case1 余命 「始」

 このまま転べば大ケガは免れまい。

 もう自分の意思で転倒を止めることはできない。

 打ちどころが悪ければ、このまま・・・・!

 

 体がフワリと浮いた気がした。

 「大丈夫?」

 顔の上から声をかけられた。

 二十代くらいの若い青年。真っ白な髪の色が印象的だった。

 どうやら倒れかけたところを受け止められたようだ。いわゆるお姫様抱っこの状態。

 彼はそのまま階段を上がり、

 「立てる?」

 と尋ねてきた。

 私がはいと答えると、ゆっくり降ろしてくれた。誰もいなかったが、少し恥ずかしくなって、顔が紅潮した。

 懐かしい感覚だった。


 「ありがとうございました。助かりました」

 そう言って彼を見ると、無表情で遠くを見つめていた。

 普通ならちょっと態度悪いな、と思うところだが、不思議と嫌な感じがしなかった。

 華奢な体だが背は高い。次男は身長が百八十センチあるが、それよりもかなり高い気がする。二メートル近くありそうだ。

 どう言葉をかけていいのか迷っていると、青年がこっちを向いた。

 目が合うとドキッとした。

 「ちょっと待って」

 彼はそう言って手のひらを私の顔に近づけた。

 私のおでこに軽く触れた。されるがまま、暫くじっとしていた。体全体が暖かくなって、このまま眠ってしまいたい気分に。

 元の体温に戻った時、青年の手が離れていて、私が一瞬意識を失っていた事に驚いた。


 「大変だったね」

 抑揚のない口調で青年が言った。

 え?

 私は青年が何の事を言っているのか分からなかった。

 「僕はワタル。不死鳥と書いてシナズトリ、不死鳥ワタルです。はじめまして、トモエさん」

 青年はそう言って握手を求めてきた。

 握手をしてから、彼が何故私の名前を知っているのか疑問に思った。尋ねる前に彼が開口した。

 「僕には君の望む事を、ひとつだけ叶えてあげることができる。このまま次の駅まで一緒に歩いて行くから、それまでに考えて」

 青年はゆっくり歩き始めた。つられて私も歩き出す。

 歩道橋の上は誰もいない。彼と私だけ。

 二十代くらいの青年。孫とそれ程変わらない年齢なのに、何だろうこの安心感は。

 「どうして私の名前を?」

 そう尋ねると彼は少し困った顔をした。

 「えっと、実は僕も病院にいて、君が精算してる時に偶然名前を見た」

 病院の精算機で支払いをしている時、彼は近くにいただろうか。長身で真っ白な髪。こんなに目立つ人を見落とすはずはない。

 「今はそういう事にしといて」

 彼はそう付け加えて、初めて笑顔を見せた。

 それから駅までの道のりは何も喋らなかった。

 ワタルと言う名前の青年。さっき会ったばかりの青年を、信じた訳ではないが、もしひとつ願い事が叶うなら、と考えてみた。


 病気を治して生きたいか。


 いや、もう十分生きてきた。これ以上生きてても、体が弱っていくばかりで、息子たちに迷惑をかける事になるだろう。


 夫にもう一度会いたいか。


 それも無い。あのヒトは仕事一筋で、家庭の事に関心がなかった。母子家庭に近い生活だった。定年退職してすぐ、風邪をこじらせてあっさり逝ってしまった。悪い人ではなかったが、今更会いたいとは思わない。


 気がつくと、もう駅の目の前に立っていた。

 長身の青年と七十過ぎのおばさん。その奇妙な組み合わせに、通行人は変なものを見るような目線だけ送って通り過ぎていった。

 「どう? 何か決まった?」

 青年の問いに、私は首を横に振った。

 「どういうつもりで私をからかっているのか知りませんが、先程は助けて頂いて有難うございました。ここで失礼させて頂きます」

 そう言って、私は軽く頭を下げ、駅の方へ歩いていった。

 これ以上あの青年と関わらない方がいい。悪い人ではなさそうだけど、少し変わっている。もしかすると、新しい手口の詐欺かもしれない。とにかく人の多い場所に逃げ込めば何もできないはず。交番もすぐそこにある。後ろは振り返らなっかたが、青年が追いかけて来る気配はなかった。


 駅の構内に入ると、何だか駅員も人も慌ただしかった。立ち止まって辺りの様子を伺う。駅員が拡声器でしゃべっていた。

 近くの踏み切りで事故があり、ダイヤが乱れているらしい。復旧に少し時間がかかるそうだ。掲示板を見ると全線不通と表示されていた。


 「帰れないね」

 青年の声に、私は悲鳴をあげそうになった。

 「タクシー乗り場もバス乗り場も、人でいっぱいだよ。どうするの?」

 親切なのか迷惑なのか、青年の事をどう思っているのか、自分でもよく分からなくなっていた。

 とにかく、このまま構内にいても仕方ないので、外に出た。青年の言う通りタクシー、バス、どちらの乗り場も混んでいた。

 私は腕時計を見る。暗くなるまでに帰れるといいが・・・・

 え!?

 私の体は宙に浮いた。

 目の前に青年の顔がある。私は青年に再び抱えられていた。

 人目が気になったが、誰もそれどころではない様子だ。

 「家まで送ってあげるよ」

 そう言って微笑む青年。

 送るって、どうやって?

 次の瞬間、景色が揺れた。


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