case1 余命 「終」
もう十分生きた。
欲をいえばきりがない。
何も望まない。今のままでいい。私は彼にそう言った。
「トモエさんは強いね」
強いのだろうか。
単に事実を受け入れた、それだけだ。本当に彼が私の病気を治せるとしても、何か自然の摂理に逆らっている気がしているだけ。
新しい一歩が踏み出せない。
そういう意味では弱いのだと思う。
やがて空が赤く染まり、夜が始まろうとしていた。
トモエとワタルの会話は、見た目の年齢差を感じさせない程よく弾んだ。
青年は彼女が子供の頃の話も、彼女が祖父母から聞いた昔の話も、何でも知っていた。古い友人と話しているような気になる。
亡くなった夫が定年退職する少し前、父が他界し、後を追う様に母も。自分たちの老後の事を考えて、両親が住んでいたこの家に引っ越してきた。それ以来友人達とは会っていない。
みんな、元気にしているだろうか。
彼がふと、遠くを見つめた。
私も同じ方を見た。何もない。いつもの山と田園風景。
そろそろ夕食の準備をしないと。今日は久しぶりに二人分作らなくちゃ、なんて思っていると、青年が立ち上がった。
「ごちそうさま。そろそろ行くよ」
何気ない言葉だが、深い意味があると感じた。
「どこへ、行くの?」
青年に尋ねた。
「そうだなあ。人のいない静かな所で、ゆっくりしようかな」
よかったら一緒に食事でも、と誘ってみたが、青年は断った。もっと大切な人とすればいいと言われた。
それに、と彼は続ける。
「もうすぐ来客があるから」
客? こんな時間に誰が来るのだろう。
クルマの近づく音。
タクシーが私の家の前に止まった。
「兄さん、お金!」
「待たせとけ」
そんな声が聞こえて、足早に誰かがやって来る。
長男だった。
私を見るなり、怒鳴りつけてきた。
「何だよあのメールは。余命宣告って何だよ!」
すぐ後に次男が来た。まあまあ落ち着いて、と長男をなだめる。
「しかしよく回線が繋がったね。この辺の通信機関はマヒしてるのに」
と次男。
何のことだろう。
「すぐ近くで騒ぎがあったから心配してたんだ。とりあえず無事でよかった」
ますます何の事か分からない。
「何かあったのかい?」
二人の表情が変わった。
次男にテレビを観て、と促された。点けてみる。
上空から映された街。緊迫したアナウンスと黒煙が上がる何処かのビル群。次男が言った街の名前を聞いて驚いた。すぐ近くの街だ。何か大きな事故があったらしい。
この街は、病院から家に帰るのに通ったはずだが・・・・
そうか、私はあの青年に!
そこでようやく青年がいないことに気がついた。
「母さんの家の近くで何か大事故があるわ、変なメールを送られてくるわで、こっちは大急ぎで駆けつけたんだ。全く、タクシー捕まえるのにどんだけ時間かかったと思ってるんだ」
何に腹を立てているのか、長男。
「とにかく、病気の事とか詳しく聞かせて」
そう言って縁側に座る次男。
そこは、さっきまで青年がいた場所。
息子たちの心配をよそに、私の頭の中は、青年の事でいっぱいになっていた。
それからひと月が過ぎた。
近くの街の被害は相当だった。何千という人が死傷し、建物が倒壊していた。テレビの中でしか知らないので現実味は薄い。それでも食品や生活用品などが売り切れになっていると、やはり現実なんだと感じた。
この災害の原因は今だに不明らしい。
ただ、多くの目撃情報によると、ある二人の男性がこの災害に深く関与しているらしい、とお昼の番組で言っていた。彼らが通り過ぎた後、ビルが倒壊しクルマが爆発したそうだ。警察や政府はテロリストの犯行ではないかとの見方をしており、引き続き調査をしている、だそうだ。
なんとも物騒な世の中だ。
そんな番組やニュースのなかで、気になる事があった。
二人の男性についての目撃談だ。
多くの目撃者に共通する彼らの人物像。まず、ひとりは欧米系の外国人だったこと。
もうひとりは日本人で、二十代前後の顔立ちなのに髪の毛が真っ白だったこと。
私にはあの青年しか思い浮かばなかった。
さらにひと月経った。
交通機関は一部復旧し、私は病院へ行った。
何となく、何となくだが、体調が良くなっている気がしたからだ。今度は息子たちも同席して、検査結果を聞いた。
信じられない事だが、不治の病が完治していた。
医者は、現代の医学では説明できない、を連発した。
息子たちは納得いかないまでも、素直に喜んでくれた。
私には分かっていた。
あの青年が歩道橋で助けてくれた時。私のおでこに手をつけた時。病魔はすでに消えていたんだと。
そして何も望まないと言った私の本当の気持ちを。
彼はまだ生きているだろうか。もう一度彼に会えたなら、ちゃんとお礼を言おう。
私はそう思った。
了
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