんを亡くされる前より繁盛していて、その稼ぎによるものか、店内も新築同様になっています。


「なんでもコンサルタントがついたらしいよ」


「コンサル……ですか?」


「うーん。私もよく知らないんだけど、店を立て直す人、みたいな?」


「なるほど」


 たしかにご主人が立ち直ったとしても、一人の力ではここまでにならないでしょう。それなら夫婦で経営している時点でもっと繁盛しているはず、ということになります。


「ご注文お決まりでしょうか」


 あのウェイトレスさんがお伺いにきました。とは言うものの、このときの[のざわな]のメニューは一品しかなかったのです。


「そしたらのざわな丼二つ」


 先輩の声に女の子は頷き、復唱して下がりました。


「ここの名物なんだって」


「それは楽しみです」


 [のざわな]は心機一転してメニューも一新したようで、今まで見たことも聞いたこともない食べ物の名しかありませんでした。


「あの子ってご主人の親戚かな」


「そんな話は聞いたことないですね」


 私は奥の厨房にいる女主人を見ました。長い髪を頭にまいた布でまとめて、調理に集中しています。その間にウェイトレスは料理の配膳や片付け、座席の用意や誘導まで完璧にこなしていました。あの子は経験どうこうと言うより、そもそもの頭の回転が良いんだと思います。


「バイトは募集してなかったわよね」


「そんな余裕なかったと思いますよ」


「よねー」


 不思議そうな顔をしている先輩に私も同感でした。夫婦の間に娘がいると聞いたこともありませんし……すると、よそから来たということになりますが、いったいどういった経緯で……


「お待たせいたしました」


 下世話なことを話していたら、当人が料理をテーブルに並べてくれました。


「のざわな丼がお二つ、ご注文は以上でよろしかったでしょうか」


 先輩が首を縦に振ると、彼女は卓上に請求書を置いて下がりました。


「変わった料理ですね」


 私の興味は、すでに運ばれてきた料理に移っていました。メニューに書かれた説明書きいわく、どんぶりと呼ばれる大きなボウル型の器。そこに盛られた食べ物は私になじみのないものでした。


「米がベースなんだよね」


 先輩は自分の分を取り、スプーンで軽く中をすくいました。たしかに白い粒が大量にあります。


「米って苦手なんですよね。なんか粉っぽくてべしゃべしゃして……食べた気がしないというか」


 米という食材そのものは私も知っていました。しかし、私を含めて好きな人はいませんでした。かの総教皇が好んで食したそうですが、このときの私には理解できませんでした。


「ここの米は違うのよ。まあ食べてみて」


 笑顔でそう言われ、私は恐る恐るスプーンを取り、そして――――


 驚いて口をおさえました。


「おいしい……」


 不意に、心の底からもれた声でした。


 米もそうですが、なにより米を飾るように上にのっているものが美味でした。小麦色のサクサクした肉に、とろみのあるものがかけられていて、それらが米と合わさるとなんとも……


「これが『チキンカツ』に『あんかけ』だって」


「…………?」


 メニュー片手に説明する先輩に私は首をかしげました。どちらも知らないものです。


「言われてもわかんないよね」


「まったくもって」


 すべてが未知でした。こんな米もチキンカツもあんかけも、食べるのはもちろん、ここで初めて見聞きしたものです。


「ご主人、どうやってこんな料理を」


「何から何まで不思議よね」


 私たちは疑問を口にしつつも、手は止めませんでした。あまりの美味に、手が止まらなかったのです。

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