第8話 約束



鷹司たかつかさの姫君、ご機嫌よう」


 ふわりと香る酒の匂いに目の前の人物がだいぶ酔っているのが分かった。


「噂に名高い姫君にご挨拶をと思い、参上致した」


 そう言って、美朧みほろ達を隠す几帳きちょうの前にどしりと座り込む男。



伊周これちか様、少し飲み過ぎでは?」


 その男の出現に黄色い声を上げる妹たちを横目に、美朧はくたりとこうべを垂らすその男にそう声をかけた。


「これはこれは、かの美朧姫のお声ではないか。あなたの麗しきお声を聞けただけで、天へ召されそうだ」


 そう言って端正な顔を緩ませる彼に、四の姫と五の姫が声を上げる。



「お戯れはおやめください」


「相変わらず連れませんなぁ」


 ぴしゃりと言い放つ美朧に、何故か嬉しそうに笑みを広げる伊周。



「姫、そろそろお返事をいただけませぬか」


「な、伊周様、このような場でなんと…」


 伊周の言葉に頬を染め、辺りを見回す。


 幸い皆話に夢中で、伊周がここにいることすら気づいていない様子だった。




「以前、かの宴でお会いしてから、あなたのことが忘れられません。今日も箏の音色のなんと美しかったことか…」


「わたくしには勿体ないお言葉ですわ。しかし…」


 これ以上関わるなと伝えようとした時、道隆と話をする長兄 誠信さねのぶと目が合った。



“我が家も生き残りをかけて動き出さねばならぬ”


“そこで美朧。お前と関白家のご子息のどなたかとの縁談を取り成していただけるよう、道隆様に申し出ようと思っているんだ”


 ふと、美朧の思考を兄の言葉が過ぎった。



“関白家のご子息のどなたかとの縁談”


――どうして気づかなかったのだろう。



 誠信の言っていた“どなたか”というのは紛れもなく伊周のことだったのだ。


 伊周は、以前宴で少し話をしてからというもの、事あるごとにしつこく求愛の和歌を送ってきていた。きっと、恋愛ごとに疎い美朧の反応が、他の姫君たちと違い、面白かったのだろう。


 しかし美朧は、都の姫君達から憧れられる伊周とは、とても合う気がせず、恐れ多くも関白家の嫡男の恋文を無視し続けていたのだ。



 そして、その事をどこかで知った兄 誠信が、再び美朧と伊周を引き合わせるためにこの宴を開いたに違いない。


――お兄様の馬鹿!


 美朧は几帳きちょうの先にいる伊周の頭越しに、チラチラと視線を送る長兄を睨みつけた。



「お姉様」


 隣にいた四の姫が、黙り込む美朧にさすがにまずいと思ったのか小さく声をかける。


「分かっているわ…」


 そう小さく返すも、目の前の伊周に返す言葉が思いつかない。


 だいたいこの人は美朧のことなんて好きではないのだ。ただ、狙った獲物が自分に興味を持たないから狩猟本能が刺激されているだけ。



「――伊周殿、なんと羨ましい所においでか。私もご一緒しても?」


 そう言って、見下ろす影に驚いて視線を上げる。


「これは、月影宮つきかげのみや様。」


 先程横笛を吹いていた彼が目の前に立っていた。


 間近で見る彼の美貌に思わず息を呑む。美朧はこんなに容姿の整った殿方を見たのは初めてだった。


 次兄の斉信ただのぶも、目の前にいる伊周これちかも、とても整った綺麗な顔をしているが、あくまで男性的な美しさで、彼の性別を越える美しさとは別物だった。



「貴方様から姫君の元へ参られるなど珍しい」


 邪魔をされたのが気に食わないのか、伊周は少し棘のある言葉を向けた。


「先程の箏の奏者とお話がしたかったものですから。お邪魔ですか?」


「とんでもない。宮様が何をおっしゃっるのですか。

私は父に用がありますので、失礼いたします。どうぞ、ごゆっくり」


 伊周はいづらくなったのか、そそくさと退散して行った。



「…ありがとうございます」


 伊周が立ち去った後、月影宮つきかげのみやにそう言葉をかける。



「はて、何のことでしょう?

私はあなたとお話がしてみたかっただけです」


 空気が澄み渡るような優しい声に、胸が高鳴るのを感じる。


「あ、申し遅れました。わたくし、先の太政大臣 藤原為光の娘 美朧と申します。お見知り置きを」


「堅苦しい挨拶はやめましょう。

私のことはご存知ですか?」


「はい…」


 今さっき知りました、とは言えず、そう返した。



「それは光栄です。

して、美朧姫。あなたにお聞きしたいことがあるのですが…」


 本来なら大嫌いな名前なのに、この人に呼ばれるとすごく素敵な名前に思えてしまうのが恐ろしい。


「なんでしょうか」


 彼が聞きたいことの見当が全くつかない。



「失礼ですが…」


 月影宮はそう言って、横で呆然と美朧たちのやりとりを聞いていた四の姫と五の姫に視線を向けた。


「お姉様、私たちはもう下がりますね。ごゆっくりどうぞ」


 すると察しのいい四の姫がそう言葉を返し、未だ呆然としている五の姫を連れて立ち上がった。


 そして、四の姫は五の姫を半分引きずるようにして、北廂から対の屋の方へ戻って行った。



たけ姫…」


 さすが四の姫だ。外向的で知り合いの姫も多い彼女の察する力は半端ではない。




「妹さんたちには申し訳ないですね」


「いえ、そろそろ夜も深いですし、戻るには良い頃合です」


「ならば良いのですが…」


 月影宮は申し訳なさそうに綺麗な額に皺を寄せた。



「あの、それで聞きたいこととは…?」


「そうでしたね」


 月影宮はそう言って、目を伏せた。



「美朧姫、あなたはもしかして…見鬼けんきさいがあるのでは?」


 美朧はその言葉に目を見開く。


「え、あの、どうしてそれを…」


「先程の合奏の際、煙白けむりじろひかりがあなたには見えていたようだったので」


「あ…」


 先程箏を弾いている時に、腕に絡みついてきた青白い煙を思い出す。



「あの、このことは…」


「安心してください。他言はしません。

ただ、もしそうならば手伝って欲しいことがあるのです」


「手伝って欲しいこと…?」


「はい。

先程、私の横笛の音によって、煙白の光が消滅したのをご覧になりましたね」


「そういえば…」


 あの時は、月影宮の美しさと昔杉林で会った少年のことで頭がいっぱいで、さほど気にしていなかったが…。


 確かに、月影宮の奏でる横笛の音色によって煙白の光が消えて行くのを見た。



「私はあの時、横笛を使って術を使ったのですよ」


「術?」


「えぇ。私は兵部卿としての仕事の他に、術を使ってあやかし荒魂あらみたまを鎮める、そんな仕事もしているのです」


 そう言って口角を上げる月影宮。


「そこであなたにそのお手伝いをお願いしたい」


あやかし荒魂あらみたまを鎮める…陰陽師のようなことですか?」


「まぁ、簡単に言うとそうですね。

お手伝い、していただけますか?」


 月影宮はそう言って美朧を真っ直ぐ見据えた。



「あの…」


 あやかしの姿が見える“見鬼の才”と呼ばれる力を自分がもっていることは知っていたが、それを使って何かをしようなんて考えたこともなかった。


 それになるべく妖とは関わりたくない…。



「私……」


「朧姫、私にはあなたが必要なんです」



“できません”


 そう伝えようとした時、美朧の声に被せるように、そんな切なさを含んだ月影宮の声が響いた。



「駄目、ですか?」


 眉を下げ悲しそうな表情でそう言う月影宮に、胸が締め付けられる。



「あの…」


 そんな声に月影宮がゆっくりと顔をあげる。瞳が不安そうに揺れ、潤んだ瞳が星のように煌めいていている。



「ーー…私で、よければ」


 美朧は月影宮のそんな瞳に負け、気づけばそう返していた。


「本当ですか?

 ありがとうございます」


 美朧の返しに、月影宮は満足そうに笑みを広げる。



「では、また後日。

 こちらにお邪魔しますね」


 月影宮はそう言うと美朧に笑みを向け、殿方たちの集まる宴会場へ戻って行った。



――いったいなんだったの…。


 予想外の展開に美朧はどうしていいか分からず、しばらくその場から動くことができなかった。



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