第6話 月の宴 2



 寝殿へ入ると、美朧たちの姿が見えないよう几帳きちょうが並べられていた。その奥の広間に兄達や、主賓である道隆、その子息達の姿が見えた。


「やっぱり道頼様はいらっしゃらないわね。残念」


 客人たちの顔ぶれを見て、四の姫がそう呟く。


「儼姫…!」


 ――…もし聞こえたらどうするの。


 勝気な妹の言動を嗜める。しかし、聞こえる心配はなさそうだ。皆すでに出来上がっているようで、上機嫌な声が聞こえて来る。



「いやはや、そろそろ都一と謳われる鷹司たかつかさの美姫たちをお連れくだされ。この道隆、それを楽しみに参ったのだが?」


 一際大きな声でそう話すのは、この国のまつりごとを統べる関白 藤原道隆その人だった。大分酔いが回っているようで、所々呂律が回っていない。


「この宴の主役である月の輝きにも劣らぬ、美しい箏の音を楽しみにして参ったのだ」


 そう言って愉快そうに笑う道隆に、胸の鼓動が早まり、手足の先が冷えていくのを感じた。



「お姉様の出番ね」


 そう耳打ちする四の姫に小さく頷く。美朧は今日、殿方たちに箏を披露するという大役を任されていた。


「大丈夫よ。お姉様の箏は忯子お姉様直伝だもの」


 そんな五の姫の言葉に覚悟を決める。


 美朧は、用意された箏の前に座ると、磯貝に目で合図を送った。磯貝は足を擦らせ、誠信の後ろに立つ几帳から準備が整ったことを知らせた。


 誠信は近くに侍る家来に命じ、美朧の手元を照らす灯り以外の火を消させた。すると、暗闇の中、御簾越しに美朧の影が浮かび上がった。それを合図に、薄暗くなった客席が静まり返る。


「今宵は、闇を照らす、月の精の奏でる音色をお楽しみくだされ」


 誠信の言葉に美朧は大きく息を吸い込んだ。



 客人たちは緩やかに流れ始める箏の音に引き込まれるように瞼を閉じた。


 月の光が庭の池を照らし、風に揺れる水面がきらきらと輝く。静まりかえった世界の中に、箏の音だけが響き渡る。


 そんな神聖な空気に、酔いの回った客人たちも皆息を呑む。その場にいる全ての者が音色に酔いしれていた。



 そんな中、美朧だけは心中穏やかではなかった。箏が苦手な美朧が何度練習しても上手く弾くことができない箇所が近づいていたからだった。


 それさえ乗り切ることができれば、美朧は女主人としての役目を無事に演じ切り、皆から喝采を得ることができるだろう。



 そんな時だった。


 青白い煙が美朧の視界に映った。




――これは…。



 確か、“煙白の光”。


 力の弱い妖達が絡まり合い実態を無くしたもの。楽器の奏でる音色に集まりやすく、空気を澱ませ、音色を狂わせる。



――そんな…。あと少しなのに。



 美朧は手首に絡みついていく煙白の光に、絶望を感じた。



 その時、空気を浄化するような一つの音色が宴会場に響き渡った。


 その場にいた客人は驚いたように響めき、皆がその音色の方へ視線を向けた。



 そこには一人の美しい公達が立っていた。


 この世のものとは思えない透き通る美貌に、すらりとした姿体。横笛を操るしなやかな指先は、音色に合わせて華麗に舞い動く。


 その場にいた全ての人が彼に魅了され、この瞬間を逃さぬよう息を止めていた。



 老若男女全ての人の心を奪う伏し目がちな美しい瞳が、ゆっくりと美朧に向けられる。


 そして目が合った瞬間、美朧は箏を弾くことを忘れ、目を見開いた。



――まさか…。



 幼き頃の記憶が美朧の思考を駆け巡る。



「…お姉様!」


 そんな美朧に三の姫が慌てて、箏を弾くよう促した。


「ごめんなさい」


 美朧は笛の音に合わせるように再び箏を奏で出した。幸い、全ての人が彼に夢中になっていたため、美朧の手が止まっていたことに気づかなかったようだ。



 いつのまにか苦手な節は過ぎており、最後の節に差し掛かった。箏を奏でながら、横笛を吹く男をまっすぐ見つめる。


――なんて綺麗な人なの…。


 美朧は最後まで、この世のものとは思えない尊い輝きを放つその人から目が離せなかった。



 そうして、一瞬のようで一刻のようにも感じた、その演奏が終わりを迎えた。世界の全ての音が無くなったように静まり返り、その後大きな歓声が上がる。



「なんと素晴らしい!」


 道隆のそんな大きな声が響き渡る。


「噂に名高い鷹司の美姫と麗しき月影宮の合奏を見せていただけるとは、今宵はなんと運の良いことか」


 道隆はそれはそれは愉快そうに笑みを広げ、盃を傾ける。


 横笛を吹いていた公達は恭しく礼をするとゆっくりと口を開いた。



「あまりにも美しい箏の音色でしたので、堪

 らず、ご一緒させていただきました」


 月影宮と呼ばれたその人は、そう言うと優雅な足取りで席に戻っていった。



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