第10話(第2章)
――――『あの頃はよかった』なんてフレーズは、もっと後に使うものだと思っていた。
愛した人と開いた店がうまくいって、子供が生まれて、やがて老いて、大きくなった子供が店を継いでくれて、二人仲良く静かだけど、どこか物足りない気分で、ふと、そんなことを思うんだろうな、と。
漠然と思って――期待していた。
しかし現実は過酷の一語で、生涯をともに過ごすと誓った人はあっけなく先に逝き、あまり繁盛していない食堂だけが私に残された。『これからはあんた一人で切り盛りしていくんだね』という近所の人の言葉も、うまく飲み込めなかった。
目の前の事実が受け入れられなかった。
ぽっかりと、胸に大きな穴が空いていた。
そんな気持ちのまま、店も私も寂れて時は流れていた。
あの子が来るまでは。
朝になり、もはや習慣というか
ただそれだけの日々。
「うーん。やってるんだよな? これ」
店の前で声がして私は顔を上げた。すっかり汚れた扉の向こうに揺れる影があった。
ガタガタ。ギー。
おんぼろの戸をなんとか開けて、誰かが入ってくる。
一人の男の子だった。少年と青年の狭間のような、そんな年頃。
「ちわーっす」
「あ……いらっしゃい」
お客だ。少し遅れて、そう察した。来客。久しぶりで、すっかりなじみがなくなっていた感覚だ。
空いてる席に案内しようとして、全部空いてることを思い出し、それからロクに掃除していなかったことを痛感し、結局ふきんでさっと拭いて、わりかしまともな席に座ってもらった。
「ご注文は」
と尋ねると、
「あー注文は……いや、やっぱり食べておこうか」
彼はそんなことを呟いて、
「一番うまいと自信のあるもので」
人差し指をたてて、そう注文した。
言うまでもなく、メニューにあるものならすべてまともに作れる。その中で一番おいしいものとなると、結局、どれだけ良い素材で、その素材の良さをどれだけ引き出せるか、ということになる。
仕入れは――数こそ昔よりずっと抑えているが――きちんとやっている。夫とやってきた頃そのままだ。安価で良質な素材。それをもっとも活かすとすれば、変にいじらずに出せる料理。
「鳥のステーキです」
テーブルに置いた一皿には両面を焼いた鳥の肉がある。私も夫も好きな料理だ。
「いただきます」
一言いって、彼は焼かれた肉を器用に一口大に切り分けて口に運ぶ。その作法から、一定の教養ある知識人だと察した。しかしなんでそんな人がこの店に……?
「鳥の肉に塩を振りかけて焼いたのかな」
「ええ、その通りです」
割とメジャーな料理であるから、見抜くのも容易であっただろう。
「この世界……ここらへんでは、調理っていうのは、焼くか茹でるかくらいのもんかな」
「ええ。そうだと思います」
他に何があるのだろうか。今まで生きてきた中を振り返るが、調理というのはその二択である。もっと原始的に考えれば、あとは切るかそのまま出すか……
「やっぱそういうことか」
彼は何かを考えこんだようで、私は彼の考えが読めずに悩むことになってしまった。
「ここって、もう閉めるんですか?」
「えーっと」
まだ日も高い。閉店時間には程遠いが、正直開けていたところで、という思いはあった。
「夜までやってますよ」
形ばかりの答えをとりあえず返した。
「いやそうじゃなくて」
彼はわずかに眼を鋭くさせた。
「この店、もう畳むつもりなのかなって、そういう話」
「…………」
今度は返す言葉がなかった。
店の外から中に至るまで、誰が見たってやる気など感じられないだろう。老衰一歩手前の寝たきり老人のような状況だ。それにここじゃなくても、食べ物を出す店などイガウコにはいくらでもある。わざわざここで食べる必要などない。夫と二人三脚でやっていた頃はそこそこの客足があったが、今となってはそんな客すら寄り付かない。
どん詰まりなのだ。
誰も口に出さないだけで――近所では噂になっているかもしれないが――、この店はもう余命いくばくもない。それは自分でもわかっていた。
「畳むつもりはない、よ」
「まあ開いてるわけだから、そうなんでしょうけど。外から見たら開いてるんだか潰れてるんだかわからなかったけど」
「まだこの先も店をやっていくつもり……」
「いや無理でしょ」
一片の情けもなく断言された。
「これといった売りもない廃墟同然の潰れかけの店が、なんの対策もせずにこのまま立ち直るとでも?」
「それは」
「それとも黙っていればある日なんかの奇跡が起きて行列店の仲間入りなんて夢でも見てるんですか?」
「…………」
「これが年寄りのやる店なら道楽かなとでも思うんですが、あなたこの先どうやって生きていくつもりですか」
今まで見て見ぬふりをしてきたことが突き付けられる。実際、その通りであった。ただ誰も来ない店を開き、誰も来なかった店を閉め、残り物で飢えをしのぐだけ。蓄えがそのうち尽きるであろうことにおびえ、やがて……
「じゃあ、どうしろって言うの」
私でも誰に言ったかはっきりしない嘆きだった。
「私だってわかんないの。ほかにどうすればいいの」
惰性。
その一言に尽きる。
夫と開いた店をただ、夫と過ごした日々を再現するかのように続けただけだ。相手がどうとか商売がどうとか、考えたことはまるでない。客が来ないのも当たり前なのだ。
頭ではわかっている。
でも。
「これしかないの。店を守ろうとしても、ほかに方法なんて」
批難というより、もう愚痴だった。夫に先立たれ、自分だけがこの店に取り残された。夫の後をさっさと追えば潔かっただろう。でもそれは、夫の『店を頼む』という遺言が止めた。夫は多分、私には生きてほしかったのだろう。けれど、これでは死んでいるも同じだ。生きているとは言えない。一気に死ぬか緩やかに死んでいくかの違いだ。
生涯をともに生きると誓った男を失い、その忘れ形見の店とただ心中する女。
それが今の私。
「つまり店を続ける気概はまだあるわけか。あー、よかった」
彼は心底安堵したような顔をして立ち上がった。
「それならまだやりようはいくらでもある」
懐から銀貨を取り出して並べていく。
「また来ます」
お代を置いていき、彼は去っていった。
ただおちょくりに来ただけなのだろうか。
銀貨を拾い集める私は、多分そうではないと思った。
根拠はない。
でも、なんだか彼が本当にまた来る気がしていて、そのとき彼は私の思いもしないことをして――――
――――良くも悪くも、何かを変えてしまいそう。
そんな期待や不安があった。
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