第11話
「待たせたな」
はたして昼過ぎに、あの子はやってきた。数時間しか経っていないのだから、そんなに待ってはいないけど、久しぶりの人との触れ合いに心が躍るのを感じた。
「油は?」
厨房を調べる彼に私は首を振った。
「そんなの置いてないわ」
油なんてべとべとするだけのもの。溜めて持っているわけがない。
「じゃあとりあえずで作るか。鳥の肉があるってことは鳥の皮もありますよね」
「あるけど……そこは廃棄する部位よ」
「上々」
鼻歌まじりに彼は鍋に大量の鳥の皮を入れ火にかけた。
「油なんて何に使うの」
「揚げ物」
「?」
「いやー昔よく行った定食屋で食った好物があって。それ再現したくてね」
「それをこの店の売りにするってこと?」
「そういうこと」
「うまくいくの?」
「うまくいくかどうか、うまいかどうかは食って確かめるのが料理人ってもんでは?」
「まあ、ね」
私にはほかに選択肢などないのだ。彼の言う通りにするしかない。
「『カタクリコ』ってある?」
「栗ならあるけど……」
「とろみをつける粉みたいなの」
「芋粉ならあるわね。芋から作った」
「ああ、それ。同じものだし」
「ああ、そう」
よくわからないけれど、そういうことなのだろう。
「『さしすせそ』はそろってるな」
調味料を漁った彼は顔を上げる。
「米はあるんでしょ」
「あるけど……誰も食べないわよ」
それは白い粒の食べ物だ。茹でて柔らかくして食べるが、はっきり言って不味い。かの総教皇が好物としていたのもあって、敬虔な信者や宗教の行事には需要があるが、それだけだ。
「とりあえず『ワショク』の基礎的なものはそろってるわけだ。サンキューソーリー」
よくわからない独り言をぶつぶつ言いつつ、彼は米を器に移す。
「まず米のとぎ方から教えます」
「とぐって……うちに砥石なんてないわよ」
「うん、米を洗うことをそう言うんだ。砥石でといだら米粉になっちまう」
米の入った器に水を入れ、彼の手が回す。
「とりあえず水が真っ白になったら捨てる。これ自体にも栄養あるから植物の水やりにでも使うのも手だ。その昔は赤ん坊のミルク替わりにもなったらしい」
白くなった水を捨て、新しい水を入れてかき回す。
これを数回。
「米が透けて見えるようになったら充分。あとは水に
「まだ茹でないの?」
「水を吸わせるんだ」
「そう」
よくわからないが、そういうことなのだろう。
「状況によるが水を吸わせるのは四五分前後。これは今後の経験次第で調節してね。その間に――――おお。油たっぷり」
彼は米を水に浸した器から、火にかけていた鍋に目を移す。
「これからは並行的に作業してね。時間のかかる調理がいくつも出てくるから。今までみたいに注文受けて、一つずつ終わらせてからじゃ時間がかかりすぎる」
「なるほどね」
たとえばステーキなんて調味料を振って焼くだけだ。準備の時間はそれほど必要ない。しかし彼のやっていることはどれもすぐには終わらないもの。時間のかかるものは同時に進めないと対応できなくなるだろう。
「で、だ。米を寝かせてる間に揚げ物を始めます」
彼は鍋から用済みになったらしい鳥の皮を取り除く。あとに残ったのは、鳥の皮から出てきた油。
「揚げ物……」
「熱した油で作るんだ。まあちょいと手間だけど」
彼は皮の除かれた肉をまな板に並べた。
「まずは軽く肉の厚いところに切れ目を入れて、あとは全体に調味料をまぶしていく。……鳥の卵ある?」
「うちには置いてない。でも仕入れることはできるよ」
「じゃあ追々ね。卵は米にも合うんだこれが。パン粉は?」
「……パンくずのこと?」
「まあ、そんなとこ。余って硬くなったパンある?」
それなら、と私は自分が寝起きしてる部屋の戸棚からもってくる。普段の食事はだいたい古くなったパンを安く買ってかじっていることが多いから。
「これを砕いたものがパン粉ってもんよ」
包丁の柄で叩かれ、粉々になったそれ。
「で、肉に芋の粉を水で溶いたもの、パン粉の順でつけていき」
彼は粉をまとって白くなった肉を鍋に静かに沈めた。
「揚げます」
あたりにジュウウウといった心地よい音が響く。
「このとき雑に放り込むと油が飛んで火がついてえらいことになるから気を付けてね」
彼はスプーンで肉に油かけたり、肉をひっくり返す。いい香りが鼻を満たしていくのを感じた。
ああ、これは……きっと。
おいしいんだろうな。
「まずこれがチキンカツ。これでも一つの料理」
紙を敷いた皿の上に置かれる。
「とりあえず食べてみて」
私はナイフとフォークを持って切り分ける。サクッという音と感触。否応なく上がる期待感。
はやりつつも恐る恐るといった感じで口に運ぶ。
衝撃。
その一言に尽きた。
暴れ狂う熱が口の中を駆け、舌の上に肉の味が広がる。まるで新鮮な果実でも頬張るように、汁が満ちていく。
「おいしい?」
「ええ、とっても」
このとき私は決意した。
この子にすべてを任せようと。
「でさ、炊いた米にチキンカツのせて、そこに『あん』をかけたものが」
「あなたが食べたかったもの?」
「そゆこと」
箸と呼ばれる二本の棒を器用に使って食べる彼に私は目を細めた。子供の食事を見守る母親とはこういう心境なのだろうか。
「うーん。本家には劣るけど、まあいいか」
材料不足でまだ不完全と言うが、この『丼』という料理はそうとう水準の高いものだ。少なくとも、私たちが作るものとは。
「あなたは美味しいものが食べたい。そして、私はそれを売り出して店を立て直す」
「利害一致するでしょ?」
「そうね」
私は自分の分の『のざわな丼(命名:彼)』をスプーンですくって食べる。
「のざわな丼という割に『ノザワナ』を使っていないのがミソ……いや、いっそ付け合せに使うか……まあそれはいいとして、とりあえずこれ一本で、[のざわな]の名物にしようよ」
「今までのメニューは全部捨てるってこと?」
「やってもいいけど、のざわな丼作りながらそれ対応できる?」
「自信ないわね」
ただでさえ今までより複雑な料理を主力にするのだ。そこに他の料理が絡むとなると……
「それもあるし、元から売れてないんだから仕入れも絞りたいんだよね。それなら手間や費用も節約できるし」
「そうね」
彼の目線は、このときからすでに私とはかけ離れていた。私は、ただ黙って料理を作っていればいいと今まで思っていたし、それが料理人としての仕事というか限界だと思っていた。
けれど彼は違う。
もっと大きく広く、店そのものを見つめ直そうとしている。
「仕入れはのざわな丼ベースで進めて、それから」
今後の展望を語っていく彼。そこには希望が満ちていた。それは昨日までここにはなかったものだ。
私だけでは、『これから』なんて考えることはできなかっただろう。ただ、その場をどうやり過ごし、明日につなげていくかしか頭になかった。もっと先だとか、よりよい未来だとか、とても思い描けなかった。
けど。
この子となら。
きっと。
ホコリやヒビの入った店でも、そこにはたしかな輝きがあった。
それから『また明日』と去っていく彼に手を振って、私は店を閉めた。あれからレシピの確認や今後の方針を話し込んで、すっかり外は暗くなっている。
店の後片付けと家事を済ませて、今日も冷たい布団に入る。でもいつものような寒々しさはなかった。心に暖かなものがあるから。
おどりっぱなしの心で、天井を見つめる。ここまで楽しさを感じたのはいつ以来だろうか。
私も何かしよう。
ただ漠然と、そう決意した。
まったくの無関係な彼がここまでしているのに、当の自分が何もしないわけにはいかない。自分はもちろん、夫もよしとしないだろう。
さしあたって、この店を――――
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